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1.「あっ、同じ味だわ」

「返せ!」


 夜明け前の薄暗い店内で、本家仁誠(もとや にせい)は叫んだ。そのツボに、店の存続がかかっていた。

 めちゃくちゃ高価なツボなのか? そうではない。大金が入っているのか? それも違う。中に入っているのは、この店特製の秘伝のタレ。先代の蔵吉が開業して半世紀、継ぎたし継ぎたし、大切に育てられてきた焼き鳥のタレだ。


 それが今、突然現れた謎の強盗にタレの命運を握られている。覆面を被った男が、ツボを片手で持ち、ゆらゆらと危なっかしげに揺すっているのだ。


「そんなに大事なんだ? こんなきったねえツボが?」


 周りにいた他の覆面男たちがひひひと笑う。仁誠は歯を食いしばった。歯なんか食いしばってないでツボを早く取り返せばいいのにと思うかもしれないが、そうもいかない。仁誠は今、別の覆面男に羽交い締めにされていて身動きが取れないのだ。

 仁誠はもがく。


「おまえら、一体何なんだ!」

「あんたの知ったこっちゃないぜ、若大将さんよ」

「一つ言えるのは、こっちはあんたの昇任祝いに来てやったってことだ」


 仁誠ははっと息をのんだ。ただの強盗じゃない。この店のことを知っている。仁誠が正式に店を継いだのは今日だったのだ。


 ガチャン! レジの方から大きな音がした。目をこらせば、レジの機械がひっくり返されたようだ。たくさんの硬貨がじゃらじゃらと床にこぼれる音がした。

 店のお金が危ない!

 仁誠のつま先がレジの方に向く。

 その時、ビタッ、と、何かがこぼれる音がした。タレだ。ツボを持っていた覆面男が、ツボを傾け中身を床にこぼしたのだった。


「こんな不衛生なもの、捨てちまおうぜ」


 とたん、仁誠の太い眉が、怒りでつり上がった。


「おい、ふざけんな!」


 仁誠は背後の男の腕をふりほどき、ツボに突進した。お金は後だ。いくら金を積まれたって、あの秘伝のタレは世界に一つしかない!

 しかし、仁誠は背後から蹴られて床にすっ転んだ。


「うぐっ」


 背中がずしっと重くなる。背後の覆面男が馬乗りになったのだ。起き上がれない。仁誠は十年前に運動部を引退してから、体の主成分は脂肪になっている。

 前方の覆面男は笑いながら、さらにツボを傾け、仁誠の顔にタレをこぼした。ビタビタッ。


 仁誠は悔しさのあまり、胸が苦しくなった。泣きたくなるのを、歯を食いしばりぐっとこらえる。口元にタレがとろりと垂れてきた。気持ちを落ち着けるため、ちょっと舐めた。深みのある塩辛さと肉のエキス、野菜と果物の自然な甘み。これが鶏肉に絡んで炭火で焦がされると絶品なのだ。こんな状況でも、やっぱり美味いのが憎い。


 いつもキレイにしている床は、いまや調理具やゴミが散乱し、目も当てられない状態になっている。

 ゴミの中に、小さな招き猫が転がっていた。

 レジ前に置いてあったものだ。右手が可動式になっており、揺すると腕が回って招く仕草をする。腹の部分に、“誠実”と書かれていた。


 先代は誠実さを大切にする人だった。

 この“本家もとややきとり”は、庶民的な小さな店だが、一人一人のお客さんをいつも丁寧にもてなした。

 肉の仕入れ値が高くなろうが、炭の値段が変わろうが、焼き鳥の大きさも価格も変えずに提供し続けた。また、串のささくれがお客さんに刺さっては大変だと、一本一本みがいていた。理不尽なクレーマー相手に、丁重に頭を下げていたのも、一度や二度ではない。

 その誠実さから生まれたのが、この秘伝のタレなのだ。


 ビタッ。


「なんで……!」


 そんな宝物を、なぜ、こんな理不尽なやり方で奪われなければならないんだ!

