夜蝶
このバーを構えた理由?随分昔の話ですよ。長くなりますが、お酒の換えは要りますか?
太陽も街もことんと息を潜めたころのことでした。その日は星の影が地面に落ちるほど、月の光がらんらんと輝いていました。十二月の暮辺りでしたかね。まだ少年だった私は、子供らしく勉強から逃げたかっただけなのに、いつの間にか朝からも逃げていたようでした。そんなことはないと分かっていても、そう思えるような長い長い夜でした。
家をあとにするとき、自分の息を飲む音が、いやに大きく感じられました。夜風に吹かれながら家の鍵を回せば、私だけの世界に内側から鍵をかけたような気分になれました。
いつも学校に行くときにいやいや歩く道だって、月と共になら平気で歩けます。私の小さな足から、小さな足音が街にこだましていました。
さて、向かうのは果ての海。なにかを目的にして歩くわけではないことが、勉学に縛り付けられた日々を送っていた私にとってはなによりも嬉しいことでした。
学生だった私にとって、生きているかさえ分からない将来のために机に向かうのはつまらないものでした。これをこらえればいい景色だ、なんて言ったって、今が辛くちゃ意味がないのですから。
家から少し歩いたところには、ひとつ公園がありました。蓮華のたくさん生えた、ぶらんことすべり台しかない、簡素な公園です。街灯には、鱗粉をきらめかせながら羽を休めている蝶がいました。浅瀬色の、美しい蝶でした。
「きみも、僕と同じかな」
ひとりで、月明かりに縋る私と。
軋むぶらんこに腰掛け、足で軽く揺らしながら、少しの間もの思いに耽っていました。吐いた息が白く広がっていくのを、ただずっと見つめていました。ゆりかごのように規則的に揺れるそこは、どこか懐かしさを感じさせました。
蝶だけが、私を見つめていました。
ひとしきりしてから、私は蝶に別れを告げました。ついでに、一番きれいに咲いていた蓮華を蝶にプレゼントしました。蝶はゆるゆると羽を動かしていました。まるで私に手を振るかのように。
街灯に照らされてのびる影とともに、私は星を眺めながら、ゆっくりと足をすすめ始めました。星なんて興味もなかった癖してね。まあ、いつも下を向いていちゃ気も滅入ります。勉強をしなくていいときくらい、上を見ていたかったんでしょうね。
しばらく歩いていると、小学生のころに足しげく通った駄菓子屋がありました。でもそこはもう、シャッターをあげることはありませんでした。看板猫によく餌をやっていた皿だけが、土まみれになって居づらそうに残っていました。
あの頃は楽しかったな、なんて、たかが三年前のことを子供なりに懐かしんでいました。……勘定をしていたおばあさんは、もういないんでしょうね。
思い出に浸っていると、ふと、酒の匂いがしました。あの辺りには居酒屋なんてないですから、不思議に思いながらも歩き続けました。すると、明らかに私の足音ではない、高いヒールから出る音がしました。
なんたって田舎でしたから、あんまり素敵な格好をしていたらあそこじゃすぐに噂になります。不審に思って振り向くと、髪の長い、煌びやかなドレスを着た女性が、柔らかな笑みをたたえてこちらを見ていました。
私はさすがに驚いて、その場に固まることしか出来ませんでした。人なんてその時まで一人も見ませんでしたから。ましてやこの辺じゃ浮いた服の女性ですよ。失礼ですが、不審者ではないかとまで思いました。
「こんばんは、ボクは家出かな。」
ボク、と呼ばれたことも、家出なんて子供っぽい言い方をされたのも少し癪でした。
「家出じゃありませんよ。受験勉強に疲れたから、ちょっとだけ休憩をね。」
少しだけ背伸びをした、背筋のこそばゆくなる喋り方で答えました。
「こんな夜中に?珍しいね。取って食われたって知らないよ。」
貴女だって危ないんじゃないか、と言おうとしましたが、すんでのところで飲み込みました。
「…まあ、私もちょうど暇だったから。君の家出に付き合ってあげよう。」
適当な理由をつけて、その女性は私についてきました。近くで見るとまあ端正な顔で、空気と戯れるさらさらの黒髪がよく似合っていました。白いコートの下から覗く、ひらひらとなびく青いドレスは、公園で見た蝶を連想させました。冬も本番でしたから、とても寒そうな装いでしたね。高い音を鳴らすヒールは、すぐに折れてしまいそうなほどに細いものでした。
