雪中松柏
村のはずれの林の中に、ぽつりと建った古家がある。
そこには若い人形職人が住んでいた。名前を松柏と言う。
人付き合いの苦手な松柏は、自ら好んで人里を離れていた。
ある日の夜、松柏の家の戸を叩く音がした。
とんとんとん、とんとんとん。
誰だ誰だと厄介そうに戸を開けると、そこには黒い着物に赤い帯、肩まで程の美しい黒髪、こんな古家には似つかわしくない絶世の美女が立っていた。
全てに愛されるようなその出で立ちに、人付き合いの苦手な松柏も一目で惚れてしまった。
「わたくしの名は『お雪』と申します。国から国へと旅する風来人ゆえ、こんな夜分に人様のお宅を訪ねております。もし憐れと思っていただけるのであれば、一晩泊めていただけないでしょうか」
夜風に身震いするお雪を見て、松柏はすぐさま古家へと招き入れた。
こんな美人は見たことがない。己の人付き合いの不器用さに、今日ほど悔いたことはなかった。
日頃、松柏は粟や稗に少し白米を混ぜ、青菜を少しばかり入れた雑炊を食べていた。
しかし、そんな粗末な物をお雪には食べさせられない。白米で炊いた飯と自ら漬けた大根に、大枚はたいて買った塩漬け鯖を振る舞った。
「あらあら、こんなに頂いてしまって。貴方様もどうぞ召し上がってくださいませ」
なんとも優しき方なのだろうか、己に出された食事を赤の他人に譲るとは。
松柏は重ね重ね礼を言いながら、お雪が分けた僅かばかりの白米を食した。
うとりうとりと眼が重くなった頃、松柏は寝床をお雪に譲ると、自分が居っては安心して眠れぬだろうと林へ向かい、落ち葉の布団で眠りに付いた。
翌朝、松柏が古家に戻るとそこには既にお雪の姿は無く、古家の木壁に墨で文字が書かれていた。
「大変お世話になりました」
何と健気な方なのだろう。
松柏は木壁を切り取って家宝のように扱い、この寝床を終の褥にしようと決めた。
それからというもの、人形職人であった松柏は林から採った桐で一尺ほどのお雪の人形を作るようになった。
元は浄瑠璃人形を卸していただけあって、それはそれは美しい人形が出来上がった。
しかし、こんなものはお雪ではない。松柏はそう言うと、すぐさま新たな人形を作り始めた。
お雪の人形を作り出してからというもの、他の人形に興味の失せた松柏は、みるみるうちに貧しくなっていった。
最初こそ蓄えで過ごしていたが、いずれ貯蓄も底を尽き、林の野草を食べ、時には何も口に入れぬ日もあった。
そんな生活も一年あれば慣れたものだったが、数多の人形を作り上げても満足のいく人形は未だに作れなかった。
気がつけば古家の中はお雪の人形で一杯になっていた。
大事なお雪を捨てるわけにはいかないが、これでは新たなお雪が作れない。松柏は思案した。
考えに考え抜いた松柏は、村の者にお雪の人形を譲ることにした。
「ぉゅきぃ……ぉゅきぃ……」
村に行き久しぶりに声を出した松柏は、満足に声が出せないことに驚いた。
これではお雪に会った時に合わせる顔がない。
お雪の人形を配った松柏は、古家へ戻ると「お雪……お雪……」と呟きながら人形を作り始めた。
最初こそ美しい人形を喜んでいた村人達であったが、次第にその量を手余しだし、人形を燃やして木炭にし、膠を混ぜて墨を作った。
お雪の人形から作った墨は、不思議なことに雪とは真逆の美しい黒を生み出し、村人たちはこの「雪の墨」を売って大層裕福になった。
数十年が過ぎた頃、松柏は「お雪、お雪」と虚ろな眼で村をゆっくりと呟き歩いていた。
知らぬ者が見れば薄気味悪い姿であったが、村人たちは何十年もお雪の姿を追いかける松柏を「雪中松柏」と呼び、罵る者などいなかった。
ある時、松柏がお雪の人形を彫り終えると、眼前が突然真っ暗になった。
再び眼が開いた時には、見慣れた天井があった。
あぁ、腹を空かせて倒れてしまったか、しかし立ち上がろうとするが身体が動かぬ。すると、先ほどまで彫っていたお雪の人形が動いて松柏の顔を覗き込んできた。
お雪の人形が美しく微笑みかけると、松柏は再び眼を閉じた。
あぁ、お雪、やっと会えたな。




