大人の余裕よ帰って来て
学院でリーチェの婚約解消祝いブームが落ち着きを見せ始めたころ、今度はリーチェがパトロンをしている芸術家関係や孤児院や娼館関係で婚約解消祝いブームが起きていたらしい。
長年にわたり、婚約者として全く相手から尊重されていなかったにも関わらず、自分の生活を贅沢にする為だけに無理やり婚約を続けさせられ、苦しんでいた令嬢が、やっとの思いでその苦しみから解放され、心の奥底に秘めていた想う相手と結ばれる。というような話だ。
かねがね間違ってはいないけれども、それまで流行している小説と相まって、リーチェは平民からの人気をより一層高める結果になった。
なんでも、想う相手が居ながらも、家の為にその心を殺し、ずっと耐え忍んできたという所がポイントらしい。
それに引き換えと言っては何だけれども、当然ラッセル様の人気は下がりまくっている。
ラッセル様は普段は平民街に行かないから知らないみたいだけど、行ったら陰口どころじゃすまないんじゃないかな。
騎士団長は、グレイ様と今後の事について話し合いを繰り返しているみたい。
役職を辞任、そしてなんの咎も無いのに爵位の返還となると、手続きがちょっと面倒なんだって。
しかも、あの家って、元は伯爵家で長年の功績をたたえて侯爵家に格上げされた家だから、それを返還するとなったら下手をすれば王家の顔に泥を塗るってなる可能性もあるんだよね。
だから、表向きは騎士団長を続けつつ、ゆっくりと後輩にその地位を譲るよう動き、騎士団長の地位を辞任し、それに合わせて爵位も返還。
それで、どこかの穏やかな土地でゆっくりと過ごす予定、だそうだけど、ラッセル様が理解してなさそうなんだよね。
ジュンティル侯爵夫人は、あまり社交行事に参加しなくなったとはいえ、家の方針が決まってからは、お茶会なんかでさりげなく隠居後にお世話になれそうな領地を探しているってもっぱらの噂だよ。
わたくしは大人の社交関係や噂にはちょっと疎いから、これはクロエ経由の情報なんだけどね。
リーチェは、自分で言った通りパイモンド様と婚約をする事になった。
婚約解消の話を聞きつけて、リーチェに無駄に婚約が申し込まれるよりは、自分の娘の長年の望みを叶える方向でご両親も納得したんだって。
これは、リーチェが自分名義の領地をグレイ様から貰った事も影響しているみたい。
もしパイモンド様が養子に入った家の爵位を継げなくなっても、今までの成績と行動を鑑みて文官として位はだいぶ下がってしまうけれども、爵位自体は貰えるだろうし、何よりも自分の娘が領地を持っているので税収で暮らしていく事が出来るから。
親としての愛と打算が入り乱れているあたり、貴族だよね。
ちなみにリーチェは、伯爵夫人でもそれよりも下の貴族夫人になっても、目指す所はわたくしの子供の乳母兼女の子だったら家庭教師だそうで、クロエとリアンが自分達の立場では絶対に出来ないその願いに、心の底から羨ましそうな視線を向けていた。
正面切って、将来の正妃になるわたくしの直属の部下になるって宣言したようなものだもんね。
ちなみに、リアンは「妾はツェツィと義理の姉妹になるから、絆は深まるのじゃっ」と言い、クロエは「わたくしは子供同士を結婚させたいですわね」と言い出した。
メイジュル様との子供だったら、血が近すぎるとか言って結婚は難しいかもしれないけど、それは無いから言っているんだろうなぁ。
次の婚約者に関しては、本当にクロエのお父様に任せているようだし、リアンがいくら恋愛小説を貸しても「面白かったですわ」ぐらいしか感想を言わないんだよね。
恋愛感情に興味はないのかって聞いたら、結婚をして次代を産んで、愛人を持てるようになったら考えると言われてしまい、何とも言えない気分になった。
リアンもリーチェも、クロエの好みのタイプとか分からないって言ってるし、難しいわ。
ともあれ、一人の悪役令嬢が密やかに(?)舞台から降りたわけだけど、リアンとクロエは大丈夫かな?
リアンはともかく、クロエは相手が面倒だよね。
学院内での浮気の現場は掴まれに掴まれているんだけれども、ルシマード公爵家は『若気の至り』『ただの子供の遊び』『公爵家の婿として人脈を広げている』と言い訳を並べているんだって。
もっとも、証拠の数が増えて行けば行く程、どんどん苦しくなってきているみたいだけれども、いつまで言い逃れを続けるのかな。
メイジュル様は相変わらず、クロエと結婚したら、面倒な仕事は全てクロエが行って自分は公爵家当主として自由に生きると思っているらしく、まだ継続中の家庭教師が厳しく何度も教えても『うるさい』『ひがみか』『王族の俺に意見するな』と定型文が返ってくるだけだそうだ。
「クロエはまだ時間がかかるとして、リアンの婚約解消はどうなの? 婚約解消ブームの今がチャンスじゃない?」
「まだ準備が終わっていない。新しい婚約者はすぐに発表しなくてもいいだろうが、政治的な意味合いが関わっている婚約のせいで、ややこしいんだ」
「代理の婚約の方は順調なんでしょう?」
「そっちは問題ないな。二人の仲も良好のようだ。とはいえ、親は先代の国王の弟でこれといった役職には就いていない。大臣になればまた話は変わってくるのだけれどもな」
「法務大臣にするのよね?」
「まあ、その予定だな。しかしながら、今の法務大臣はそこまで高齢というわけでもなく、引退にはまだ早い。それに、表立って明確に咎めることが出来る事をしているわけでもない」
「本当の黒幕って、なかなか自分では動かないものよね」
そう言いつつ、本日持って来たお茶菓子の抹茶ババロアを口にする。
今日も今日とて、グレイ様との間には拳三個分の距離が開いているんだよね。
「グレイ様、ババロア美味しい?」
「ああ、ツェツィが作る物はなんでも美味しいな」
「ならいいんだけど、グレイ様ってわたくしが作ったものなら、例えダークマターでも美味しいって言いそうよね」
「ダークマター?」
「食べると命の危険がある料理、言ってしまえばクソマズ料理ね」
「ふむ。ツェツィがそんな物を作るとは思えないが、もし作ったとしても安心しろ、ちゃんと食べるさ」
「食べさせないし、作らないよ」
「そうか」
グレイ様はそう言うと自分の分の抹茶ババロアを口にした際に、上に乗った生クリームが唇の端に付いてしまったので、わたくしは思わず手を伸ばしてそのクリームを拭うと、そのまま自分で舐める。
やった後に、「あ、今のは淑女の行動じゃないわ」と思ったけど、やっちまったもんは仕方ないんだよ。
誤魔化そうとグレイ様を見ると、グレイ様は固まったように動きを止めている。
ど、どないしたん?
