黒恵の終焉
開かれた目に飛び込む景色は大いなる闇だった。星々が輝く夜の闇を侵食する海の色はタンザナイト。アゲートの夕空は果たしてどこへと消え去った事だろう。
終末時計の針は進んでいるだろうか。見渡す限りの海は終焉をもたらしていて、動かす役割を持つ者など生きていないのだと確信に至った。
黒恵は夜空を見上げる。不可視のタンザナイトの海に閉ざされて行く世界、窮屈なそこは死という空間が広がるだけなのだろうか。
「この目に映るセカイは終わるだけ」
流れる星々は時をも流しているように見えている。その動きはかつて黒恵が生きていた場所を、愛おしい日々をも過去に変えてしまったのだと笑いかけてくる。あの時の輝きがせめて星と言う形で残されてはいないものかと探ろうとして、すぐさま馬鹿馬鹿しさを覚えてしまった。
「死の目で見なくとも、見えるんじゃないかい」
空に透けて薄っすらと輪郭を描く何か。大空を進むそれはまさに大海を泳ぐクラゲやクジラ。自由気ままに生きる姿、人をも認識していないそれはかつてエイを象った霧を見つめた時の感覚に似ていた。
「憧れはしないんだけども」
あの時のような独特な感情は感じられない。一応は世界に息づいていたあの現象にはあの現象しか持たない感情を見て憧れを抱いていたような気がした。
「腹は減ったけれど」
空にはいないのであれば足元を。そんな考えで見つめた地面はタンザナイトを思わせる蒼と何も持たない無色を同時に併せ持つという矛盾の塊の液体にひたされていた。そこで薄っすらと撫でられるみなもに揺れるガラス質の花の束を見付けてため息を吐いた。やはりこの世界は変わり果ててしまった。もう、タンザナイトの名の由来とされている国の名も死滅した後だろう。
ふと、宙に浮いているリンゴを見付けて足を踏み出す。何も履いていないまっさらな素足がこの世界の色彩の中で浮いてしまう。足元のガラス質の花々は踏むだけで割れてしまい、星の輝きに溶けて消えてしまう。
歩みを進める事で肌を擦る感触で気が付いた。黒恵の身を包むのは薄い紫の布。それを裾が大幅に破れたドレスのように着こなして、胸を覆う黒のコルセットで留めている。その真ん中には赤いバラが咲いていた。
「こんな格好初めてだね」
リンゴを手に取り歯を当てる。ガラス質のそれは抵抗一つ見せずに砕けて中身のがらんどうを晒す。ガラスなのだろうか、氷なのだろうか。星の輝きすら忘れて冷えた惑星のようで、失われた心臓のようで、血の紅を注ぎたくなってしまう。
相変わらずの無色のタンザナイトをイルカが泳いでいる。クラゲは月すらないそこを漂い続けている。幻想的なそれは思う事すら拒みたくなってしまう。本能が見てはならないと告げている。目が合ったら終わりだと叫んでいた。
ますます広がる闇は燃え上がる星のメリーゴーランドを燃やし尽くして消し墨へと変えてしまう。
視点を大地へと、今へと変えて追憶を重ねる。
透明なティーポットを、大地に息づく星のティーセットを目にして壊さないよう慎重に椅子に腰かけてティーを注いだ。注がれたお茶は何色だろう。記憶の中の色彩が失われ、かつてのやり取りの破片だけが耳元で味を滲ませていた。
――あの日、能力を得たんだ
知ってか知らずか、相手は能力を秘めた茶で黒恵の命を奪い去ろうとした。そんな記憶だけが残っていた。
立ち上がり、見回して駅の存在と不在を同時に確かめる。在る事と無い事が同時に展開されていて何も展開などされていなくて。海のように見える無が広がっているだけ。
夢かうつつか見分けがつかない。そんな中で誰かの声が聞こえた様な気がして振り返る。
そこにあったはずの笑顔は残像となり、擦れて消えてしまっていた。
「それすら覚えていないのかい」
落胆するものの闇は複雑すぎて想いに乗ってくれない。気を落としても星は落ちて来ない。救いの六等星などとうに失われてしまっていた。
無を更に見渡して、建物の輪郭を見つめては懐かしさに浸る。
高校時代の部活動で堪能して綴ったはずの本の感想は思い出の中で命を失おうとしていた。本は空気に溶けてしまっていた。あの日々の中で食べていたはずのものは舌の上には残されていない。味覚はもう何も覚えていなかった。
宇宙という冷え切った空間の中で星は燃え上がる。黒恵という小宇宙が冷え切っている間にも命は燃え上がっては力を失おうとしていた。
「私はもう、長くはないな」
最後の人類は生きているという認識を、生きる感覚を失おうとしていた。覚えていたはずのものを全て失ってしまうという事に寂寥感を覚えずにはいられない。
弟とその彼女の事を思い返す。恋人同士だとからかうと口を揃えて否定していた。事あるごとに繰り返す事しばらく経って真実となって、結婚した後にも同じからかいを飛ばし、否定を頂くと共に黒恵は恥を見てしまった。
結婚したのなら、恋人同士でないのは当たり前なのだと。
爛れた世界に萎んだ空気、全てを蝕む今と言う闇。
その星彩は星をも飲み込み、死という言葉の色すら寄せ付けない果てしなき無が広がっている。
やがて世界はどこを見回してもどこまで見渡しても見通すことの出来ない大いなる無の色を持って理解不能の盃を充たしていた。