死に戻ったら、婚約者が女装していた件
――私の婚約者は、女装をしている。
貴族としてはあり得ないし、王族としてはもっとあり得ないことだ。
でも、子供の頃から彼――彼女? いやいや、彼は女装を続けていて。なんとなんと、周りの人間もそれを受け入れてしまっているのだ。
その原因は、私と彼を取り巻く数々の噂。
いわく、殿下の婚約者は幼い頃に誘拐され、男性恐怖症となった。
いわく、そんな私を怖がらせないため、殿下は女装をするようになった。
いわく、これこそが『真実の愛』なのだと。貴族令嬢を中心として美談になっているらしい。
しかも最近では私たちをモチーフとした物語が小説となり、演劇となり、貴族から庶民まで広く楽しまれているのだとか。……さすがに自分のことを面白おかしく脚色された物語を読む勇気はないので、詳しいことは知らないけれど。
とにかく。私の婚約者は幼い頃から女装をしている。これだけは変えようのない事実だった。
そんな私の婚約者、クリストファー様は毎朝私を迎えに来てくださる。二人とも同い年で、貴族学園に通っているためだ。
ちなみに『クリストファー』は男性名だけど、愛称である『クリス』だと男女ともに使える感じになるので、女装しているクリス様の名前としても違和感はない。
……いやいや、まずは王族が女装していることに違和感を覚えましょうよ私。
なんだか流されているなぁと私が考えていると、クリス様を乗せた馬車が到着した。
馬車から降りてきたのは女子生徒向けの制服に身を包んだ絶世の美女。いや美男子。……いやいや美女としか表現できない。
王族の中でもひときわ美しい金髪は腰まで伸ばされ、朝の風を受けて柔らかに揺れている。
やり直す前数多くの女性を虜にしていた怜悧な目つきは、今はもう見る影もなく。穏やかに、優しげに、美しく。私を見て弧を描いている。
その目の中にある瞳は、サファイアを思わせる深い青。空の色よりなお青く、海の色よりなお奥深い。ずっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうな……。
「リリー、どうかした?」
クリス様が首をかしげる。
まるで女性のような声。
いや、そうだと分かっていると男性のように聞こえるけれど、何の注意もしないでいると女性にしか思えない。そんな不思議な声音だった。
「いえ、クリス様の美しさに見惚れてました。今日もまた可愛らしいですね」
「そ、そうかな?」
ちょっと自慢げな顔をしながら、頬を僅かに赤く染めるクリス様だった。うん可愛い。
たいへん満足しつつ、やはり「女装しているのは私のためじゃなくて、趣味なのでは?」疑惑が湧き上がってしまう私だった。
……いやいや、そんなことはない。クリス様は優しい御方。憐れな私のためにやりたくもない女装をしてくださっているのだ。うん。
「じゃあ、行こうか」
淑女のような見た目で。紳士のように右手を差し出してくるクリス様。
男性から差し伸べられた手を女性が取り、階段を昇り降りするときなどにエスコートしていただく。それがこの国での一般的な所作だ。
そう。女性が、男性の手を。
――男性恐怖症。
私とクリス様の噂はテキトーなものばかりだけど、クリス様が私のために女装してくださっていることと、私が男性恐怖症であることは紛れもない事実だった。
男性恐怖症の私を怖がらせないためにクリス様は女装をしてくださっているし、私も見ているだけなら恐怖を抱くことはない。
さらに言えば。男性恐怖症である私に直接触れなくてもいいよう、クリス様は制服に定められていない白手袋を付けてくださっている。
そんな気遣いを、無下にするわけにはいかなかった。
「……ありがとうございます」
たぶん、いつものように笑えていると思う。むしろ可愛らしいクリス様を見たばかりなので普段より朗らかですらあるはずだ。
なので、大丈夫。
毎日やっていることじゃないか。しかも私だって手袋をしているので、二重ガードだ。
だから平気。
だから大丈夫。大丈夫。大丈夫……。
私は心の中で絶叫しながらクリス様の手を取った。
――ごつごつとした。大きくて、骨張った手。
もちろんクリス様は肌のお手入れを欠かしてしないし、爪の手入れも完璧。生来の指の長さもあってとても美しく、細く、しなやかな手をしている。
でも、それはあくまで見た目だけのお話。
こうして実際に触れてみると、二重の手袋の上からでも『男性の手』であることはよく分かった。
そう。乱暴で、凶暴で、抵抗する私なんて片手で軽々と押さえてしまえるような、男性の手。
――気持ち悪い。
手を離したい。
叫んでしまいたい。
……でも、それがどうしたのだろう?
