記憶を失った私にはどうやら旦那様がいるらしい
ゆっくりと意識が浮上した。
ゆらゆらと揺りかごに揺られているかのような不思議な感覚を経て、ゆるりと瞼を押し上げたミレイユは見慣れない天井にぱちりと一度瞬きをした。
「ミレイユ! 目が覚めたのか!」
声がした方向を向くと一人の男が涙を浮かべてミレイユを見ている。
彼女の記憶にない強面の人物に戸惑いが生まれる。
年のころは二十代の半ばだろうか。見知らぬ人物を観察するミレイユに優しく声がかけられる。
「すぐに医者を呼ぶ」
そう告げて、傍に控えていたメイドに医者を呼ぶように告げた男に、ミレイユは率直な疑問を口にした。
「あの、貴方はどなたですか?」
そうっと口にした問いかけに、男が大きく目を見開く。
目を開いた拍子に眦からぼろりと涙がこぼれた。
「ミレイユ、それはどういう……」
絶望に喘ぐように問われて、罪悪感を覚えながらもミレイユは正直に答えた。
「? 貴方のことを存じ上げません」
▽▲▽▲▽
「記憶喪失……」
ぽつりとミレイユがこぼした言葉は、つい今しがた医者が下した診断結果だった。
どうやら彼女は夜会から馬車で帰宅している途中で事故にあい、頭を強く打ったのだそうだ。
体に怪我はなかったが、頭を打った影響かしばらく目を覚まさなかったという。
そして、目覚めてみればミレイユはここ数年の記憶を失っていた。
ミレイユの中の記憶では、明日成人する十六歳の誕生日を迎えるはずだった。
だが、現実のミレイユは十八歳で、最初に彼女へ心配そうに声をかけてきた男と結婚しているという。
「私、結婚できたんですね……!!」
結婚している、と聞いて真っ先に声に出したのがその言葉だった。
なぜなら、ミレイユの生家リシャール男爵家は事業の失敗などが重なって借金まみれ。
辛うじて爵位だけはある、そんな状態だったからだ。
ミレイユの隣で青い顔で医者の言葉を聞いていた男――ヴァンサム・ビュザンセ伯爵と名乗った人物が、小さく笑った。
「俺が君に一目惚れをして、口説き落としたんだ」
「まぁ」
顔色は悪いがはにかんで告げられた熱烈な愛の告白にミレイユの胸が高鳴る。
ミレイユの記憶では、貧乏令嬢と馬鹿にされ、結婚どころか婚約も決まらなかったというのに。
「あの、でも、我が家の借金は……?」
気がかりなのはそこだ。
恐る恐る問いかけたミレイユに「ああ」とヴァンサムはなんでもないことのようにして告げた。
「全部俺が支払った。妻の実家の支援をするのは当然のことだ」
「まぁ……!」
ミレイユの瞳が輝く。
大好きな家族が借金に怯えることなく暮らしていけることが彼女の夢だったから、ヴァンサムの言葉はただただ嬉しい。
それと同時に、彼への好感度が一気に上がる。
先ほどのはにかんだ笑みといい、顔に似合わず可愛い方だ、という印象を強く抱いた。
「記憶が戻るかどうかはわかりません」
見つめあって二人の世界を作っているミレイユとヴァンサムに医者が少し遠慮がちに口にする。
その言葉を受けてヴァンサムが唇を噛みしめる。
そっと無骨な指先が伸びてきてミレイユの頬に触れた。
「ミレイユ、きっと思い出せる。悲観しないでくれ」
「ええっと」
全然悲観していません、といえる雰囲気ではない。
ミレイユは曖昧に笑ってごまかすしかなかった。
ミレイユにとってビュザンセ伯爵夫人としての日々は平穏なものだった。
記憶を失くした彼女は、昔からつけている日記を自室で見つけて、そこに記されている通りにふるまった。
執事をはじめとする使用人たちはミレイユの事情を知ったうえで、彼女をフォローするように動いてくれる。よく教育されていた。
生家では貧乏だったため使用人など一人もいなかったミレイユは、最初こそ戸惑ったがヴァンサムに「君がこの屋敷の女主人だ」と後押しされ堂々とふるまい続けた。
ただ、一つ困ってしまうのが旦那であるヴァンサムがミレイユの記憶喪失を本人以上に酷く嘆いていることだ。
あの手この手でミレイユの記憶を戻そうとしている。
例えば、ヴァンサムが初めてミレイユを見初めた場所や求婚した場所に連れて行ったり、思い出の場所に二人で足を運んだり、だ。
そのたびにヴァンサムに「なにか思い出しただろうか?」と尋ねられるのがミレイユは少しだけ苦痛だった。
ミレイユとしては思い出さなくてもさして不便はしていない。
それに、思い出せるなら思い出した方がいいのはわかっているが、思い出せないものは仕方ないとも思っている。
