Ep 2:情報確認
ギルド<遠航の信標>の拠点である<方舟要塞>には、ギルドメンバーが利用できる個室が数多くある。
勿論、実用性に富むというよりも装飾に比重がある。ゲームの中では寝る必要がなく、面や身支度をする必要もないのだから、部屋にある機能の殆どが出番がない。それでもギルドの前会長の要望で、部屋を全員分用意することになったため、常駐メンバー一人一人に部屋が割り当てられることとなった。
部屋の一つで、ユリオンは全身鏡の前に立ちながら、自分の装備を調整していた。
「これでよし」
先ほどホールにいた時とは違い、今の彼の両腕には銀色の半透明な籠手が装着されている。その手には、一見すると夜空の天の川を鍛造したかのような、通体漆黒の表面に無数の星が点在する奇妙な杖が握られている。
杖の表面の星々は固定されておらず、まるで本物の銀河のように交互に輝き、重なり、そして消えていく。
この長い杖は、ユリオンが最も頻繁に使用する武器で、「虹星の欠片」と呼ばれる変形自在な武器だ。必要に応じて長槍、剣、斧、杖といった柄のある武器に姿を変える。ただし、弓矢タイプには対応していない。
ユリオンが瞑想すると、間もなく「虹星の欠片」は長い棒から片手用の剣の形状に変形し、彼はそれを腰に付け、鏡に映った自分を眺める。
(武器が使い手の意思に応える――その点はゲーム内と同じだ。ただ、この重さと冷たい感触は、やはり『リアル』すぎる。そして……)
鏡の中のユリオンは、直毛の銀髪で、朱色の瞳は絶対にない現実のもの。顔の形、体の高さなどは自分の現実のコピーだが、それ以外の箇所は加工したものだ。
ほとんどの時間、ユリオンはゲームを一人称視点で体験しているため、このように自分のアバターが自分の意思通りに動くのを眺めるというのは、彼にとってまだ新鮮な体験だった。
(まるで別人のようだ。これが本当に俺なのか?)
その震動の後、ユリオンは自分にも何かしらの変化が起きたことに気付いた。まるで、自分の呼吸や体温、意識のアップロード技術はまだシミュレートできない触覚を感じることができたようなのである。この肉体はまったく偽物ではないように思われ、いわばユリオン自分の肉体そのものだった。
(よし、まだ時間があるし、まずは一回り見回ってから中庭に行こう)
「ん?」
部屋を出たばかりのユリオンの目の前に、成熟した女性の姿が現れた。
彼女の頭には、狐のような長い耳が生えていた。彼女が着ているのは胸元が大きく開いたワンピース風の服で、改造された巫女服のようだ。挑発的な肢体と露出の多いその衣装の組み合わせは、思わず目を離せなくさせる。そして彼女の背後には、大きなふわふわした尻尾が揺れ動いているのが見えた。
亜獣人種の特徴を持つ彼女は、ユリオンが自ら手掛けた数多くのNPCの一人であり、「古代幻獣―天狐」の美羽である。
「美羽、どうしてここに来たんだ?」
「主君、妾はあなた様がこちらにおいでになると聞き、急ぎそのお姿を拝見するために参りました」
彼女は服が汚れることを全く気にせず、片膝をついた姿勢でユリオンに礼を示した。
「立ちなさい。集合の時間まではまだ少しあるし、ちょうど見回りをしようと思っていたところだ」
「それでは、妾もご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
「構わない。ただ、内部の見回りだから大した問題はないと思う。もし何か他の用事があるなら、無理して付き合わなくてもいい」
「ご親切にありがとうございます。妾にとって最も大切なことは、あなた様の側にお仕えすることです。」
(意志が強いな……っていうか、やっぱり彼女もそうなのか。態度がやけに丁寧で、まるで王侯貴族に接しているみたいじゃないか……)
実際、現実で祁璘という名前のユリアンは、会計事務所で働く新人だ。
平凡な生活に慣れていた彼にとって、このように扱われるのはさすがに慣れないものだった。しかし、今の状況ではNPCたちを円滑に指揮するために、威厳のある支配者を演じた方がいいだろう。それがNPCたちが自分に求める姿でもあるのだから。
「そうか。なら一緒に行こう」
「かしこまりました」
主人の許可を得て、美羽の潤んだ口元が優雅に微笑にほころんだ。
彼女は1メートルほどの距離を保ち、ユリオンを密着して追った。
その間にも、近くを巡回しているNPCや、たまたま通りかかったNPCたちに出会うことがあった。彼らはユリオンを見ると皆、姿勢を正して頭を下げて挨拶をした。その中には、美羽に羨望の眼差しを向ける者もおり、どうやら自分もこうして主人の側に仕えたいと思っているようだった。
しばらく歩いた後、彼らは空き地に到着した。ユリオンは立ち止まり、美羽に向かって振り返った。
「美羽、ちょっと聞きたいことがある」
「はい、主君。おっしゃってください」
「お前から見ると、俺が何者なのか?」
こういった質問をするのは、NPCたちが自分をどう見ているのかを把握するためだった。彼らが自分を尊敬し、主人として見ていることは分かっている。しかし、それがどのような理由に基づいているのかは明確ではない。もしかすると、対話を通じてその手掛かりを得られるかもしれない。
「主君、お答えいたします。妾にとって、主君は――妾の創造主であり、妾に生命と価値をお与えくださった尊きお方。そして、《方舟要塞》の絶対的な支配者でございます。そしてさらに重要なことに……こう申すのは不敬にあたるかもしれませんが、主君は妾の想い人にございます」
「......」
美羽の瞳はまるで澄んだ水面のように清らかで、下からユリオンを見上げていた。その眼差しには一切の迷いがなく、むしろ熱い感情が感じられるほどだった。
こんな美しい女性に近距離で見つめられたユリオンは、思わず見惚れてしまった。
(まずい、まさかここまで高い評価を得られるとは……)
「そ、そうか。それは随分高い評価だね」
心の動揺を隠すため、ユリオンは背を向け、できるだけ平静を装った声で答えた。
「そんなことはございません!妾にとって、どれほど美しい言葉であろうとも、あなた様の偉大さと慈愛を称えるには到底足りないのです」
「——ありがとう、美羽」
「妾にこのような機会を与えてくださり、自分の気持ちをお伝えできたことに感謝いたします」
彼女の真摯な言葉に、ユリオンは思わず苦笑を浮かべた。彼女らの自分に対する態度は少し大げさだと感じつつも、不快には思わなかった。
おそらく、美羽を含む多くのNPCたちが自分の手で創造された存在であるため、創造主であるユリオンに対して、深い敬意と忠誠を抱いているのだろう。
(他の仲間が作ったNPCたちは、俺のことをどう思っているのだろう?リリアやセトカが俺に敬意を示してくれているのは分かるが、もし俺が彼らに命令した場合、一体どの程度まで従ってくれるのだろうか?)