「お姉さん、そんなに高いヒールじゃあ歩いていられないよ。僕は向こうの海へ行くんだよ。」
「そのときは、君がおぶってくれればいいじゃないの。」
てんで面倒な女に捕まってしまいました。でも私は未だにここでその女性を待っているんだから、世話ないでしょう。私はきっと、女性の尻に敷かれるタイプなのでしょうね。
はぁ、自分のことはなかなか話さないものですから、少し疲れました。私も一杯いただきますね。
……このバーも長らくやっていますが、その中でもあなたが一番の顔なじみですよ。いつも贔屓にしてくださってありがとうございます。
さあ、話の続きをしましょうか。
私にだって警戒心はありますから、見ず知らずの人を隣に置くのは気が引けました。そこで私は、なんでもいいから、相手のことを少しでも探ろうとしました。中学生にしては賢明でしたね。
「お姉さん、名前はなんて言うんですか。」
…その女性は、一向に名乗ろうとはしませんでした。ただ、はぐらかすように笑っていました。
「言いたくないんですか。じゃあ、歳はいくつなんです?」
女性は考えるような素振りをしてから、「んー、二十三」とだけ答えました。
「どんな仕事をしてますか?」
「えーっとね、バーで働いてるよ、君も飲める歳になったらおいで」
とは言われましたが、バーで働くには少し華美すぎる格好でした。当時は納得していましたが、実際は水商売だったのでしょうね。
「君は勉強の休憩中なんだよね。どう?勉強楽しい?」
私はその時十五歳、青臭いことばかり考えていました。年相応に、格好ばかりつけようと必死でした。
「生きているかさえ分からない将来の為に勉強するなんて、楽しいわけないじゃないですか。僕はもっと自由に生きていたいです。」
思い出すだけで恥ずかしいセリフです。自分の記憶力を恨みたくなります。
「そうだねえ、君の言う通りだ」
彼女は微笑んでそう言いました。青臭いと叩かないあたり、彼女は優しい人なんですよ。
「けどね、勉強をすれば物が美しく見える幅も広がるよ。」
「美しく見える幅?」
「そう、国語を学べば言葉の美しさ、数学なら世界の規則正しさ、理科なら自然の力強さ、歴史なら人類の軌道の愚かさや強かさ。」
彼女の言い分は独特なものでした。大人はみな、勉強をすればいい仕事に就けるだの、将来が安定するだの
、生きやすさや世間体にばかり目を向けていました。それだって全く正論なのですが、子供が求めている言葉はそんなものではないのです。彼女はただ自らの感性のために学んでいるようでした。
「へえ、お姉さんは勉強できるんですか?」
「……いんや、お姉さんはあんまり学校行ってなかったから。」
一瞬だけ、瞳が揺らいだのがわかりました。暗闇の中でも黒目の輪郭がはっきりとわかるくらい綺麗な瞳でしたから。彼女にとって学校は嫌な思い出なのかな、となんとなく伝わって、それ以上掘り下げるのはやめにしました。
それからはなんとなく言葉が出なくなって、目線を落として黙々と歩いていました。でも、不思議となにか話さなきゃ、という独特の焦燥感はありませんでした。まるでただの動物が隣にいるかのように。
空が静かに光をたたえて、私たちを包んでいました。潮の匂いがかすかに鼻を掠めて、海風が頬を撫でていきました。
「ほら、君の想い人だよ」
彼女はそう私に告げ、銀河を映す海に駆けていきました。高いヒールで歩きづらそうに砂浜を踏み、さざ波に耳を傾けていました。
真夜中だというのに、彼女はやけに明るく見えました。なめらかなドレスの生地まで、はっきりと視認できました。
私は彼女の隣まで歩いていき、その場に座り込みました。彼女もドレスを汚さないようにしゃがみ、細い指で星屑のように輝く砂をもてあそんでいました。
「僕、本当は休憩のためにここに来たわけじゃないんです」
そんなこと知っている、とでも言いたげな目で、彼女は私に瞳を向けました。
「明確に理由があってここに来たんじゃないんですけど…不安なんです、将来が。僕、特段頭がいいわけじゃないんですけど、世間一般ではいいって言われる部類みたいで。」
贅沢な悩みなんだろうけど。
