────ねぇねぇ、かみさま。
灯りもなく、声もないけれど、静かな夜がグラスを揺らしている。
さあ、新たな物語が始まる前に一口どうぞ。
空っぽのグラスに冷えた夜を注ぎ、触れ得ぬ月影へと、静かに杯を揺らした。
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薄目のままベッドから這い出て、窓の外を眺めた。
冷たい、透き通ったガラス越しに何色もの鮮やかな光が目を惹いた。
外は雨だった。
玄関に行って、長靴を履いて。
時計を見れば、薄い金属の短い針が十を指していた。
ドアを開けて、傘を開いて、音の無い絢爛の都市に出た。
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こんなにも綺麗な街並みに、綺麗な夜が来て、綺麗な雨が彩られている。
その中に混じっちゃえば、その一員になれるのかな。
それとも、こんな綺麗づくしの全部を独り占めできるんじゃないかなって。
そうやって、天を見上げた。
薄い雲越しの数々の星が、綺麗に綺麗に空を彩っていて。
誰も居ない色とりどりの都会の光が、無機質に落ちる筈の雨を美しく煌めかせる。
地の水溜まりを見れば、歩道の青信号の緑と車道の赤信号の赤が、星の散った夜空を豪華に彩っていた。
雨はしんしんと降っている。
歩けばぴちゃぴちゃ、止まればしとしと。
そういえば、車はおろか人も居ない。
ちょっとだけ傘から手を出してみれば、細かな雫が手に冷たく染み込んで来る。
くすぐったいような、気持ちいいような。
傘を畳んで、綺麗な綺麗な冷たい雨を浴びる。
畳んだ傘を錫杖に、静かな静かな歩みを始める。
マンションに差し掛かった時、小さな階段を超えた先に続く通路があった。
ぽつぽつと電灯が暖かい光で足元を照らしていて、そのいちばん手前の光の下で猫が丸まっていた。
かわいい。
ちょっとだけ茶味がかった黒猫ちゃんで、眺めていると目が合った。
目は月を宿したような金色で、それもやっぱり、とってもかわいい。
ちょっとだけでも撫でれないかなって思って階段に足を掛けると、逃げる様にトコトコってどこかに行っちゃった。
そうだ。 人も居ないし、折角だから少し寄り道して行こ。
猫の居なくなった通路をてくてくと歩いていく。
人の気配も無いひんやりとした静寂に、足音と傘が床に当たる音だけが響く。
通路の突き当たりに出た。
無機質なエレベーターと、寂しい螺旋階段があった。
切れかかって明滅する電気照明のリズムを掴み損ねて、そんな事も気にせずに階段をカツカツと登ってみる。
徐々に低くなっていく景色と気温に、感動とも寒気とも分からない震えが起きる。
静かで硬い、滞ったコンクリートの階段に傘の先を当てて、カラカラと音を彩る。
階を跨ぐ間は背後の明かりが弱くなって、上の階の電灯が待ち構えている。
暗くなって、明るくなって、足音を立てて、音を奏でて。
そうやって登れるところまで登れば、屋上に出た。
肌を撫でるような冷たい風が身を包んだ。
天を見上げれば、満天の夜空が。
フェンス越しの地を見れば絢爛とした光源と建造物の数々が。
少しの間立ち止まって、その透き通って冷綺麗な世界に溶け込んで一つになるように
冷たい温度が体のふかくに染み入ってくるのを感じていた。
網目の荒い、鉄のフェンスに登った。
今度は障害物の一切も無い街景色が目に飛び込む。
自分の何十倍かも分からない高所、そこから身を止める者はもう無い。
一段と強くなった風が、長く湿った髪を揺らした。
心配するように空を廻る鳥に笑みを返して、元の屋上に着地する。
雲一つ無いのに、密かに雨は続く。