そんな取るに足らないことを考えながら、ユリオンと美羽は、二人のNPCが守る扉の前を通り過ぎた。
そのNPCたちはどちらも若く美しい少女で、改造されたメイド服を身にまとっていた。その服は短いスカートが特徴で、実用的な仕事着というよりも、むしろコスプレイベントで見かけるような衣装に近いものだった。
彼女たちに目を留めたのは、外見のせいではなく、彼女たちがユリオンの部下ではなかったからだ。
(この2人は…ランスが作ったNPCメイドだと思う)
「お前たちはここで何をしている?」
「ユ、ユリオン様!?」
「ユリオン様、お目にかかれて光栄です!」
ユリオンに声をかけられたことに気づくと、二人のメイドは慌ててスカートの裾を軽くつまみ、深々とお辞儀をした。
「礼は不要だ。それより、まず俺の質問に答えろ。」
二人とも短いプリーツスカートを履いていたため、スカートを持ち上げる動作に伴い、危険な部分がちらりと見え隠れした。
(この二人……こんな格好でこんな仕草をするなんて、警戒心がなさすぎじゃないか?)
「はい!私たちは、自分たちの創造主であるXランス王X様の命令で、ここで警備に当たっています。」
「次の指示があるまで外で待機し、他の者を中に入れないように、と言われています。」
「つまり、ランスは中にいるってことか?」
「はい、その通りです。」
(なんだか妙に秘密めいているな……。わざわざ見張りを立てるなんて、邪魔されたくないってことか。)
普段なら、ユリオンはその場を立ち去るだろう。しかし今は事情が事情だ。ランスの様子を確認した方がいい。もし千桜やアシェリのように具合が悪くなっていたら、それこそ厄介だ。
「......」
「......」
ユリオンが何も言わずにいると、二人のメイドの額にはじわじわと汗が浮かび始め、その表情も次第に緊張感を帯びていった。
「ランスと二人きりで話したいことがある。しばらく席を外してくれないか?」
「え、で、でもランス様から私たちは……」
「うん」
指示に異を唱えたのは二人のうちの一人で、もう一人は何も言わずにいたが、同僚の発言に同意するように何度も頷いていた。
「汝ら、君臨者様の命令を拒むのは、大変な無礼でございますよ」
ユリオンが口を開く前に、彼の傍らに立つ美羽が厳しい口調で二人を叱責した。
「申し訳ありません!どうか私たちの無礼をお許しください!」
「本当に申し訳ございません!お赦しをお願いいたします!」
怯えた様子の二人を見て、ユリオンはなぜか罪悪感を覚えてしまった。
「俺は怒っていないし、無礼だとも思っていないから、気にしなくていい。ただ、少し重要な話があって彼と話をしたいだけだ。もしあとで何か問題が起こったら、俺が責任を持つ。もちろん君たちの主人に迷惑がかかるようなことはしないよ」
「そ、そうですか……分かりました。それでは、私たちはこれで失礼します」
「お手数をおかけしました、ユリオン様」
二人が背を向けて立ち去った後、ユリオンは隣にいる狐耳の美女に命令を下した。
「美羽、ここで待機して、他の者を近づけないようにしてくれ」
「御心のままに、主君」
(さて、中には何が入っているのか、確かめてみるとしよう)
礼儀として、ユリオンは一応ノックした。しかし、しばらく待っても返事がなかったため、そのまま扉を押し開けて中へ入った。
「あ、ランス様、激しすぎます~」
「ランス様、私に寵愛を~」
「ハハハ——ああ、問題ないよ!」
「......」
美羽がまだ外にいることを考慮して、ユリオンは急いでドアを閉めた。
たくましい体格をした大柄な男が、上半身を半裸のまま二人の美少女とソファで戯れていた。
彼らはあまりにも夢中になっており、外部者が入ってきたことに全く気付いていなかった。
ユリオンは呆然と三人を見つめ、額に手を当てながら、呆れたようにため息をついた。
(さっき、まず彼女たちに中に他の人がいるかどうか聞いておくべきだったな。失策だ。それにしても、こいつ……。俺がこの異常事態でてんてこ舞いになっているというのに、こいつは楽しんでるのか?本当に無神経だな)
「ランス、お前は楽しそうだな」
「は?あ、あの、う……うわあああーっ!?会、会長殿!?」
「よお、久しぶりだな。お前、よくオンラインになってるのに、なかなか会う機会がなかったよな」
「えっと……それは。その、違う、まずこっちを見ないでくれ!」
Xランス王Xは慌てて毛布を使い、二人の女性の身体を隠した。当然、彼女たちもランスが作り出したNPCだ。重度のオタクである彼は、自分の作るNPCをすべて美少女や熟女、さらにはロリタイプにしていた。
どうやら、NPCが突然自我を持つという事態は、彼にとって恐怖どころか、むしろ願ってもない展開だったようだ。
「俺は隣の寝室で待つから、ランス、お前は片付け終わったら来い。それと、あの二人はここで待っててくれ。」
「し、寝室に行って会長殿と!?いやいや、僕にはそんな趣味、全然ありませんからね……!」
ユリオンの言葉に、ランスは怯えたように身を縮めた。その粗野な外見とは裏腹に、この怯えた姿勢は、妙に気持ち悪さを感じさせるものだった。
「ユリオン様!お待ちください!もし必要であれば、私が代わりにお手伝いします!」
「私もです!どうかランス様に手を出さないでください!」