クリス様は私のために女装をしてくださっているのだ。
私を怖がらせないために、こんなことまでしてくださっているのだ。
そんな彼を安心させるために、男性恐怖症が少しずつ良くなっているのだと思っていただくために、私だって少しくらい我慢しなきゃいけないじゃないか。
女の演技力を舐めないでほしい。
一度やり直した人生経験を甘く見ないでほしい。
心の中で涙目になりながら、それでも表面上は嬉しそうに。私はクリス様にエスコートされながら玄関の階段を降りた。とはいっても、数段だけなのだけど。
普段ならここで一旦手を離し、馬車に乗る際にもう一度エスコートしていただく。
でも、今日の私はクリス様の手を握ったままだった。その状態で手に力を込めたり、緩めたりする。
動悸が酷い。
目眩までしてきた。
それは男性恐怖症のせいか――あるいは、『彼女』のことを口にしようとしているせいか。
しかし顔には出ていないはず。
顔に出ないよう、この十年頑張ってきたのだから。
「……リリー?」
「そういえば、今日は転入生がやって来るのでしたよね? この時期には珍しいので噂になっていましたよ?」
「……うん、そうだね」
忘れもしない。
やり直す前の人生で。私からクリス様を奪っていった男爵令嬢。
……とはいえ、私たちは『家と家が決めた婚約者』でしかなかったのだから奪うという表現もおかしいのかもしれないけれど。クリス様は私のものじゃなかったし、私もクリス様のものではなかった。
私も、クリス様も、お互いのことを形式的な婚約者だとしか思っていなくて。二人の間に愛情なんてものは存在しなかった。
だからこそ、あのような『喜劇』に繋がってしまったのだろうけど。
……もうあんな目には遭いたくない。
だから私は微笑みかけた。せっかくやり直せたというに、再び、こんな私の婚約者にさせられてしまった御方に。望まない結婚を押しつけられようとしている可哀想な御方に。……今回は、優しくしてくださった御方に。
「クリス様のおかげで男性恐怖症も良くなりました。まだ少し緊張してしまうのはお恥ずかしいですけれど……」
恐怖ではなく、緊張。
私はことあるごとにそう説明しているので、クリス様も信じていただけていると思う。
「……いや、気にすることはないよ。リリーは私の婚約者なのだからね」
婚約者だから。
つまり、婚約者でなければここまで優しくはしていただけないのだ。
……婚約者でもないのに親切にしていた、あの男爵令嬢とは違って。
クリス様が損得勘定なしに優しさを注ぎ込んでいた彼女は、今日、学園にやって来る。『前』と同じならばこれからクリス様と『真実の愛』を育みはじめるはずだ。
そうなると、私はクリス様にとって『邪魔な婚約者』にしかならない。
なら、いっそのこと。
「私は、もう、大丈夫です。男性恐怖症も何とかなるでしょう」
「……リリー?」
「ですので、婚約破棄したくなったらいつでも申し出てくださいね? もう、罪悪感に苛まれる必要はないですから」
10年前。婚約者としての初顔合わせの日。クリス様の手を握った私は男性恐怖症を発症。顔を含めた全身に蕁麻疹が出て、気絶してしまったのだ。
この優しい御方は、あの日のことを今でも気にしているに違いない。
だからこそ女装をしてくださっているし、私が男性に慣れるよう、こうして少しずつ触れ合いの機会を増やしてくださっているのだ。
最初、顔にまで出ていた蕁麻疹は、今ではずいぶんと良くなった。
すべて、この人のおかげなのだ。
「リリー……」
少し寂しそうな声でクリス様が私の名前を呼ぶ。
前回とは違い、優しくしていただいたおかげか。今さらながらに惜しくなってしまった私は思わず下を向いてしまい……。クリス様がどんな顔をしたのか確認することができなかった。
◇
私もクリス様も貴族学園の二年生だ。
とはいえ、学ぶことなんてほとんどない。貴族というのは幼少期から家庭教師を雇い、必要な教育を施しているからだ。
ではなぜ貴族学園などというものがあり、貴族は全員通うよう義務づけられているかというと……大きく分けて、理由は二つある。
一つ目は、貴族としての最低限の知識を教えること。
家庭教師を雇えるのは裕福な貴族だけ。下級貴族に教育の機会を与えないと『貴族らしくない』人間が出てきてしまうのだ。
……前回での、あの男爵令嬢のように。