「頭のいい高校に入って、それからもずっと勉強してなきゃいけないのかなって、思って…いや、勉強するのは当たり前なんですけど、僕も周りのみんなみたいに、赤点をとって笑ったり、試験ぎりぎりの夜に電話して、焦りながら課題を終わらせる、みたいな。そういうことがしたかったんだけど、な…」
泣きそうになって、つんと鼻の奥が痛くなる。
ここまで真面目にやってきてしまったから、もう妥協は許されないような気がして。落ちることは簡単だけど、その勇気が出なくて。
「青春がしたいんだね。さっきも言ったけど、勉強すれば世界は美しく見えるよ。けど、青春の輝きには劣るかもしれないな。」
勉強なんていつでもできるけど、青春は本当に1度きりだから。と、彼女は遠い目をして付け足しました。
「つまりはさ、第一志望に落ちたいから、ここに来たんじゃない?」
図星でした。私が頭の片隅で微かに思っていたことが言語化されて、少しすっとしました。
「ワンランク下の高校なら、少し赤点をとっても、少し遊びすぎても、自分の頭なら取り戻せる。そう思ってるんじゃないかな。」
でも、一晩勉強しなかったからといって、特別頭が悪くなるわけではありません。ただ現実逃避をしたかった、というのもあったのかもしれません。
「…親には、言えないの?一つレベルを落としたいって」
「言えるわけ、ないんですよ。使える頭は使いなさい、なんて言うんですから。」
きっと、反対されるでしょう。親ならば子供に安定した未来を確約させたい、と思うのも妥当ですよね。
「君は本当に感性が磨かれているね。君が言っている青春は、確かにかけがえがなくて、美しいと思うよ。」
たくさん頑張っていい点をとる達成感も気持ちいいけれど、私はもう十二分にそれを感じつくしていました。一度だけでいいから、感性のまま動いてみたかったんです。
まだ感じたことのない楽しさを知りたい、それだけでした。
「勉強から逃げたかったら、いつでもここにくればいいよ。待ってるから。」
私を決して否定せずに受け止めてくれたのは、後にも先にも彼女だけでした。一度教師に同じ話をしたら、甘えるな、なんて言われましたから。
その次の晩から毎日、私は海へと足を向けていました。もちろん真夜中でしたから、昼間になると眠くて眠くて、勉強どころではありませんでした。そのおかげで、私の成績はみるみる落ちていきました。時たまなんとも言えない不安に駆られましたが、都度都度彼女が落ち着かせてくれていました。親にも担任にもため息をつかれましたが、私は嬉しくて仕方がありませんでした。
彼女はいつでも、綺麗な青いドレスで、きっちりと華やかな化粧をして、私を待っていました。たまに行かないときがあったら、「女を待たせて、その挙句来ないなんて」とぶつぶつ小言を言われてしまいました。毎日のできごとを話す私を見つめる彼女の瞳は、母性が滲んでいました。
……私は、違う気持ちでいたんですけどね。
結局、担任に第一志望は諦めろと告げられ、ひとつレベルを落とした高校に進学しました。友達もそこそこできましたし、思い描いた青春も謳歌することができました。
けれど、合格報告をした次の晩から、二度と彼女を見ることはできませんでした。
彼女はどうしているかな、と海を見る度に思い出しながら、何度も冬を越しました。高校を出たあとは平凡な会社に就職して、色恋沙汰には目もくれず働きました。女性といい関係になる度に、彼女と比較して落胆してしまっていましたから。傲慢ですよね。結婚願望もありませんでしたから、数だけ大きい貯金を切り崩してここを建てました。
もちろん勉強を諦めたことについては、後悔していますよ。自分の感情のために動くなんて、ばからしい。…でも、あの輝きはにせものではありませんでしたよ。
……彼女はきっと、公園で見た蝶だったんですよ。青い綺麗なドレスが蝶によく似ていましたし、蝶の寿命は長くて1ヶ月といいますから。そうなると、私は彼女の人生、蝶生のほとんどを貰っていたようなことになりますね。毎晩なんて、人間に換算したら何十年なんでしょうか。水の世界で働く女性を夜の蝶、とも言いますから。夜だけ変身できる、なんて。少しメルヘンすぎますかね。
そうやって納得したいんですけどね。性懲りもなく、ここで彼女が酒を飲みに来てくれるんじゃないかと待っている。かわいそうな男でしょう。
……ねえ、もう一杯いかがですか。