「お、お前たち、ダメだ!寝取られるなんて絶対に嫌だ!!!お前たちは僕のものだ、絶対に誰にも渡さない!」
「「ランス様!」」
ユリオンは眉をひそめながら、涙を浮かべて抱き合う主従三人をじっと見つめた。
(この二人まで一緒にバカやるなんて……さすがランスの部下だな。)
「……何をバカなこと言ってるんだ?ふざけるな、さっさと片付けてこっちに来い。あまり待たせるなよ、大事な話があるんだから。」
「お、おう、分かった。」
約3分後、Xランス王Xは身なりを整え、寝室へと入ってきた。
彼が目にしたのは、ソファに腰掛けているユリオンの姿だった。そして、彼はユリオンの正面にある椅子に腰を下ろした。
「こうしてお前と面と向かって話すのも久しぶりだな。元気なのはいいことだが、たまには外に出てリフレッシュしたらどうだ?ずっと部屋にこもっているとカビが生えるぞ。」
「考えておく……それより、会長殿が僕に何の用だ?」
この話題を触れられるのをあまり快く思っていないようで、ランスは慌てた様子でユリオンに訪問の理由を尋ねた。
「いくつか確認したいことがある。まず一つ目、地震……あの揺れの後、体に不調を感じたことはないか?」
「不調?特に何もない。ただ揺れたときにちょっと気分が悪くなったけど、揺れが収まったらすぐに回復した」
「そうか、どうやら問題はなさそうだな」
「ん?」
ランスは訳が分からず首をかしげた。ユリオンは仕方なく最初から話し始めた。
「揺れが起こった時、俺はシーラー、緋月、アシェリ、そして千桜と一緒にいた。その揺れの後、千桜は意識を失い、今は休んでいる。アシェリはそれほどひどくなかったが、顔色が悪くなり、シーラーと緋月に預けた。」
「……こんなことが起こったってことは、シーラーは今やハーレム状態じゃないですか。羨ましい!」
「注意すべきことがそういうこと?!」
「うわっ——!?」
「今のところ、影響を受けているのは千桜とアシェリだけのようだ。俺たち4人、お前も含めて、は無事だった。もしかしたら、何か共通点があるからかもしれないな。どう思う?」
「うーん——僕たちの種族も職業もバラバラだし、強いて言えば……」
短い沈黙の後、ランスは何かを思いついたように「パッ」と手を叩いた。
「そうだ!総合レベル、僕たちの最大の共通点は、みんなレベルが同じだってことだな」
「総合レベルか、確かにそうだな、俺たち4人は全員レベルマックスだ。でも千桜とアシェリはそうじゃない」
「それに、確か千桜が一番レベル低かったよな?たしか530レベルくらいだったはず」
「お前、よく覚えてるな……俺ですら、大体500レベルちょっとくらいしか覚えてない」
『Primordial Continent』のキャラクターのレベルは、種族レベルと職業レベルの二つから成り立っており、それらを合算したものが「総合レベル」と呼ばれ、現行バージョンの上限は1,000レベルだ。
影響を受けた千桜は、その中で最も低い530レベルだった。他の一人、アシェリの総合レベルは850で、満レベルではないが、それほど低くもない。彼女に起きた影響は、千桜ほど深刻ではなく、おそらく彼女のレベルが高いからだろう。
「確かに理にかなっている、いい着眼点だ」
「役に立ててよかった。それで、他に何か問題があるか?」
「うん、次の件だ。NPCに起きた変化について、お前の意見を聞きたい」
これが今後の方針に関わることだから、見落としがないように他のメンバーと意見を交換する必要があるとユリオンは感じていた。
「NPCたちの変化?」
「どうした?気になることでもあるのか。」
「彼女たちは僕の愛に応えて、その後新たに生まれ変わったんだろ?」
「……お前、実はロマンチストなんだな。」
(そういえば、こいつ。最初は自分だけの美少女ハーレムを作りたくて、『Primordial Continent』をプレイしたんだな。軽度の社交不安症なのに、どうしても美少女への愛で、社交重視のオンラインゲームを楽しんでいたんだ。)
自分が間違った相手に質問したことに気づいたユリオンは、思わず眉をひそめた。それでも、彼は自分を抑え、会話を続けようとした。
「『生まれ変わった』と言ったが、お前も気づいたんだろう?今のNPCたちは、単なるゲームAIとは違って、単調な動作を繰り返すだけで、簡単な命令に従うだけで、会話すらできなかった。今ではまるで人間のように、俺たちとインタラクションでき、複雑な指示も理解できるようになった。」
「ああ……確かに、会長殿が言う通りだな。でも正直、僕はこの変化にかなり喜んでるよ。これでやっと僕の夢が実現できるんだ。」
「本当にお前は物事を簡単に考えすぎだな。気づいていないのか?本来、すべてのプレイヤーに課せられていたはずの18禁制限が、消えてしまったことに。」
「えっ!?」
「やっぱり気づいてなかったか……まあいい、俺は先に行く。遊びすぎないようにな。後でまた連絡するから、それまで待っててくれ。」
会話を続けても大した利益はないだろう。そう判断したユリオンは、Xランス王Xに別れを告げ、部屋を出て美羽と合流した。
※※※※※※※※※※
<方舟要塞>の城内には、屋外の中庭がある。
その中庭はイギリス風のデザインを参考にし、色とりどりの花々が周囲を彩っている。花壇や花崗岩などの自然の造形物が、小道をいくつも周辺へと延ばしている。中央には小型の噴水があり、噴水から溢れる水は、精巧に作られた人工の水路を通って、いくつかのヨーロッパ風のあずまやをつないでいる。