そして二つ目は――お見合い会場のようなものだ。
子供の頃から婚約者がいるなんて上位貴族の中でも限られた人だけ。他の貴族は早々に結婚相手を見つけなければならないので、「僕はこんなに学業成績が優秀です! おすすめ!」だとか、「私はこんなにも魔法の才能があります! 血筋に組み込んではいかがですか!?」みたいな感じでアピールする場となっているのだ。
あとは単純に気が合う人を見つけたりとか。
だからこそ。幼い頃から家庭教師による教育を施され、婚約者もいる私にとって学園生活は暇なものとなる。
……クリス様から婚約破棄されたら別の婚約者を探さなきゃいけないので、今のうちから候補者を探すのも悪くないのだけど……男性恐怖症だものね。むしろ結婚しないで修道院に入ろうというのが私の狙いだったりする。両親も私の男性恐怖症に理解を示してくれているので説得はできると思うし。
まぁ、それはとにかく。
必須ではない授業の時間は教室に行かず、友人との楽しいお茶会を。というのが私の日常となっていた。他の人もこんな感じなので、良くも悪くも貴族学園の伝統なのだと思う。
そんな、朝一での伝統的なお茶会の最中。
「……馬車の中でクリス様が不機嫌だったのよね。いやまぁ、押し黙ったクリス様もそれはそれでお美しかったのだけど」
雑談の一つとして、学園に来るまでの馬車の様子を語って聞かせる私だった。もちろん親友相手なのでクリス様向けよりずいぶんと砕けた口調となる。
「はいはい、リリーが楽しそうで何よりだよ私は」
呆れたようにため息をついたのは私の親友、エリーゼだ。
貴族にしては珍しい黒髪は艶やかに日の光を反射して。白磁のように白い肌はいっそ作り物ではないかと疑いたくなってしまう。
目元はいつも蠱惑的に細められ、真紅の瞳はまるでこの世のすべてを知っているかのような雰囲気を漂わせている。
公爵令嬢らしくない口調だけど、その神秘的な見た目にはとても合っていた。貴族令嬢というよりは、深遠な森の奥に住まう大魔法使い、みたいな?
そんな独特な雰囲気を身に纏うエリーゼは訝しそうに片眉をあげた。
「しかし、あの色ボケ――いや、リリーを与えておけばとりあえず機嫌が良くなる単純男が、リリーと二人きりで不機嫌に? いったい何があったんだい?」
散々な物言いだった。
不機嫌の原因。というと、一つしか思いつかない。
「えーっと、ほら、今日は例の男爵令嬢が転入してくるじゃない?」
「……そうだったね」
エリーゼにはすでに『やり直し』について説明済み――というか、彼女もまたやり直し前の記憶を有していたのだ。
私はクリス様と出会い、男性恐怖症を発症したことがきっかけでやり直し前の記憶を取り戻したのだけど……エリーゼはもっと前からやり直し前のことを思い出していたようで。混乱する私に色々と教えてくれたのだ。
なので、今ではこうして『やり直し前』について相談ができる間柄となっている。
おっと、それはともかく。今の問題は転入してくる男爵令嬢だ。
「あの男爵令嬢が現れたら、クリス様も私を捨てて男爵令嬢に走るだろうし。その時は気兼ねなく婚約破棄してくれていいですよーってお話をね? 今朝したら不機嫌に」
「…………。……なんてことを」
神に祈りを捧げるように天を仰ぐエリーゼだった。そんな姿も様になっている。
「うーん、やはり私の方から婚約破棄を申し出たのは失礼だったかしら? なにせ相手は王族だものね」
「……そうじゃない、そうじゃないんだよ……この鈍娘が」
「にぶむすめ?」
なんか耳馴染みのない単語が出てきたわね? 二部娘? 人生の第二幕を生きているから、とか?
はぁあぁあ、と。盛大なため息をつくエリーゼ。
「リリー。確かに『前』のクリス君はどうしようもないクズ男だったけど、今は違うだろう?」
「そうねぇ。こんな私にも嫌な顔をすることなく接してくださるし……。やっぱり男性恐怖症を哀れんでいてくれているのよね。しかも女装までしてくださっているし。優しい御方だわ」
「鈍娘」
「え?」
「いいかいリリー? 誇り高き王族の男性が、好きでもない女のために、女装なんて、するはずが、ない、だろう? しかも、一時的に、ではなく、常時、だっ」
「ただの趣味なのでは?」
「……今日。私は初めてあの男に同情したかもしれないね……」
再び天を仰ぐエリーゼだった。趣味に生きているのだから同情することもないのでは?