愛ゆえの行動だと理解できるから強くは言えないが、ヴァンサムのその行動だけは少しだけミレイユにとってストレスだった。
そんな風に日々を過ごしていたある日、来客が訪れた。
ミレイユの十六歳までの記憶にない人物――ヘレナ・ジェルマン子爵令嬢と名乗った彼女はヴァンサムの幼馴染だと主張した。
ミレイユより二、三歳年上に見える女性だ。
昔からビュザンセ伯爵家に仕えている執事にこっそり確認したところ幼馴染なのは事実だそうなので、応接室に通したのだがヴァンサムは仕事で王城に行っている。
どうしたものかしら、と思いつつミレイユは困りつつも、放置することもできずに応接室へと足を運んだ。
ノックをして室内に入り、カーテシーをする。
「お待たせしました、ヘレナ様。今日はいったいどうなさいましたか?」
にこりと微笑んでミレイユが問いかけると、ヘレナは上から下まで品定めをするようにミレイユをみてふんと鼻で笑った。
気の強そうな方だな、と思いながらミレイユはヘレナの言葉を待つ。
「貴女、記憶を失ったんですって?」
どこで耳にしたのだろう。そう思いつつもミレイユは肯定も否定もしなかった。
静かに沈黙を守るミレイユに、ヘレナがあからさまに蔑んだ視線を送ってくる。
「元々伯爵夫人にふさわしくなかったけれど、記憶を失ってヴァンサムのことを忘れたような人にビュザンセ家は任せられません。今すぐ離縁して実家に戻りなさい」
居丈高に言われると、少し苛立ってしまう。
だが、ミレイユはそんな内心を綺麗に隠して微笑み返した。
「それは私や貴女が決めることではありません。ヴァンサム様次第です」
ミレイユだって貧乏な男爵家の令嬢が伯爵夫人など不釣り合いだと思う。記憶を失っているならなおさらだ。
とはいえ、ヴァンサムがミレイユを必要としてくれるなら傍にいたいと願っている。
ミレイユの言葉にヘレナが目を見開く。震える拳を握って、ヘレナが口を開いた。
「貴女はっ! 私からヴァンサムを奪っておきながら……!!」
(ああ、この人は恋をしているのね)
そう思った。ヘレナはヴァンサムに恋をしている。
だから、妻であるミレイユを敵視しているのだろ。とはいっても。
(結婚してもう二年はたっているはずよね……?)
二年もの間、人の旦那様に横恋慕するのはどうなのだろう。疑問はするりと口から零れ落ちた。
「ヴァンサム様は私の旦那様ですが」
「っ」
直球で告げたミレイユの言葉にヘレナが顔を真っ赤にしている。
困ったな、と眉を寄せたミレイユの前でヘレナがソファから立ち上がった。
「絶対に後悔させてみせますわ……!」
「はぁ」
睨みつけられて言われた言葉に間の抜けた返事をしてしまう。
そのまま応接室から出ていくヘレナを見送って、面倒なことにならなければいいけれど、とミレイユはため息を吐き出した。
▽▲▽▲▽
(やっぱり面倒なことになったわ)
夜会に出席したミレイユはこっそりとため息を吐きだした。
ようやくヴァンサムから夜会に行く許可を得て出席したのだが、ミレイユに関する良くない噂が回っている。
「ビュザンセ伯爵夫人は記憶があいまいだとか」
「旦那であるヴァンサム伯爵のことも覚えていらっしゃらないと」
「そんなご様子で伯爵夫人が務まるのか」
聞こえるような距離と声で囁かれる噂話は事実ではある。だが、公表はしていないことだ。
噂の出どころなど、一つしか思い当たらない。ヘレナだ。
(どうしたものかしら)
手に持った扇を開いたり閉じたりしながら考える。ヴァンサムに迷惑はかけられない。
記憶を失くしたミレイユを温かく守ってくれた彼のことが大好きだから。
今日の夜会はヴァンサムのエスコートで入場した。彼の耳に噂話が届くのも時間の問題だろう。
「記憶喪失など、本当にあり得るのか。不倫を隠すために記憶喪失を装っているのでは」
「納得ですわ。馬車の事故で無傷というのもおかしな話だものね」
(ああ~、めんどくさい。尾ひれがついているわ……)
申し訳ないけれど、最低限の挨拶をすませたら帰らせてもらおう。
そう決めてミレイユは会場に入ってすぐ他の貴族に呼び止められ傍を離れたヴァンサムの姿を探した。
夜会の開かれている大きな広間を歩きながらその姿を探していると、なにやら人だかりができている。
なんだろう、とミレイユが視線を滑らせると、聞きなれた声が聞こえてきた。
「お前は! どういうつもりだ!!」
「私は! ヴァンサムのことを思って!!」
(ヴァンサム様……?)