ここはかつて<遠航の信標>のメンバー数人によって設計され、後にギルドメンバーたちの一番お気に入りの集会所となった場所でもある。
中庭にはいくつかの石造りのテーブルと椅子が置かれており、そのうちの一つは男女二人が占有している。
男は目立つ銀髪を持ち、椅子に体を預けながら、隣の女性が淹れたお茶を悠然と飲んでいる。
女性は少し露出の多い巫女服を着ており、成熟した色気に満ちた前後の曲線美を持っている。彼女の頭に生えた狐耳と背後のふわふわした尻尾は、彼女が普通の人間ではないことを示している。
「主君、まもなくご指定の時間になります」
「そうか、わかった。君も俺の隣に座ったらどうだ?ずっと立っているのは疲れるだろう?」
「ご厚意、感謝いたします。しかし、それは恐れ多く、妾には辞退させていただきたいと思います」
「もっと楽にしていいんだ。そっちのほうが俺も嬉しいからさ」
「承知しました」
「……」
(リラックスしろって言ったのに、本当に聞いてるのか?)
こんな会話が繰り返されてばかりだった。美羽のようにしっとりした美しさが、ユリオンにはとても心地よい。でも側に置いておくのが、少し申し訳なかった。
ユリオンのカップが空になると、美羽は手際よく茶器を手に取り、彼に茶を注ぎ続けた。彼女の動きは巧みで優美だった。明らかにこの種の給仕はメイドの仕事だが、彼女はひと言も発せず、しかも完璧にこなした。
実際、ユリオンを見た後、メイドが手伝いに来ると言っていた。しかし、彼女は、自分を創造したマスターに仕えたいという理由で、断った。
<遠航の信標>のメイドNPCのほとんどはXランス王Xによって作られ、ここの仕事の担当者も含まれている。
「主君、誰か来ました」
「ああ」
ほぼ同時に、地面に複雑な幾何模様が突然現れ、その真上にも同じような模様が展開された。それはゲームの中で見られる魔法陣そのものであり、二つの魔法陣が重なり合うように近づき、やがて消滅した。そして、消えた魔法陣の中から一人の青年の姿が現れた。
部下が訪れたのを見て、ユリオンは立ち上がり、相手の方へと歩み寄った。
「ライインロック、先に着くのはお前か」
「は!ライインロック、ユリオン様に謁見いたします」
彼は片膝をつき、頭を下げてユリオンに礼を取った。その動作はまるで中世の騎士を思わせるような風格があった。
「礼はいい、立て」
「はい!」
何度か確認した結果、ユリオンはNPCたち、特に自ら手掛けたNPCたちが、自分を絶対的な君主として見ていることに気付いた。だからこそ、彼らはこのように敬意を込めた振る舞いをしているのだ。
もともと普通のサラリーマンだったユリオンは、一人の支配者として、こんな風に自分を見上げるNPCたちにどう対応すればいいのか、まったく分からなかった。ただ、かつて見た時代劇を参考にするしかなく、そして極力言葉を控え、慎重に話すことでボロを出さないよう努めていた。
その時、ライインロックの背後で、先ほどと同じ魔法陣が次々と現れた。光が消えた後、約20人がユリオンの視界に姿を現した。
その中には、純白の礼服を纏ったエルフの少女と、軽装の鎧を身にまとい、騎士風の雰囲気を持つもう一人の少女がいた。二人は他の者たちを率いてユリオンの方へと歩いてきた。
先頭の二人の少女は、一定の距離まで近づくと足を止め、ユリオンの前で跪伏した。その後ろに続いてきた者たちも同じように、片膝をついて頭を垂れ、主人に礼を尽くした。
「エレノア、及び十人の近衛騎士たちが、我らの創造主に謁見いたします」
「シーエラ、補助魔術団を率いる、我らの創造主に謁見いたします」
二人の言葉が終わると、彼女たちの背後に控えるNPCたちが、威勢のある声で応えた。
「「「ユリオン様に謁見いたします!!!」」」
「うむ――良く集まったな。諸君、我が呼びかけに応じてくれたことに感謝する。君たちなら、私の全ての指示を完璧に成し遂げられると信じている。」
(この迫力、ちょっと怖すぎるだろ……。でも準備しておいてよかった。てか、この言い方で大丈夫なのか?ちょっとやり過ぎたかな……)
NPCたちの威勢に圧倒され、ユリオンはすぐには応答できなかった。しかし、その顔には慌てる様子も怯む気配も一切なく、感情を表に出さない無表情を貫いていた。内心では動揺していたにもかかわらず。
それは彼が、このような状況に動揺する可能性があることを予想していたからだ。そこで彼は、特別なアクセサリーである<ポーカーフェイスペンダント>を身に付けていた。これは昔のイベントで手に入れたもので、所有者のアバターがポーカーフェイスをすることができるものであり、楽しむこと目的だけのものであるため、ユリオンはほとんど使用しない。
(ここに役立っているとは、これを売らなくてよかった)
「「「はい!我らはすべてを捧げる覚悟でございます」」」
地面に跪いていた一同は顔を上げ、その瞳には興奮と感激に満ちた輝きが宿っていた。
(反応はまあまあだな。一応合格点ってところか。あとでなんとかして帝王のスピーチ術でも学ばないとな……ギルドの蔵書にそういうのがあるといいけど)
そんな取るに足らないことを考えていたユリオンは、エレノアとシーエラがこっそりと彼の隣、正確にはユリオンの傍らに立つ美羽を一瞥したことに気づいていなかった。