「まぁいいさ。手を出してごらん?」
「はーい」
エリーゼに促されるまま、私はテーブルの上に両手を投げ出した。
慣れた様子で私の手袋を外すエリーゼ。
私の手首から先には――酷い蕁麻疹が出てしまっていた。
私の場合は男性に触れることによる心的負荷が原因……ではないかとお医者様は言っていた。
子供の頃は顔を含めた全身に出ていた蕁麻疹も、クリス様のおかげでここまで軽くなったのだ。感謝感謝である。
だというのにエリーゼは呆れ顔だ。
「まったく……。リリー。こんな風になると分かっているのだから、無理してエスコートをされる必要はないだろう?」
「でも、せっかく女装までしてくださっているのだし。そのおかげでずいぶん軽くなったでしょう? それに、痒くはないし、大人しくしていればそのうち治るもの」
「……やれやれだ」
私の手を撫でながらエリーゼが回復魔法を掛けてくれる。
私たちが最初の授業をサボり、お茶会をするのはこの治療をするためというのもある。放っておいても1~2時間くらいで治るから私はいいのだけど、エリーゼはひどく気にするし。
エリーゼの回復魔法の腕は凄まじく、瞬く間に私の発疹は消え去っていった。
ふぅ、っと。安心したようにエリーゼがため息をつく。
「まぁ、婚約破棄も仕方ないか。手を握るだけでこれだ。結婚生活で『それ以上』のことは無理だというものさ」
「でしょう?」
「……いや、キミねぇ。少しくらい残念がったらどうだい? 発疹が出るのを我慢するほど大切に思っているのだから……」
「でも、それこそ仕方ないじゃない? 出てしまうのは止められないのだし……。こんな姿、クリス様に見せられないもの」
「…………。……蕁麻疹を抑える魔法薬がないか探してみよう。ないなら作ればいい。公爵家の技術を使えばできるはずだ。だから早まってはいけないよ? まだ卒業まで時間はあるのだから、慌てず、ゆっくり考えるといい」
「はーい」
とはいえ、もう今日からあの男爵令嬢は転入してくるのだし。そう遠くない未来私は捨てられてしまうはず。
あ、でも女装しているから前の時と違ってクリス様が避けられる可能性も? ……ないわね。だって女装したクリス様はとても麗しいもの。どんな女性も虜にしてしまうに違いないわ。
私が確信を抱いていると、エリーゼがわざとらしく手を叩いた。
「そういえば。登校中に『マリア』の姿らしきものを見かけたんだけどね」
「――――」
マリア。
それは、前の時に、クリス様を奪っていった男爵令嬢の名前だ。
男爵令嬢にしては珍しい金髪の髪は自然にカールして軽やかで。小動物のようなクリクリとした瞳は同じ女性でも庇護欲をそそられた。
お人形のような。子猫のような。男性からも女性からも自然と視線を集めてしまう。それがマリアという少女だった。
「……どうだった? また高位貴族の男性にばかり声を掛けているの?」
少し、厳しい言い方になってしまったのは私も彼女のことを恨んでいたからだろうか?
あぁ、嫌だ嫌だ。一番悪いのは、クリス様と婚約者以上の関係になれなかった『前』の自分だというのに。
「それがねぇ」
うーん、っと。悩ましげに唸るエリーゼ。いつもズバズバと断言する彼女にしては珍しい態度だ。
「どうかしたの?」
「うん……。まぁ、実際見てみればいいんじゃないかな? ある意味目立つだろうから、すぐ見つかると思うよ?」
「…………」
やり直す前の私とマリアの関係はエリーゼも知っているはず。だというのにそんな物言いをするのは……?