 こみあげる怒りにまかせて、体にぐっと力を入れ、仁誠は馬乗りになっていた男を押し上げた。


「うちは……うちはなあ」


 立ち上がり、床に転がっていた招き猫をつかみ、店のカウンターにどんと置いた。その腹に書かれた“誠実”の字を、覆面男たちの方に向けて。


「真面目に、誠実に、店を守ってきたんだ。あんたたちみたいな、アコギなやつらに、店を潰される筋合いはねーんだよ!」


 仁誠は力まかせに覆面男に飛びかかり、その手からツボを奪い返した。中を見ると、良かった、まだ半分以上残っている。蔵吉にタレを継ぎ足してもらえれば、今まで通り店を続けられる――。


 その安堵で、油断が生まれた。

 みぞおちに拳が打ちこまれ、仁誠は全身の力が抜けていくのを感じた。

 覆面男が、耳元でささやく。


「だから、邪魔なんだよ」


 聞き覚えのある気がする、声。

 この男、もしかしたら、“本家やきとり”のライバル店、“元祖屋”の店長ではないか? ――。


 いつの間にか、ツボは仁誠の手から離れ、宙で静止していた。違う、ゆっくりと床へ吸いこまれていくところだった。


 その後のことは、ショックのあまり、断片的にしか覚えていない。ばらばらになったツボ、床に飛び散ったタレ、覆面男たちが去って行く音。反対に、店に駆けこんでくる人の足音。


「仁誠!」


 気がつくと、強盗はいなくなっていた。その代わり、先代の本家蔵吉(もとや くらよし)が仁誠の肩をつかんで揺すっていた。

 彼は割れたツボの前で崩れこんだまま、呆然としていたのだった。

 いつの間にか陽が昇ったらしい。店内は朝の光で明るくなっている。


「親父さん……っ!」


 仁誠は歯を食いしばって泣き出した。

 齢三十、童顔のふっくらした顔をくしゃくしゃにして、いつも下がり気味の太眉は今ぎゅっと眉根に寄っている。大きな顔の割にちんまりとした愛嬌のある鼻から鼻水が垂れた。


「ケガはないか」

「おれは、大丈夫です。でも、タレが……」

「誰にやられた」


 蔵吉の手に力がこもる。

 しかし仁誠は、唇をかみ、何も言わなかった。こんな状況でも、彼は持ち前の優しさを捨てられなかった。誰なのか見当はついていても、断定はできなかったからだ。


「元祖屋の奴らじゃないの?」


 それをはっきりと言い切ったのは、仁誠の妻であり蔵吉の娘、真実だった。店の真ん中に立ち、その利発な目で店内を見渡している。少年のように短いその髪は、怒りで逆立っているようにさえ見えた。


「うちを恨んでるのは、あいつらくらいよ。ねえ、そうでしょ?」

「……その可能性は、ある」


 仁誠は絞り出すように言った。

 真実はつかつかと調理台に近づき、何かを取り出して店の出口に向かった。その手元がきらりと光る。包丁だ。それも、店で一番でかいやつである。


「本人たちに聞いてくる」


 蔵吉はうろたえた。


「やめなさい。気持ちは分かるが、一旦置きなさい。警察だ。駅前に交番があるだろう。そこに行って、事情を話してきてくれないか。こういうところには、第三者がいた方がいい。置きなさい、それは」


 真実は渋々、包丁を調理台に戻した。


「絶対許さない」


 彼女はそう吐き捨てて、表口から店を出て行った。

 通りに面した店の前には、何本かの上り旗がはためいている。どれも白地に赤い筆文字で、“秘伝のタレ”と書かれている。

 そして、通りを挟んで向かい側にある黒い建物が、噂の元祖屋だった。


 真実が元祖屋ではなく交番の方へ走って行ったのを見届けると、蔵吉は仁誠に目を戻した。

 仁誠は今まさに、床にこぼれた秘伝のタレを指ですくって舐めようとしているところだった。

 蔵吉はその手をつかんで止めた。仁誠の目からこぼれた涙が、タレに落ちる。


「……これからだっていうのに」


 仁誠はしゃくり上げた。


「昔から、おれ、ここの焼き鳥が好きで、このタレの味が好きで。部活帰りに食べた焼き鳥丼が、おれの青春だったんです。これからも、この店の味が、この場所が、誰かの忘れられない思い出になればいいなって、だからおれ、この店を継ぐって決めたんです。なのに、おれのせいで、こんな……!」

