胸が痛い
Side クロエール
「これが陛下から頂いた婚約解消の契約書だ。サインをしておけ」
「分かりましたわ」
お父様に言われて契約書の内容を確認してからサインをして、お父様にお渡ししました。
婚約の解消という事で、お互いに慰謝料などは発生しない代わりに、今後メイジュル様がわたくしに必要以上に接触しない事、貶めるような行為をしない事等の約束事が組み込まれていますわね。
「そちらの契約書の内容が大きく変わる可能性はございまして?」
「さてな。婚約解消のサインの場には『なぜか』ルシマード公爵も同席するそうだ。最後の抵抗かもしれんな」
「そうですか。陛下のお決めになった事に自分の事を優先して口を挟むなど、不敬罪が適用されるのではありませんか?」
「今の布陣であれば可能だろうな。その事も踏まえ、陛下は向こうに納得させるだろう」
「それは僥倖ですわ」
それだけ言って、わたくしは婚約解消には関係のない書類に手を伸ばしました。
明日から向かう領地視察の前に片づけておかなければいけない仕事がありますもの。
「ああ、そうだクロエール」
「なんでしょう?」
そのままわたくしの執務室を出て行くと思っていたお父様が、思い出したように口を開いたので、わたくしは伸ばした手を膝の上に戻しました。
「メイジュル様との婚約が無くなったら、マルドニア君はお前の侍従見習いから外れてもらう」
「なっ……なぜっ」
「理由は今は話さないが、その心づもりでいなさい」
そう言って今度こそ出て行ったお父様に、わたくしは閉まった扉を茫然と見つめます。
マルドニア様がわたくしの侍従見習いでは無くなってしまうと、お父様は言いましたの?
もう何年もわたくしの傍で共に学んでくれたマルドニア様を、今更?
そう考えて、知らないうちに体がかすかに震えていることに気が付き、それを抑えるように両腕で体を抱きしめて、そういえば今日はマルドニア様をまだ見ていない事に気が付き、ぞっとしましたわ。
昨夜、仕事が終わった後に、長期休暇で領地視察をする為の荷物の準備をすると言っていましたが、もしかして、家に帰る為の準備をしているのでしょうか?
いえ、マルドニア様がわたくしに何も言わずにそんな事をするわけがありませんわ。
けれども、お父様はどうしてあんな事をおっしゃったの?
マルドニア様がわたくしの侍従になるのは、メイジュル様との婚約が前提だとでもいうのでしょうか?
マルドニア様が我が家に来た時は、確かに婚約について無くすという話もありましたけれども、まだメイジュル様との婚約、ひいては結婚も視野に入っていた時期。
役に立たない夫の代わりに優秀な侍従を付けようとしていたとしたら、ありえない話ではありませんわ。
そして、お父様はメイジュル様の件が片付いたら、今度はハウフーン公爵家の為に立派な婿を探そうとしている。
いいえ、もう決めていらっしゃるかもしれません。
……何を混乱していますの? この家の為に優秀な婿を取ることは、わたくしだって望んでいる事ですわ。
わたくしだって、メイジュル様でなければ、優秀でこの家の為になるのであれば誰であっても構わないと言っていましたもの。
そうですわよ。わたくしの人生はハウフーン公爵家とこの国の為にあるのですもの。こんな事で心を乱すわけにはいきませんわ。
心を落ち着けるために深呼吸をした所で執務室の扉がノックされ、わたくしが返事をするとマルドニア様が入っていらっしゃいました。
「遅くなって申し訳ありません。思ったよりも明日からの領地視察の準備に時間がかかってしまいました」
「構いませんわ。わたくしはメイドに支度を全て任せていますし、ご自分で支度をなさるマルドニア様を尊敬しますわ」
「大した事はしていませんよ」
そう言ってわたくしの補佐をすべく、もう見慣れてしまったもう一つの机に備え付けられた椅子に座ったマルドニア様を目で追って、この光景を見る事が無くなってしまうのかと考え、ゾクっと背中に冷たいものが走った感じがしましたわ。
「マルドニア様」
「はい、なんでしょうクロエール様」
声をかければ柔らかく返される返事と微笑みに、ドキドキと心臓が音を立てているのを自覚しながら、乾いた口を動かします。
「お父様が、メイジュル様との婚約が無くなったら、マルドニア様はわたくしの侍従見習いではなくなると」
「えっ、もうその件をお聞きになったのですか?」
「はい……」
「参ったな、正式に決まるまでクロエール様が戸惑ってしまうだろうから言わないでいただきたかったのですが」
そう言って苦笑するマルドニア様に、胸が苦しくなってしまいます。
「では、事実、なのですね?」
「そうですね」
即答され、わたくしはぐっと喉を鳴らして息を呑み込みましたわ。
わたくしの役に立ちたいと言ってくださったのに。
人生をかけて、わたくしを傍に居て支えてくださると言ってくださったのに、あれは嘘だったというのですか?
