壱琴さん。
暖かな春の日差しが教室を包んでいたせいか、僕はいつの間にか眠っていたらしい。
誰かに、肩を揺すられて、僕は起きた。
薄く目を開けると、淡い髪が揺れるのが見えた。
そして一言、ささやくように「授業」。それだけ。
でも、そのたった一言には、「起きなさい」「授業が始まる」「もう寝てちゃだめ」という三重にも四重にも折り重なる優しさがある。
僕には分かる。
ゆっくり顔を上げて、気付く。彼女はずっと僕を待っていたみたいだと。
「おはよう、壱琴さん」
「おはよう」
「もしかして、移動教室だった?」
「うん」
「ずっと僕が起きるまで待っててくれたの?」
「うん」
「そっか。ありがとう」
「どういたしまして」
…壱琴さんは必要最低限しか言葉を発しない。
一言、たったそれだけが彼女の存在そのものだった。それでもそのわずかな言葉は、僕の胸にどこか特別な響きをもたらす。
「移動教室はどこ?」
「図書室」
「珍しいねぇ。ってことは、国語とかかな」
「正解」
一見、淡白。でも、その後ろにはなにか温かなものが潜んでいる気がする。
言葉以上の何か。
僕はこれ以上待たしてはいけないと思い、重い腰に鞭を打って、勢いよく立つ。
壱琴さんは教科書も筆箱も持っていないから、きっと持ち物はない。
「よし、行こうか」
「うん」
教室を出て、廊下に出る。
戸締まりは僕が引き受けた。
ガチャ。
緩い施錠音が、廊下に響く。
僕が壱琴さんの隣に並ぶと、何も合図はしてなかったけど、歩き出す。
僕もそれに続いた。
せっかくだし、図書室に着くまで、壱琴さんと何か話そう。
「ねぇ、壱琴さん」
「何?」
「壱琴さんの私生活について質問していいかな」
「大丈夫」
「えっと、それはどっちの意味?」
「イエス」
「了解。じゃあ、壱琴さんは休みの日何してる?」
「寝てる」
「一緒だ。僕も一日中寝てる。気が合うね」
「同士」
その一言で、僕は気付いてしまう。壱琴さんも僕のことが好きなんじゃないかと。
壱琴さんと話す時間が、僕にとって特別なように、壱琴さんにとってもそうであるなら。これは両想いだ。
成立する。
「違う」
「えっ?」
「他意はない」
「べ、別に変なこと考えてないよ。僕はそのままの意味でちゃんと受け取ったさ」
「なら、いい」
前言撤回。
壱琴さんは僕のことを、あくまでも友達としか思っていない。
まぁ僕も分かってた、こうなることを。単なる答え合わせにすぎない。
「綺麗」
ふと、壱琴さんが窓を見て、指を指す。
その言葉に触発されるように、僕も外を見た。
確かに。綺麗だ。
桜の花びらが風に舞う光景が、ガラス越しでも一枚一枚よく見える。それぐらい風強く、花びらが光に照らされて、鮮やかに映えていた。
「そういえば、僕と壱琴さんも先輩になるね。後輩に慕われる先輩にならないと」
「頑張って」
「壱琴さんも」
「うん」
「そうなると、人の行き交いも多くなるな。色々と忙しくなりそうだ」
「…………それでも」
――――そして、僕は壱琴さんの一言を待ち望むようになっていた。
今もこの瞬間、次の言葉を探っている自分がいる。
壱琴さんの頬が桜色に染まりだした頃。
「ずっと側に居てね」
まるで詩の一節のようなその一言が、僕の胸を弾ませた。