俗に言う狐雨、狐さんの嫁ぐ気分なのだろうか。
そういえば、猫ちゃんは戻ってきているかな。
エレベーターは屋上まで付いていなかったから、元来た階段を今度は下る。
上りの時とは違って、澄んだ空気に湿度がだんだんと混ざっていく。
快活に滑り落ちるように、重力に手を引かれて一段一段を降りた。
通路に猫はいなかった。
ちょっとだけがっかりしてマンションから出れば、鮮やかな電灯と街明かりが視界を染める。
そんな音の無い喧騒に少し疲れて、小さな小道に入った。
一転して変わらない綺麗に曇った星空と、夜を知らない窓灯り、薄光に照らされた街路樹。
薄く柔らかい光と闇に誘われて、少しの間ゆっくりと歩き続ける。
水を張ったアスファルトを踏み締めるたびに、ぱちゃぱちゃと音が立つ。
喧騒に背を背けた小道を丁に寧に歩いて、ひとりんぼの街灯とすれ違っていく。
草木を蓄えた薄明かりの小さな公園を通り過ぎて
雨濡れて、少し錆びた鉄で出来た2段の車置き場の脇を通って
買い手の居ない、雑草の楽園となった空き地を眺めて
いつの日か通った古民家の正面を横切って
ちょっとした気分に任せて、指パッチンをしてみる。
傘が道を敲き、長靴が地面の水を弾くだけだった音の世界に、一口分の新たな音が加わった。
音に吃驚したのか、呼ばれたと勘違いしたのか、犬の様な影がこちらを覗いて、
柵の隙間から、夜と星屑をかき混ぜたような、銀色の目を向けてきた。
「起こしちゃった? ごめんね〜」
そうしてまた少し、同じような道を歩くと、アスファルトの急な坂が見えた。
此処だけ一転して街灯も街明かりも来ない、暗い坂道。
曲がっていて先も見えない、でも通り慣れた道。
濡れた草木や土の匂いが香る、冷たい空気が頬を撫でた。
少しの間、その曲がりくねった坂を目前に空を見上げる。
木の葉から漏れた月光が柔らかく、雨上がりの澄み切った空気越しに映った。
息を吸って、白く吐いて、香り高い草木をそばに置いた坂を登ってゆく。
雨の流れたアスファルトを踏み締め、自然の湿った匂いに溺れながら進む。
少し歩いて顔を上げれば、少し寂れた鳥居が目に入った。
鳥居の真ん中をこっそりと潜って、少しの背徳感を楽しむ。
じゃり、じゃりと境内特有の玉砂利の感覚を足裏に感じつつ、手水舎へと向かう。
石造の龍が口から水を流す姿を横目に少し微笑んで、竹の柄杓を取る。
冷涼な水を左手に掛けて、持ち替えて右手にも掛ける。
片手で作った器を満たして、口を濯いだ。
最後に柄杓の柄に水を這わせて、元に戻した。
石段を上がる。
目の前には小さな常夜灯に照らされた御社殿が。
雨濡れたそこに立ち寄り、賽銭箱の前まで来る。
「ねぇねぇ、かみさま」
「明日は晴れると良いね」
「そうだ、今日は折り紙持ってきたんだ、鶴なんだよ。凄いでしょ」
ズボンのポケットに押し込んでいた小さな黄色い折り鶴を取り出す。
……ちょっと濡れてる。
まぁきっと大丈夫だよね。
「ここに置いておくね」
お賽銭箱の縁にちょこんと載せておき、授与所を覗く。
数々の御守りと、御神籤は見えるも、人の姿は無い。
御社殿を出て、星と月が照らすのみの畏まった静寂を吸って。
私は石段の木陰に座った。
「…………あっ」
静かに、でも確かに降り続けていた不思議な雨は、止んでいた。
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ご満足いただけたでしょうか、残念ながら二杯目はありません。
今度はぜひ、貴方の手ずから貴方だけの夜に、お好みの唄をかき混ぜてご賞味下さい。
……勿論、気霜が出るまで冷やす事を忘れないように。