よく曇った月の日に
「月がきれいですね」
それはとてもきれいな満月で。
「そうだね」
私の言葉に、先輩は少しだけ間を置いて優しい声で言った。
うん?あれ?
「あ!違うんです!!あの!アイラブユー的なのじゃなくて!!」
「大丈夫。わかってるから!」
ゼミが終わって外に出るとすっかり暗くなっていた。
今日はなんだか解釈バトルみたいなものが長引いてしまい、疲労感もあった。そんな頭で見上げた月がまんまるできれいだったので思わず声に出してしまったのだ。
「あの、先輩と日常会話したことないからとりあえず天気の話くらいしかできないなと思ったら月があっただけで!」
隣にいる先輩は、ゼミでお世話になっているだけでだいたい教授経由、もしくは先輩対私たちという一対一ではない構図でしか関わっていないのだ。苗字を知っているくらいで、本当に同じ空間にいる以外の関わりがなかった。今日だってたまたま片付けが終わって外に出るのが同じタイミングになってしまっただけだった。その人相手に愛の告白はあまりにも脈絡がない。
「ほんとに、夏目漱石的な他意はなくですね!」
「大丈夫!わかったから!」
先輩は、後輩にそこまで全否定されるとなんか切ない、とこぼして笑った。
「ほんとに月がきれいなだけの時に隣に人がいたらそう言えないのって厄介ですね」
「まあ逸話であって真実かわからないとは言われているけどね」
そう言って顔を上げて月を見上げる先輩につられて月を見る。まんまるの満月。
月がきれいなのは、見たままの真実だとしても。
好きな人と一緒に見るから余計にきれいに見えるのだろうか。
「ロマンチックだけど言葉が足りないと思いませんか」
「当時の背景を考えるとそれでも足りるそうだけど」
「現代ではもっと直接的にその人に言わないと好意は伝わらない気がするんですよね」
「たいして会話したことない相手にはただの空の話ですね」
「根に持ってますか?!」
文学ゼミ延長戦、というかのようなやりとりだ。
先輩とはゼミ以外ではほぼ会話をしたことがなく、そのゼミでもやや難しい言い回しをする教授の解説、というか通訳という感じに近い。
「あと、相手がそれを知らないとこちらが意図していても、ただの空の話になりますね」
「文学部の先輩相手に大変失礼いたしました!」
つらつらとわざと丁寧に言いながらも、先輩は怒っている様子もなく、非常に楽しそうだった。
月のきれいな夜に、まるでうさぎの餅つきみたいに会話が弾む。
それからも当たり前にゼミで先輩と顔を合わせる日々が続いた。
先輩についてわかったことは、ちょっとふざける時はわざと敬語を使うこと、消せるボールペンを消すのが下手なこと、話しかけにくそうに見えるだけで別に話しかけられるのが嫌いではないこと、物語よりも文章の表現が好きなこと。
「先輩、月がきれいですねってあれ、言う方は勇気がいるのかもしれませんけど」
「まあ告白ですしね」
「返すほうにロマンチックさや表現力を咄嗟に求められるほうが理不尽だと思いませんか?」
「気の利いたことで返そうとする必要はあるんですかね」
「詩的な表現に適当に返すのは申し訳なくないですか」
「あの時のことですか」
「告白ではないのであの時はあれで正解です」
連絡先も知らないまま、会う機会があればぼんやりと会話をする。
私は先輩とのそんな時間がいつの間にかとても好きになっていた。
またゼミが長引いた日。
私は先輩の横に並んで言うのだ。
「月がきれいですね」
それはなんともいえない曇り空の夜で。