(なんだか、落ち着かないわね)
ちょっとそわそわとしながらも、立ち上がって探しに行くほどの覚悟は持てない私だった。
◇
「――リリーに嫌われたかもしれない」
放課後。
生徒会室で。
この国の『女装王子』にして生徒会会長・クリストファーは机の上に両肘を突き、悩ましげに頭を抱えていた。
……ただし、そんな姿も文句なしに麗しいので、もしも生徒会室にリリーがいればたいへん満足したことだろう。
やり直す前にはリリーも生徒会に入っていて、何かにつけてクリスの補助をしていたのだが……今回は、クリスが誘っても生徒会入りはしなかった。
――リリーにも『前』の記憶があるのだろう。と、クリスは考えている。
以前にはなかった男性恐怖症がいい証拠だ。あんな目に遭った――いいや、クリスが遭わせてしまったのだから男性恐怖症になっても不思議ではない。
だからこそ今回は生徒会にも入らず、クリスとの接触をなるべく少なくしようとしているのだろう。
(だが、やっと私との触れ合いにも慣れてきてくれたというのに……)
10年掛けて自然に手を握れるようになった。もっと時間を掛ければ『男と女』として結ばれるかもしれない。と、クリスは期待していた。
それが幻想だと。リリーに騙されているのだと。良くも悪くも単純なこの男は気づいていない。
だからこそ一度目は男爵令嬢マリアに騙されたし――あんなことがあった二度目も、リリーは彼を見捨てることができていないのだろう。
そんなクリスに対し、宰相の息子・エドワードがため息をついた。エドワードの場合はリリーが『演技』をしているのだろうと薄々察している。
「あの心優しいリリー嬢に嫌われたと? 今度は何をしでかしたのです?」
「わ、私は何もしていない! ……たぶん」
男の友人同士であるおかげか、普段より口調が男らしいクリスだった。……それでも『美人』という評価に揺らぎはないのだから、顔の良さは大切である。
そんなクリスに対し、生徒会室にいたもう一人の男子生徒が鼻を鳴らした。騎士団長の息子、ジョンだ。
「そもそもリリー嬢から嫌われてなかったという根拠は? 前回であれだけの失態をしたというのに、まさか好かれていたとでも?」
「ぬぐっ」
前回。
その言葉が示すように、ジョンも、エドワードも、やり直す前の記憶が残っていた。……深い、深い後悔の念があるからこそ。きっと魂にまで刻まれてしまったのだろう。
かつての彼らは、あの男爵令嬢にすっかり騙されて。恋に惑わされる愚鈍となり。何の罪もなかったリリーを冤罪で処断して、そして――リリーは、自ら命を絶ってしまった。
結果としてリリーはやり直したあとも男性恐怖症となり。
クリスとしてはリリーと離れるべきだと思ったのだが、やり直して戻った時点ではもう、クリスとリリーの婚約は結ばれていた。
王家と公爵家による婚約。それは簡単に破棄していいものではない。やり直す前、クリスによって断罪され婚約破棄されたリリー相手であれば尚更だ。
そしてなによりも。このまま距離を取ってはクリスが罪を償うことができない。
――今度こそ、リリーを幸せに。
その想いでクリスとエドワード、ジョンは結託した。
あんな失敗は二度と起こしてはならない。
そう誓い合ったはずの一人、クリスはリリーから嫌われたかもしれないという。エドワードとジョンが厳しい目を向けるのも当然と言えた。
そんな二人からの視線を受け、クリスは冷や汗を流しながら説明をした。
「い、いや、リリーから、『婚約破棄したくなったらいつでも申し出てくださいね?』と言われて……」
「「あぁ……」」
納得の声を上げるエドワードとジョンだった。
本人に直接確かめたことはないが、リリーにもやり直し前の記憶があるだろうということはエドワードとジョンも確信を抱いていた。二人が覚えているのだから、一番辛い目に遭ったリリーが忘れられるはずがない。
それなのにクリスとの婚約を続けるリリーのことをエドワードは「なんて心優しいご令嬢だ」と心底尊敬していたし、ジョンは「さっさと婚約破棄してやればいいものを」と苦々しく見守っていた。
身分の差があることと、女性であることから公爵令嬢が王族に対して婚約破棄を突きつけることはできない。だというのに『いつでも申し出てください』とまで口にしたのだから――実質的な、淑女からすれば精一杯の婚約破棄宣言といえるだろう。
心優しいご令嬢にも我慢の限界が来たか、とエドワードは納得し。
とうとうあのご令嬢も解放されるときが来たのか、とジョンは感慨深い気持ちとなった。
この場で反対するのは、当事者であるクリスだけ。
「わ、私はリリーと婚約破棄したくない! 今度こそ幸せにするんだ!」
「しかし、当のリリー嬢が婚約破棄を望んでいるのでしょう?」
「ぬぐっ」
「リリー嬢の幸せは、殿下から離れることじゃないんですか?」
「ぬぐぐっ」
エドワードとジョンの容赦ない言葉に二の句が継げなくなるクリスだった。
助けを求めるようにクリスは視線を動かした。生徒会室にいた最後の一人、今まで静観していた女子生徒に。
「え、エリーゼ嬢! リリーから何か聞いていないか!? なぜいきなり婚約破棄なんて!?」
リリーの親友であり、今日もお茶会をしていたというエリーゼにクリスは助けを求める。
彼女が向けてきたのは――氷よりもなお冷たい目。殺意すら込められていそうな瞳だった。
「愚鈍」
「ぐ、愚鈍!?」
「リリーとのやり取り、よく思い出してみてはいかがです?」
王子殿下に対するものなので、普段より丁寧な口調で喋るエリーゼであった。……その前の『愚鈍』で台無しであったが。
リリーとのやり取り……。
「えっと、男性恐怖症が良くなってきたから、もう気にしなくていいと」
「そんな建前はどうでもいいのです」
「え?」
建前なの? とクリスは疑問に思うが、冷たすぎるエリーゼの視線を受けて問い直すことはできなかった。
(お、落ち着け、あのときリリーはなんと言っていた!?)