美羽も彼女たちの視線に気付き。彼女は意味深な笑みを浮かべると、手に持った扇子で顔を隠しながら、優雅な足取りで二人の方へと歩み寄った。一方、ライインロックも同様に、跪いている二人の傍らへと歩いていった。
彼らはシーエラとエレノアと並んで、ユリオンの前に一緒に跪いた。
「身を起こせ。現在、この<方舟要塞>は原因不明の異常事態に巻き込まれている。余計な儀礼は省き、現時点で得た情報を直ちに報告せよ。まずは――エレノア。拠点周辺の状況について報告せよ」
「はい!御命令に従います」
ユリオンの指示に従って、エレノアは数人の部下を連れて、異変が起きた直ちにギルド拠点の周辺を偵察した。
彼女は両手を胸の前で平らにし、簡潔な魔法陣が迅速に展開され、半透明の画面がその場に浮かび上がった。
映像の中心には、ユリオンにとって見慣れたギルド拠点<方舟要塞>が映し出されており、その周囲は密集した木々に囲まれていた。映像がズームアウトすると、果てしなく広がる森林が徐々に姿を現した。
「画面に示されている通り、現在<方舟要塞>は未知の森林地帯に位置しています。比べた結果、この森は《Primordial Continent》のどの地域にも属していないことが確認されました」
「森林か。もともと近海の空中に停泊しているはずだが、その振動は落下によるものなのか?」
「可能性は低いです。この周辺には衝撃の痕跡が見当たらず、落下によるものとは思えません」
「そうか」
(やはり、ここは《Primordial Continent》ではない。——ゲームの中じゃない。今この瞬間に感じている全てがあまりにもリアルで、完全にゲームのシミュレーションとは思えない)
「エレノア、この辺りに村や町はあるか?」
「半径30キロ圏内には、建物らしきものは存在しません。探索範囲を広げれば、何か発見できるかもしれません」
「今は必要ない。他に何か発見はあるか?」
「はい。知性を持ち、コミュニケーションが取れる生物は見つかりませんでしたが、森の中には様々な種類の魔物がいることが確認されました。ここは魔物の生息地である可能性があります」
「魔物か?詳しく教えてくれ。《Primordial Continent》に登場した種類か?お前たちは戦ったのか?その脅威度は?」
「外見については、観察したほとんどの魔物が《Primordial Continent》に登場する種族と似ています。ユリオン様の命令に従い、直接交戦は避けましたが、しかし——」
「何かあったのか?」
「はい。いくつかの魔物の群れが拠点に攻撃を仕掛けようとしましたが、それらはすべて外側に配置された自動防衛ゴーレムによって簡単に撃退されました。一部の残党も、巡回中の警備隊によって速やかに殲滅されました。我が方に被害は一切なく、総合的に判断して、それらは脅威ではなく、単に数が多いだけと考えられます」
「攻撃してきたのは数頭の魔物ではなく、数群なのか……どれくらいの数だ?」
「お答えさせていただきます、ユリオン様」
話を引き継いだのは、警備を担当するシーエラだった。ユリオンは軽く頷いて許可を示し、シーエラは続けて報告を始めた。
「拠点を攻撃してきた魔物の数はおよそ1000体、さらに約2000体が外周で様子を窺っていました。攻撃を試みた魔物が全滅するのを目撃すると、それらは拠点周辺から退却しました」
(思っていた以上に多いな。エレノアがここを魔物の生息地と判断した理由も分かる。それでも被害が一切ないのは幸いだ。警備を強化しておいたのは正しい判断だった)
「ご苦労。君たちの情報は非常に貴重だ。今後も警備体制を万全にし、重要施設や入口には常に人員を配置し、交代制で監視を続けること。人員配置やシフトの調整は、ライインロックに一任する」
「承知しました!アルジ様より任せていただき、感謝いたします。この使命、必ずや果たしてみせます。」
「うーん......」
創造主から指名されたことに、ライインロックは胸の内で大いに喜びを感じていた。しかし、それを表情には一切出さず、厳粛な態度を保ち続けた。一方で、隣に立つシーエラは、羨望の眼差しで彼を一瞥した。
「シーエラ、エレノア、よくやってくれた。褒美を与えたいが、何か欲しいものはあるか?」
功績を挙げた部下を報奨することは、管理体制を強固にするだけでなく、他の者への刺激にもなる。そう考え、ユリオンは二人に尋ねた。
「恐れ多いお言葉を頂き、感謝の念に堪えません。しかし、ユリオン様にお仕えすることこそが、あたしにとって最上の喜びであり、願いでございます。ですので、特別な褒美は何も必要ございません」
「ご厚意に感謝します。わたしもシーエラと同じ意見です」
「無欲無求は悪いことではない。しかし、部下の功績を表彰しないのは統治者の本分を欠くことになる。遠慮する必要はない。俺の力の及ぶ範囲なら、どんな望みでも叶えよう」
ユリオンの揺るぎない言葉に、二人は再び考え込んだ。互いに視線を交わした後、決心したように声を揃えて口を開いた。
「「どうか、常にあなた様の側に仕える権利をお与えください」」
「それだけで本当にいいのか?」
(意外だな……こんなに簡単な要求とは思わなかった。設定上、二人はもともと俺の左右の補佐で、側にいるのは当然のことだ。それが本当に褒美になるのか?)