「仁誠くん」


 蔵吉は目尻の下がった小さな目で、じっと仁誠の目を見た。歳の割に多い白髪が、割れた窓から吹きこんだ風で揺れている。


「店を継いでもらったきみには、やはり、話さなければならないようだ。……本当は、わたし一人で墓場まで持っていこうと思っていたんだが……。でも、話すなら、今だろう。ちょっと、待っていなさい」

「おれのせいだ……」

「床は舐めるなよ」


 蔵吉は杖をついて勝手口から出て行き、やがてペットボトルのような容器を手に戻ってきた。蔵吉はそれを仁誠の前に差し出す。


「これを」

「ああ……どうも」


 仁誠はそのフタを開け、逆さにして一気に口に含んだ。飲み物だと思ったらしい。蔵吉はあわてて容器をつかんだ。


「違う違う違う! 早まるな!」

「んぐ!? ごふッ、おおええッ!」


 仁誠の口から黒い液体がこぼれた。それは調味料の入ったボトルだったのだ。

 蔵吉が水を差し出すと、仁誠はあわててそれをあおった。


「さあ、落ちついて聞いてくれ」


 しかし彼は、一杯の水で収まる程度の軽傷ではなかった。


「げえッ、うううう」

「うちの秘伝のタレは、まだあるんだ」

「ごるごるごるごる」

「落ちついて落ちついて、頼むから」


 蔵吉は、ちらりと入り口に目をやった。彼は、真実が帰ってくるのを気にしていた。彼女には聞かれたくなかったのだ。

 仁誠は二杯目の水で口をすすいだ。


「はあ、すみません。で、何でしたっけ。ええと、秘伝のタレはまだある」


 仁誠の太眉がぴくっと上がり、目と鼻の穴がくわっと開いた。


「えっ、本当ですか!」

「待て、まだ続きがある」


 立ち上がりかけた仁誠を、蔵吉は手で制した。


「なあ仁誠くん。きみには店を継いでもらったが、焼き鳥のタレのレシピも、その材料も、まだ教えていないな」

「だって、親父さんにしか作れないんじゃないですか」

「そんなことはない」


 蔵吉がうつむき、その顔に陰が差す。


「わたしも知らないんだよ」

「そんな、ご謙遜を」

「本当に知らないんだ」


 蔵吉は、先ほどの容器をもう一度仁誠に差し出した。


「さっき口に入れたとき、なにか感じなかったか」

「特に、なにも……」


 そこでふと、仁誠は違和感を覚えた。

 ペットボトルに入っていた中身に、彼は本当に“なにも感じなかった”のだ。なぜなら、それはあまりにも、彼にとって馴染みのある味だったからだ。


 仁誠はもう一度容器を手に取ると、中身を手の甲にたらし、静かに口に含んだ。

 その味に、思わず息をのむ。

 容器にはラベルが貼られていた。ひっくり返すと、その商品名が書かれていた。


 エハラ株式会社、謹製、万能のタレ。


 蔵吉は観念したように、目をつぶった。


「さあ、これで分かっただろう」

「そうか!」


 仁誠はぱっと顔を上げた。


「親父さん、いつの間にうちのタレを商品化したんですか!」

「逆!」

「ぎゃく?」

「それがうちの秘伝のタレの正体なんだよ」

「……え?」


 パトカーのサイレンが、店の前で止まった。真実が呼んだのだろう。


 蔵吉はタレのボトルを持って、杖をついて勝手口から出て行った。

 顔を上げた仁誠は、ふと、カウンターに置かれた招き猫と目が合った。金色のつぶらな瞳と、お腹の“誠実”の文字が、朝日に輝いている。

 仁誠は頭をかき、招き猫に向かって、困ったように笑いかけた。


「……知ってた?」


 店の表では、さわやかな春の空気の中で、“秘伝のタレ”の旗がはためいている。

~次回予告!~


町をにぎわす幽霊騒動、その正体は先代の蔵吉だった!? 

爆走する幽霊、宙を舞うテディベア、全ては店の秘密を守るため!

次回、「第2章 うちの店を継ぐ気はあるのか!」

お楽しみに!

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