今朝のことを必死に思い出したクリスは、閃いた。
「あ! そういえば! 例の男爵令嬢が転入してくる日だという話をしていた!」
「「……はぁ……?」」
なんでそんな重要なことを忘れているんだよという目を向けるエドワードとジョンだった。リリーがほぼ確実にやり直し前の記憶を有している以上、マリア関連は最も警戒しなければならないことだというのに。
「し、仕方ないだろう!? リリーから婚約破棄を口にされたんだぞ!? 冷静でいられるものか!」
「……はぁ、」
「そういうところが、良くも悪くも……」
ため息をついてしまう二人だった。
因縁のあるマリアが転入してくる日。もうあんな目に遭いたくないと思ったリリーが、冤罪をなすりつけられる前に婚約破棄という形で距離を取ろうとする。
「なんとも自然な流れですね」
「むしろ、よくぞ今まで我慢したなリリー嬢。おそらく実家と王家との関係を考えてギリギリまで耐えたのだろうが……やはり尊敬に値する女性だな」
うんうんと頷き合うエドワードとジョンだった。
「わ、私はもう騙されない! マリアには近づかないし、近寄ってきても冷たくあしらう! だから婚約破棄する必要なんてないんだ!」
「しかし、リリー嬢は殿下を信じることができないのでしょうね」
「ぬぐっ」
「彼女のために女装までしているのに、まだ信頼されていないんですね。……当然ですか。それだけのことをしたのですから」
「ぬぐぐっ」
ごつん、と。力尽きたように机に額をぶつけるクリスだった。
「…………」
どうしようもない男だな、という目でエリーゼはクリスを見下すが……今回の場合、リリーの勘違いが酷すぎるという側面もある。特にリリーのための女装が趣味扱いされているところとか、もう……。
今日、おそらくは初めてクリスに同情していたエリーゼは助け船を出してやることにした。
「殿下が何を言っても、リリーは信頼できないでしょう。当然ですね、それだけのことを『前』の殿下はしたのですから」
「う゛っ、」
「ですが、それでもなお諦めたくないというのなら……行動で示してください」
「こ、行動とは?」
「難しいことはありません。いつものように、優しく。穏やかに。リリーのことを大切にしてください。あの男爵令嬢が現れたあとも。男爵令嬢よりリリーを優先して。自分が愛しているのはリリーだけなのだと態度で示し続けるのです」
「そ、それなら……っ!」
できる、と目を輝かせるクリスだった。
「…………」
単純。
どこまでも単純。
単純に、純粋に、リリーを大切に思っている。
こういう人間だからリリーも見捨てることができなかったのだろうし……自分も、リリーに代わっての復讐をしなかったのだろうなとため息をついてしまうエリーゼだった。
晴れやかな顔になったクリスが椅子の背もたれを軋ませた。
「ところで、例の男爵令嬢はどんな感じだった? 誰かのところに姿を見せたのか?」
前の時は暇さえあればクリスや側近たちのところに現れ、媚を振りまいていたのがマリアという女子生徒だ。転入一日目だが、もう行動に移していてもおかしくはない。と、クリスは踏んでいたのだが。
「それについては」
「報告がありますわ」
ほぼ同時に発言するエドワードとエリーゼだった。エリーゼは当然のこと、エドワードもすでに情報収集を行っていたらしい。さすがは宰相の息子と言ったところか。
「「……え?」」
二人からの報告を聞いたクリスとジョンは、信じられないとばかりに顔を見合わせるのだった。
◇
登校するときと同じように、クリス様は私と下校してくださる。
やり直す前は一度もそんなことをしてくださらなかったので、今回は本当に優しくしていただいているのだなぁと実感することができる。
(やり直す前は私にも悪いところがあったし……。そこを直せばクリス様も普通に接してくれたのに――ということなのよね)