女性の声はヘレナのものだろうか。
慌てて人ごみへ向かうと、周りを見物していた貴族たちはミレイユの姿を見るとさっとよけてくれた。
ミレイユの眼前に広がったのは、ヘレナを叱責しているヴァンサムと涙ながらに彼に縋りつこうとしている哀れな女の姿だ。
「ヴァンサム様、いったいどうされたのですか」
「ミレイユ!」
緊張しつつミレイユが声を発すると、勢いよくヴァンサムが振り返る。
その表情に怒り以上に困惑があることを見て取って、ミレイユは眉を顰めつつヴァンサムの隣に並んだ。
「すまない。少し熱くなってしまった」
「……噂の件でしょうか」
「そうか……ミレイユの耳にも入ってしまったか……」
後悔を滲ませるヴァンサムの表情に痛みを覚えながら、ミレイユはヘレナを見る。
怒りで眉を吊り上げている彼女にため息しか出てこない。
「状況を教えてください。ヴァンサム様」
「……俺は、記憶を失くしたミレイユの補佐を頼むとヘレナに伝えていたんだ。それがどうだ。会場ではミレイユの記憶に関して、根も葉もない噂が出回っている。ヘレナを問い詰めてみれば『貴方のためです』などと戯言をいう」
つまりヘレナを信用してミレイユに関することを教えたのに、裏切られたということだ。
ヴァンサムの言葉にヘレナが甲高い声を上げる。
「だって! 記憶喪失なんて嘘に決まっているもの!! そんなことをしてまでヴァンサムの気を引きたがるなんて……!!」
「そもそも、人の旦那様を呼び捨てにしないでいただけますか」
冷えた声がでた。自分でも驚くほど感情を宿さない声だ。
隣のヴァンサムが驚いたように「ミレイユ……?」と呼び掛けてくるのをスルーして、ミレイユはまっすぐにヘレナを見る。
敗れた恋を諦められない、無様な女性。
「私のことはなにをいっても構いません。記憶喪失は嘘ではありませんし。ただ、それによってビュザンセ家に害をもたらすのであれば、相応の対処を考えなければなりません」
「なにを……!!」
「貴女はなにをしたいのですか。私を排除して後妻に収まりたいのですか?」
ミレイユの問いにヘレナが目を見開く。まるでそこまで考えていなかった、と言わんばかりの表情に、ミレイユは浅く息吐く。
「ヴァンサム様、私がいま貴方の傍を離れたとして。ヘレナ様を後妻に向かえる未来はあり得ますか?」
「ありえない。俺が愛しているのは未来永劫ミレイユだけだ」
「っ」
力強く断言したヴァンサムの言葉に、ヘレナが拳を握りしめ下を向く。
ミレイユはにこりと微笑んでとどめを刺した。
「とのことです。どうか人の旦那様に横恋慕するのはやめて、まっとうな恋をしてください」
ミレイユの言葉にヘレナが力なくその場にヘタリこむ。
だって、と呻いている彼女を置いてミレイユはヴァンサムの腕に手を添えた。
「ヴァンサム様、帰りましょう。私、疲れてしまいました」
「そうだな」
「ヴァンサム……!」
絞り出すように呼ばれた名前にも、延ばされた手にも。ヴァンサムはヘレナを一瞥すらすることはなかった。
帰りの馬車には沈黙が下りていた。
ヴァンサムと向かい合って座ったミレイユは、そっと息を吐き出して、背を伸ばす。
そして、頭を下げた。
「申し訳ありません」
「なにを謝るんだ」
少し慌てた様子で肩に手が置かれる。
そっと視線を上げると困惑した様子のヴァンサムの表情がみえて、ミレイユはほっと息を吐き出した。
姿勢を正して、言葉を紡ぐ。
「ヴァンサム様の幼馴染の方に、手酷い対応をしました」
「いや、あれはヘレナが悪い。ミレイユが謝ることではない」
「……幻滅、していませんか」
そっと本当の疑念を口に出す。
ヘレナに嫌われるのはどうでもいいが、ヴァンサムに捨てられるのは嫌だった。
記憶を失くしてなお、ミレイユに優しい人だ。
きっと記憶があったころはもっとたくさん愛してもらえていたのだろうと思える。
ミレイユの問いかけに、ヴァンサムは僅かに目を見開いて。それから。
「そんなこと、あるはずがない」
「記憶が戻らなくても?」
「……正直に言うなら、記憶は戻ってほしい」
やっぱり。視線を伏せたミレイユの手にヴァンサムが手を重ねる。
そうっと視線を上げると、甘やかに微笑むヴァンサムがいた。
「だが、記憶を失くしていてもミレイユはミレイユだ。そう思える。だから、記憶が戻るに越したことはないが、記憶がなくとも私の隣で笑っていてほしい」
「ヴァンサム様」
「君を口説くのに苦労したんだ。こちらこそ、見捨てないでくれると嬉しい」
その言葉があまりに愛に満ちていたから。痛いほどの愛情が感じられたから。
たまらずミレイユは馬車の中だというのにヴァンサムの腕の中に飛び込んだ。
優しく背を撫でてくれる手を、二度と手放さないと決めて。
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