気が付かれないように、膝の上に置いている手をぐっと握り締め、顔には無理やり微笑みを浮かべます。
「クロエール様には、突然の事ですからご迷惑ですよね」
「そうですわね、いきなりですので正直困惑してしまいますわ」
「申し訳ありません。ハウフーン公爵から初めてこの話を貰った時、僕も混乱したのですが、正直なところ嬉しくて」
「嬉しい、ですか」
「はい。覚悟を決めるべきだと思ったと言いますか、欲が出てしまいまして。身の程知らずではありますが、それまでもあった想いがより強くなったというか。そうですね、とにかく、お恥ずかしながらハウフーン公爵の話に食いついてしまいました」
「そうですか。よろしかったですわね」
「しかし、クロエール様のお心を後回しにしてしまいましたね。申し訳ありません。ずっと想っている方と近づけるチャンスだと思って舞い上がってしまいました」
「わたくしの事などお気になさらないでください。ずっと想って……いらっしゃったのですか」
「はい」
照れたように頬をわずかに染めていうマルドニア様に、わたくしは思わず椅子から立ち上がってしまいました。
「クロエール様?」
「気分が悪いので部屋に戻りますわ」
「え! それは気が付かず申し訳ありません。ひどいようでしたら明日の出立も遅らせましょう」
「いいえ。領地視察はわたくしの仕事ですわ。けれども、今日は……。申し訳ないのですが残りの仕事は」
「大丈夫です、僕に出来る範囲で片づけておきます。どうしてもクロエール様の承認が必要な物は視察中に処理出来るようにしておきます」
「ありがとうございます。マルドニア様が優秀で助かりますわ。わたくしの傍で働く事が無くなっても、今後ともそのお力を発揮してくださいませね」
「え? あ、いやクロエール様はごゆっくりお休みになってください」
わたくしはそう言い捨ててマルドニア様の言葉を背に受けながら足早に執務室を出て、自室に向かいました。
自室に到着して、わたくしは既にベッドメイクを終えたベッドに直行すると、うつぶせに倒れ込み、枕に顔を埋めてこぼれそうになる呻き声を閉じ込めます。
信じていましたのに、こんな形で信頼を裏切るなんて、酷いですわマルドニア様。
その日、わたくしは食事をする気も起きず、メイドが淹れてくれたハーブティーを飲んで気を落ち着かせたり、明日からの旅程の為に念入りにお風呂に入ったり、マッサージを受けましたがなかなか眠れず、ベッドに横になって目を閉じると、いつもわたくしを優しく見守ってくれるマルドニア様の姿が浮かんでは消え、その度に胸が苦しくなってしまいましたわ。
やっと眠れたと思ったのは深夜というよりも朝に近いような時間で、メイドに起こされたものの、寝不足の頭は上手く動いてくれませんでしたが、朝から馬車に乗って領地に向かわなければいけないことに変わりはありませんので、身支度を整え玄関に向かうと、マルドニア様が既に待っており丁寧にお辞儀と朝の挨拶をされましたわ。
「おはようございます。クロエール様」
「おはようございます、マルドニア様。では、参りましょう」
「はい。……ご体調は大丈夫ですか?」
「え?」
「昨日ご気分がすぐれないとおっしゃっていましたよね」
「それでしたら、もう大丈夫ですわ」
「でしたらよろしいのですが」
「ええ、ご心配ありがとうございます」
わたくしはそう言って、出来るだけマルドニア様の顔を見ないように馬車に向かいました。
そういえば、馬車の中ではメイドがいるとはいえマルドニア様もいますのよね。
どうしましょう、こんな気分のまま一緒の馬車に乗るだなんて。けれどもここで同乗を拒否してしまったら、マルドニア様のわたくしへの評価が下がってしまいますわよね。
例えマルドニア様がわたくしを裏切ったとはいえ、わたくしは良い当主になると自分に誓ったのですもの。
大丈夫ですわ、いつも通りのわたくしで居ればいいだけですもの。
そう考えた時、不意に背後に立ったマルドニア様の気配を感じてまた胸がツキリと痛みましたわ。
メイジュル様に裏切られている時は何とも思いませんでしたのに、やはり信頼した方に裏切られるというのは苦しい物ですわね。