「グレイ様?」
「っ!……ツェ、ツェツィ」
「なぁに?」
「今のような行動は、淑女としてよくない」
「そうね。反省しているわ。ついやってしまったの」
「まさかとは思うが、私以外にもこんな事を平気でしているのか!?」
「そんなわけないじゃない。リアン達にだってしないわよ。もし気が付いたとしてもハンカチでそっと拭うように言うわ」
「では、なぜ私に?」
「うーん、他のお茶会ならともかく、女子会やグレイ様とのお茶会では手袋を外すし、手袋をしていたら途中で動きを止めたかもしれないけれど、今のは何となく咄嗟にやった行動だから何故って言われても困るわ」
「私にだけなんだな?」
「そうね」
念を押すように言われた言葉に頷くと、グレイ様はしばらく何かをこらえるように目をつぶり、すっと開けたと思うと、最近ではすっかりご無沙汰になったお手て握りをしてきた。
「私も、義務のダンス以外で。いや、素手で触れたいと思っているのはツェツィだけだ」
「そう、なの」
な、なんか急に色気が増したような?
どこでスイッチが入った? わたくしは何のスイッチを押したの!?
「ツェツィに触れたいという思いは、もちろんずっとある。しかし、こうして直接触れてしまえば、私の欲は増えて行くだろう。ツェツィは以前、欲に負ける私は嫌だと言ったな」
「ん? あー、そういう事になるのかな?」
あれだよね、後宮監禁エンドとか、所かまわずのドロッドログチャッグチャエンドとかの事だよね。
確かに、正妃としての仕事もこなすと考えると、溺愛は嬉しいけれどもそういったことはわたくしの体力を考えてって、あぁぁぁっ、二次性徴を迎えたわたくしって、魔力もだけど体力も爆上げされているんだった!
でも、寝不足はお肌の敵。うん、やっぱり手加減は必要だよね。
「理性には自信がある。しかし昔ならともかく、今のツェツィに戯れに触れる事も出来ない」
「王太后様の忠告もあるものね」
「それもある。しかし、そのせいでツェツィに触れられない時間がありすぎて、その、なんだ改めて触れるとなると……、照れる」
「は?」
グレイ様の言葉に、思わずポカンとしてしまう。
今、この目の前の色気駄々洩れの男は何を言った?
照れるとか言ってなかったか?
夜の帝王みたいな色気駄々洩れさせているこの目の前の男が?
え、聞き間違いではなく? うそでしょ!?
「それに、日に日に開花していく花をいたずらにいじってしまって、本来の美しさを歪ませたいとも思わない」
「そ、そう」
握っていた両手を、今度は包み込むようにされて、改めてグレイ様の手の大きさがわたくしの物と違うのだと思い、やっぱり男の人だよねぇって思ってしまう。
「だから、今はまだ……優しく見守りたい」
うっとりとした目で言われ、思わずその色気に体を後ろにのけぞらしかけてグッと思いとどまる。
しっかりするのよ、わたくし。
グレイ様の色気なんて、前世のスチルで散々免疫があるじゃない。
今まで忘れ去られてどこかに飛んで行っていた大人の余裕よ、今こそ戻ってきてっ。
「わたくしは、グレイ様の心の準備が整うまでいつまでも待って居るわ」
「いや、待って居るのは私の方だと思うんだが。……ん、そうとも言うのか?」
「無理はしちゃだめだと思うの。わたくし達のペースでゆっくりやって行きましょう?」
「そうか。ツェツィがそう言ってくれて嬉しい」
グレイ様はそう言ってわたくしの手を包み込んだ自分の手に、さもわたくしの手に口づけるようにキスをしてから、ふわりと色気を振りまいて微笑んで手を離してくれた。
しっ、心臓がドクドクしまくってやばい。
え? これってグレイ様よね? わたくしの知っているグレイ様よね?
いや、顔が変わっているとか、言葉遣いが変わっているとか、行動がおかしいとかじゃなくて、雰囲気がなんかこう、え? ええ?
まさかとは思うけど、これからずっとこんな雰囲気の人とお茶会をするの? 嘘でしょ!?
わたくしの心臓が持たないんだけど!
手を離したグレイ様は、何事も無かったように抹茶ババロアの残りを口にしている。
直接キスされたわけじゃないし、小さかったときはあれだけキスされてたのに、な、なんで今更こんなに心臓ドキドキするのっ。
思わずグレイ様の唇に視線が行くのを必死にそらして、誤魔化すようにわたくしも抹茶ババロアを食べたけど、砂糖入れ過ぎたかな?
なんか、さっき食べた時よりも甘い……。