「はい、いつでもご命令に従えることが、あたしにとってこの上ない光栄です」
「この身はあなた様のために存在しています。片時も離れることなく、その本分を全うするのがわたしの務めです」
シーエラとエレノアは迷いのない口調でそう言い切った。
「君たちの気持ちは受け取った、望むとおりにしよう」
「「ご厚意にありがとうございます!」」
(気のせいか?なぜかエレノアが美羽の方をちらりと見たような気がする)
部下たちの報告から、ユリオンは《Primordial Continent》で習得したスキルや魔法が、この世界でも問題なく使用できることに気づいた。さらに、彼らが装備している武器や防具も元々の効果を維持していることが判明した。
戦力がそのまま保たれているという事実は、ユリオンにとって心強い要素だった。しかし、同時に新たな疑問が浮かび上がった。この世界では《Primordial Continent》のレベル評価が通用するのか?自分の力はこの世界においてどの程度の位置にあるのか?それを確かめるには、実際に自分で試してみる以外に方法は思いつかなかった。
確認が済むまでは、行動を慎重にし、できる限り他の勢力との衝突を避けるべきだ。
「シーエラ、拠点内の防衛機能、特に拠点全体をカバーする大型防護結界と浮遊機能は正常に作動しているか?」
「申し訳ありません、時間がなく、まだ確認が取れていません」
「それなら、この会議が終わった後すぐに確認し、俺に報告してくれ。防壁機能が正常なら、ミラージュ結界と通常の防御結界を起動するように」
<方舟要塞>は、拠点全体を覆う防護罩を展開する能力を持つ。その中でも最も頻繁に使われるのが通常の防御結界で、外部からの侵入を阻止し、高位の魔法攻撃や物理攻撃を防ぐことができる。
さらにもう一つ、ミラージュ結界は、結界内部の景色を幻影に置き換え、周囲の環境と完全に溶け込ませる能力を備えている。簡単に言えば、カメレオンのように姿を隠す能力で、外部から見た場合、<方舟要塞>は周囲の森と見分けがつかず、大半の探知能力を無効化するという優れた隠密機能を持つ。
「それで、シーエラ。拠点内の各機能が正常に使用できるか確認したいんだ。防壁の確認が終わったら、君と君のチームメンバーで確認し、その後報告書を作成して俺に提出してくれ」
「はい、御心のままに」
「エレノア、拠点内の全ての調整可能な人員について、報告書をまとめてほしい。この件は非常に重要だ。できれば今日中に完成させてくれ」
「承知しました。できる限り早く仕上げます」
「無理なお願いをしてすまない。ただ、今は特別な状況だから、どうか理解してほしい」
ユリオンの推測によると、現在拠点内には600人以上のNPCが駐留しているはずだ。その全体の状況を把握するのは決して簡単な作業ではない。
「そんなことはありません!ユリオン様、あなたは私たちにとって至高の統治者です。お仕えできることこそが、この身の誇りであり、少しも辛いとは思っておりません」
「それなら頼む」
「はい!」
シーエラとエレノア――こんなにも忠誠心に満ちた部下がいることに、ユリオンは安心すると同時に、少しの申し訳なさを感じていた。
(せっかく二人が俺の側にいることを許してくれたのに、また外に行かせるなんて、なんだか申し訳ないな。後で何かで彼女たちを補償する方法を考えよう)
「美羽、できるだけ早く新しい連絡体系を編成し、ライインロックと調整を進めてくれ。情報や指令が迅速に伝達されるようにしたい。指揮所をお前に任せるから、そこで新しい情報ネットワークを構築してくれ。」
「畏まりました。この身を尽くし、主君のご信頼に応えられるよう全力を尽くします。」
彼女は驚きの表情を抑え、厳粛で真摯な態度でユリオンに誓約を立てた。
ユリオンが指揮所を美羽に託すという指示を聞いて、NPCたちの間にざわめきが広がった。無理もない。指揮所を含む重要な施設は、これまで君臨者が管理してきたのだ。それがいま、創造物(NPC)の手に委ねられるというのは、他のNPCにとって非常に重大な意味を持つ出来事だった。
「おおお!」
「美羽様が......」
「君臨者様たちの領域を管理するなんて、恐ろしいですね」
「羨ましいな、私も......」
「静粛に。ここはユリオン様の御前です。」
エレノアが透き通るような力強い声でその場を制すると、騒ぎはたちまち収まった。
「そろそろ、全員——」
「ユリオン様!」
ユリオンが会議の終了を宣言しようとしたその時、一人の幼い姿が中庭に駆け込んできて、彼の発言を遮った。
その場にいたNPCたちは皆、不満そうな目でその闖入者を睨みつける。しかし、誰が来たのかに気づいたユリオンは、すぐにその者を庇う行動を取った。
「構わない。何か緊急の用件か?目的を話してくれ、セトカ」
「ご寛容に感謝いたします。千桜様が目を覚まされました。身体に特に異常はないようですが、精神的にかなり混乱されており、難解な言葉を多く口にされています。僕一人では解決できないと判断し、ユリオン様に助けを求めに参りました」
「千桜か……分かった。今すぐ向かう。他の者たちは解散し、それぞれの持ち場に戻れ。セトカ、案内を頼む」
「はい!感謝いたします」
千桜が混乱しているのは無理もないことだ。彼女の気持ちを鎮められるかどうかは分からないが、公会長として現状を説明するのはユリオンの義務だ。不安を抱えながらも、ユリオンは千桜の部屋へと向かった。