人生二度目のおかげか冷静に自分を見つめることができている私だった。まぁエリーゼに話したら「どこが冷静なんだい?」と鼻で笑われそうだけど。
今回の私は生徒会に入らなかったので、放課後、クリス様が生徒会の仕事を終えるまで暇となる。エリーゼも生徒会役員なのでお茶会はできないし、他の友人も毎日暇だとは限らない。そういうときは教師の仕事を手伝ったり花壇の手入れをするのが日課だった。
クリス様を待っているこの時間は、正直、嫌いじゃない。
きっとクリス様が優しくしてくださるから、私も彼との時間を楽しみに待つことができるのだ。
……まぁ、こんな時間も、クリス様があの男爵令嬢との愛を育み始めれば終わりなのだろうけど。
ちょっと寂しいな、と思ってしまう私は単純だなぁと自分でも思う。やり直す前、あんな目に遭わされたのにね。
(ま、いいわ。今回のクリス様には優しくしていただいたのだし)
彼に対する恨みは、もうないと思う。
たぶん、私のために女装をしてくれた瞬間から、恨みよりも期待が勝ってしまったのだ。今回は違うかも。今回は幸せになれるかも、って。
(……幸せな夢を見させていただいたわ)
でも、いつまでも夢を見ているわけにはいかない。特にやりたいことがあるわけではないけれど、それでも冤罪で投獄されたり死にたくはないからだ。
長生きするつもりなら、そろそろ学園卒業後の人生について真剣に考えないといけない。
男性恐怖症だから結婚するのも難しいだろうけど、いつまでも実家にいるわけにもいかないし、やはり修道院に入るのが一番だと思う。
というわけで。修道院について調べるため、私は図書館に足を運んだのだった。
まだまだ本は貴重な存在だけど、さすがは上位貴族も通う学園だけあって図書館は広く、蔵書も豊富だった。
司書の先生に『修道院』関連の書籍がある場所を尋ね、足を向ける。
棚の中には数十冊の修道院関連の書籍が収められていた。修道女が書いた日記から、どうやって修道女になるか解説した書籍まで……。
(やはり、結婚できない貴族令嬢は修道院行きになることが多いのかしら?)
これだけ関連書籍が置いてあるのだから、需要は高いのだと思う。貴族女性だと自立して生きていくことも不可能に近いと聞くし。
結婚できない令嬢は実家で暮らすしかないけれど、貴族というのは名誉を重んじるので「あの家の娘はまだ結婚できないのか」と噂されてしまうよりは「うちの娘は神に仕えることを選んだのだ」と言い訳できる方がマシということなのだと思う。
今のうちから慈善事業として色々な修道院を訪問して、どこがいいか探るのもいいかもしれない。そんな腹黒いことを考えながら目に付いた本に手を伸ばす。
「……ん、ぐっ」
精一杯背伸びするけれど、棚の一番上にある本には手が届かなかった。司書の先生を呼ぶか、あるいは脚立を探すか……。
「――レディ。こちらの本ですか?」
すっ、と。
私が狙っていた本が、脇から伸びてきた手に掠め取られる。
「ひゃっ」
その存在に気づいていなかった私は妙な声を上げてしまった。
心を落ち着けるために深呼吸しながら、本を取った『男性』に視線を向ける。
――黒。
貴族にしては珍しい黒髪だった。
白磁のように白い肌はいっそ作り物ではないかと疑いたくなってしまうし、真紅の瞳はまるでこの世のすべてを知っているかのような雰囲気を漂わせている。
(……なんか、エリーゼに似ているかも?)
立ち振る舞いや身なりの上品さからおそらく貴族だし、顔つきもどことなくエリーゼに似ている気がする。……まぁ、男性と女性の違いがあるのでそっくりと言うほどではないけれど。
私は幼い頃から意識的に男性を避けてきたし、それはエリーゼも分かっていたので兄弟を紹介されたことはない。やり直す前は今ほど親しい付き合いがあったわけでもないし……。けれど、兄と弟がいるという話くらいは聞いたことがある。
年齢的には私たちより少し上。20歳くらいだろうか?
エリーゼのお兄様ですか?