※※※※※
茶髪の少年――セトカの案内で、ユリオンは千桜の部屋の前にたどり着いた。
彼は礼儀正しく扉をノックした。すると、すぐに扉が開き、中から小柄な顔が覗いた。
出迎えたのは、セトカと似た外見を持つ一人の少女だった。
「ユ、ユリオン様!?」
「リリア、千桜は中にいるのか?」
「あ、はい!今、同僚たちが千桜様のお世話をしています」
「大まかな状況はセトカから聞いたが、では先に入る」
「あ……」
相手の反応を待たずに、ユリオンは速足で室内に入った。
玄関を通り、リビングに入ると、一人の気だるそうな少女が丸いテーブルのそばに座っていた。
彼女の顔色は優れず、瞳には生気がなく、目尻は赤く腫れていた。どうやら少し前に泣いていたようだ。
一人の少年が彼女の前に置かれていた紅茶を片付け、新しい紅茶を差し出した。片付けられた紅茶はすっかり冷たくなっており、ほとんど手を付けられていなかった。
その少女の側には、まるで中学生のような少年少女たちが数人立っており、心配そうに彼女を見つめていた。
(やはり、彼女はかなりショックを受けているな……)
ユリオンはすでに彼女の目の前にいったなのに、彼女はまだ無関心で、まるで彼を気づいていないかのようだ。
「千桜、邪魔した」
「……」
相手の反応を待たずに、ユリオンは再び彼女の名前を呼んだ。
「千桜」
「……ユリ...オン?」
「うん」
以前と比べて、彼女の声はかなりかすれていたが、やっとユリオンに気づいた。
「ちょっと、話をもらいない?」
彼女は答えず、微笑みながら頷いた。
(こんなに落ち込んでいる彼女を見たことがない。どうすればいいだろう……次に言うべきことは、彼女と1人で話したいが、この状況では彼女と2人きりのは少し難しいだろうな)
「セトカ、リリア、ここで俺たちに仕えてくれ。千桜と重要な話をするつもりだ、他の人は外で待機してくれ」
NPCたちはユリオンの命令を聞いて驚き合い、しかしすぐに彼らはユリオンの指示に従って室内を去った。セトカとリリアだけが、引き続き千桜のそばに留まった。
「ユリオン様、どうぞ」
「ありがとう」
リリアは巧みに紅茶をユリオンの前に置き、その後でセトカの後ろに回り、千桜と一緒に立っていた。
「君は気づいていると思うが、今俺たちは異常な状況に巻き込まれている。ログアウトやコントロールパネルも使えない、運営者にも連絡が取れない」
「うん......」
「正直なところ、何が起こっているのかはまだ完全にわかっていないが、全く手がかりがないわけではない」
「......」
おそらくこの言葉が彼女の心に少しの希望をもたらし、千桜の暗い瞳が再び輝きを取り戻した。
ユリオンは以前にシーラーや他の仲間と話した失踪事件、およびその一部の後続情報を、自身の推測と共に話した。本来ならば、十分な確信を得た後にこれらの内容を仲間に伝えるつもりだったが、千桜の状態が心配だったので、彼は悩んだ末に、不確かな内容でも千桜を立ち直らせることができれば、今すぐにでも話すことにした。
ユリオンの話を聞いた後、千桜がやっと口を開いた。
「つまり、私たちは今、異世界に転移された可能性があるってこと...?」
「ああ、その可能性が大い」
「なぜそう言い切れるか?」
「外の地形はどのゲームにも属してない、未知の魔物がたくさん存在している。それらの外見は<Primordial Continent>の生物に似ているが、ゲーム内では見たことのないデザインばかりだ。それに——」
説明の代わりに、ユリオンは前の紅茶を手に取り、一口飲んだ。
淡雅な香りが口の中に広がり、ユリオンの口の中で漂った。茶の温度はちょうどよく、甘さと微かな苦味が絶妙に組み合わさり、味に深みを与えている。
紅茶をあまり飲まないユリオンでも、リリアの紅茶の腕前が非常に優れていることに気付いた。
「美味しい紅茶だ。君も試してみないか?」
「何を言っているの?あっ――」
千桜は彼を疑いの眼差しで見つめたが、ユリオンが何を考えているのかは分からない。しかし、彼女はユリオンの姿勢を真似て、ティーカップを手に取った。ティーカップを口に運ぶ瞬間、彼女は突然目を見開いた。
「……美味しい」
ふたりの評価を聞いて、傍のリリアとセトカは喜びの笑顔を見せた。
「気づいているだろう?」
「ええ……嗅覚や触覚、どれもゲームには存在しない要素よ。これらがあまりにも“リアル”で、ゲーム内のキャラクターを使っているという感覚じゃない。まるで……自分の体みたいに。」
「その通り。サーバーの負荷はもちろん、今の技術じゃこれらを実現することは不可能だ。俺たちの身体も同じだ。自分の体温や心拍を感じ取れるだろう?」
「言われてみれば……確かに。」
徐々に状況を理解する千桜の表情はますます深刻になった。
「……どうしよう?」
「ん?」
千桜の声はとても小さく、ユリオンには聞き取れなかった。
「どうしよう……どうしたらいいの!?こんな訳の分からない状況に遭遇して、異世界に飛ばされるし、体はゲームのキャラクターに変わってしまうし!私たちはここでどれくらい過ごすことになるの?元の世界に戻れるの?わ、私……うぅ……」
抑え込んでいた感情が一気に溢れ出し、千桜は顔を歪めながら、不安を涙と共に吐き出した。
「千桜……」
「来週……来週には大事な……公開授業の進行を担当しなきゃいけないの。それは私の教育実習でとても重要な評価基準なのに……うぅ……予定もめちゃくちゃになって、どうしたらいいかわからない……」
彼女は苦しそうに両手で顔を覆い、指の隙間から涙がこぼれ落ちていた。
千桜が言ったその公開授業について、ユリオンも聞き覚えがあった。現実世界の千桜は教育学部に通う大学生で、将来は小学校教師になるのが彼女の夢だった。
その夢を実現するために、彼女は多くを犠牲にしてきた。今が重要な時期であり、学業の要求から、彼女は小学校での実習に行く予定だったが、この状況のせいで、千桜の苦労が全部無駄になるかもしれない。
「千桜様……失礼いたします」
リリアは千桜の傍に歩み寄り、ハンカチを取り出し、優しく涙を拭い、同時に治癒魔法を使って、彼女の目の腫れを徐々に引かせた。
「リリア……ありがとう」
リリアの行動によって、千桜の憂鬱な顔が少しの微笑みを浮かべた。
(千桜にとって、彼女ら心血を注いで創り上げた子供たちが自我に目覚めたことは、唯一の慰めかもしれない)
彼女の気持ちが少し落ち着いたのを見て、ユリオンは再び口を開いた。
「千桜、現時点ではまだ多くのことが不明確だが、ただ一つだけ保証できることがある」
「ユリオン会長——」
「必ず地球に戻る方法を見つけ出し、そして皆を無事に連れ帰る。俺のギルド長としての名にかけて、君に誓う」
ユリオンは力強い視線で千桜を見つめた。彼の想いが千桜に伝わったのかもしれない。彼女の朱い瞳が再び活力を取り戻したかのように輝いた。
「会長、お願い……」
「ああ、任せておけ」
二人のカップの紅茶が冷めかけているのに気づいたリリアは、トレイを手に取り、新しいお茶を用意しようとした。しかし、ユリオンがそれを手で制し、断った。
「ありがとう。でも、そろそろおいとまするよ。もう十分長居してしまった。千桜、君の顔色もまだ良くないから、もう少し休んだほうがいい」
「うん、そうする」
(あとはこの子たちに任せよう。千桜もだいぶ元気を取り戻したようだし、ここに来たのは正解だったな)
「リリア。お茶、とても美味しかった。招待してくれてありがとう」
「お褒めいただき、光栄です」
三人に別れの挨拶を済ませ、ユリオンは席を立ち、出発の準備を整えた。しかし、動き出す直前、何かを思い出したように足を止めた。
「セトカ、リリア、今日見たことを忘れて、誰も言わないてくれ」
「かしこまりました」
他のNPCに会話内容が漏れると、不必要なトラブルを引き起こす可能性がある。この2人は千桜が最も気に入るNPCであり、ユリオンは彼らなら秘密を守ることができると考えた。
「それではこれで。千桜、俺はまだやることがあるので、明日また会おう」
「ええ、また明日。リリア、ユリオン会長を見送って」
「はい、千桜様」
2人が部屋を出ると、リリアは真剣に頭を下げてユリオンに感謝の意を示した。
彼女の言葉によれば、千桜は目覚めてからずっと落ち込んでいたが、ユリオンの訪問のおかげで立ち直ったという。
「俺がすべきことだ。それよりも、千桜は君たちをとても大切に思っている、君たちに多くの心血を注いできた。今は君たちが彼女に恩返し時だ——」
「はい。ユリオン様、慰めの言葉、ありがとうございます。私たちは絶対に、絶対に千桜様の思いに応えます」
「俺の友人を頼むぞ」
リリアたちと別れ、ユリオンは次の目的地を考えいる。
NPCたちの仕事状況を確認するため、彼はまず本部に巡回することに決めた。
※※※※※※※※※※
間章:異世界の少女
美しい少女は草が一本もない荒れ地に、静かに立っていた。
彼女は目の前の景色をぼんやりと見つめ、紅玉色の瞳を何度も瞬かせ、現状に迷っているようだった。
「……」
彼女はゆっくりと両手を上げ、触感を確かめるように何度も握りしめては緩め、自分が夢の中にいるのかを確認しているようだった。
その時、微風が彼女の横を通り過ぎた。風は彼女の長い髪を視界に吹き込み、彼女はその時初めて、自分の目に映るのがまるで初雪のようにきらめく銀髪であることに気づいた。
彼女は次の確認をするつもりだったが、突然、遠くで馬に乗った一団が予兆なく現れた。彼らは少女の存在に気づき、彼女に向かって速度を上げて近づいてきた。
一定の距離に近づいた後、彼らは分散し、少女を取り囲んで警戒態勢を取り、雰囲気は非常に緊張したものになった。
(…これ、映画の撮影中?)
少女がそんな感想を抱くのは、相手の服装が時代遅れすぎるからだ。半数以上の人々が中世の騎士の鎧を着ている、残りの半分は白い法衣を着ていた。そのうちのいくつかの人々の法衣には金の縁取りが施されている、まるで中世の宗教指導者のようだった。
彼らは少女の周りに一定の距離を保ちながら、何かを話し合っているようだった。この理解不能な状況に、少女は混乱し、自分は何が起こっているのかを全く理解できないが、彼女が理解できる唯一のことは、相手が自分に対して善意を抱いていないということだった。
「ユリオン――」
彼女は無意識にその名前を呟いた。彼女にとって、それは自分が最も信頼している人の名前だった。
本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。
これからも引き続き頑張って執筆してまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
最後に――お願いがございます。
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