そう尋ねようとした私の右手を――彼は自然な動作で取った。
そして。これまた自然な動きで片膝を突き、私の手の甲に軽くキスをする。
いや、正式な所作としてはキスをするフリだけだし、彼の場合もそうだった。
紳士から淑女に対する挨拶。意味合いとしては敬愛。
ちなみに私は手袋をしているので、突然触れられたりキスを落とされたりしても男性恐怖症による蕁麻疹が見られることはない。
それに――
「レディ。私の名前はリチャード。リチャード・グランブリックと申します」
「グランブリックといいますと――」
エリーゼの実家。公爵家。数多くの魔導師団長を輩出してきたお家柄で、現当主も魔導師団長であったはずだ。
やはりエリーゼのお兄様か、と納得する私。
「お名前を伺ってもよろしいですか? レディ――」
おっとしまった。向こうから名乗られたのに名乗り返さないのは失礼よね。
「お初にお目に掛かります。ナイトベルク公爵家が一子、リリーナ・ナイトベルクですわ」
「リリーナ。良いお名前です。リリーとお呼びしても?」
「あ、はい。構いませんわ」
「感謝を、リリー嬢」
リチャード様がもう一度私の手の甲にキスをしようとしたところで、
「――お兄様!? 何をしているんだい!?」
烈火のごとき勢いで私とリチャード様の間に割り込んできたのは、エリーゼ。そのまま私を隠すようにリチャード様の前に立ちふさがる。
「もちろん挨拶だよ。私の妹と仲良くしてくださっているのだから当然のことだろう?」
「リリーは男性恐怖症なんだよ!? それなのに手を取るどころか、キスをするなんて!?」
「大丈夫、唇は触れてないよ。紳士だからね」
「紳士は許可なく淑女の手をとらないし、唇を落としたりしないよ!」
きしゃー! とエリーゼが威嚇すると、リチャード様は参ったとばかりに肩をすくめ……私に向けてウィンクしてきた。
エリーゼそっくりな、赤い瞳。
その瞳が僅かに光を発しているような気がした。
「リリー嬢。やはり大丈夫なようですね。安心しました」
朗らかに微笑んでからリチャード様は左手に持っていた本――私が取ろうとした修道院関連の書籍を棚に戻してしまった。いや戻されちゃうと手が届かないんですけど?
私の視線に気づいたのかリチャード様がにっこりとした笑みを向けてきた。
「リリー嬢は修道院に行く必要なんてありませんよ。もしもの時は私にご相談ください。私と、リリー嬢。グランブリック公爵家と、ナイトベルク公爵家。双方にとって良い提案をさせていただきます」
「あの、それはどういう……?」
「おっと、こういうのはまず手紙のやり取りから始めるものでしたか。私も本格的な男女交際の経験はないもので――」
「お兄様!」
「ははっ、怖い騎士様がいるようですね。では、私はこれで。また会うこともあるでしょう」
まるで夜会のように大げさな一礼をしてから、リチャード様は図書室を出て行ってしまった。
いや、今さらだけどここ貴族学園の図書室よね? いくら公爵家の人間とはいえ、用事もないのに入ってきていいのかしら……?
「まったくあのキザ男は! リリーが男性恐怖症だと教えておいたのに!」
ぷりぷりと怒りながら私の右手を取り、手袋を外そうとするエリーゼ。たぶんまた蕁麻疹に治癒魔法を掛けてくれようとしているのだ。
でも、たぶん大丈夫。
まだ自分でも目で見て確認はしていないけど、感覚から、大丈夫だという確信はあった。
「……え?」
唖然とするエリーゼ。彼女が凝視する私の右手には、まったく、蕁麻疹は出ていなかった。男性恐怖症の私が、男性から手を握られ、唇を近づけられたというのに。
「え? え? どうしてだい?」
残った左手も手袋を外すけど、こちらにも蕁麻疹はなし。私の感覚通りだ。痒みはないけど、それでも蕁麻疹が出たかどうかくらいは分かるのだ。
クリス様に触れられたときとは違い、蕁麻疹は出なかった。
「……エリーゼ。確認するけど、リチャード様は男装した女性だっていうことはないわよね?」
「ないよ。あり得ない。いくら何でも女性が公爵家の後継者になれるはずがない」
「そうよねぇ」
私の手を取ったリチャード様は、ごつごつとした、男性の手をしていた。たぶん間違えることは無いと思う。
男性恐怖症の私。
が、触れても蕁麻疹の出ない男性。
それはもう――
「――運命の相手、ってやつなのでは?」
他の人では無理なのに、突如として現れた触れることのできる男性。物語であれば間違いなく運命の相手だ。
「……おおぅ、おおぅ」
なぜか天井を見上げながら、なんとも奇っ怪な鳴き声(?)をあげるエリーゼだった。