第9話 お肉ちゃん
「はい、もう左手を戻して貰って結構です。念の為、64DPが振り込まれているか確認して下さい」
ドッペルさんはそう言うと、分厚い腕輪のような物を外した。
あの後、アビスを抱え戻って来たはずなのに、記憶がところどころ曖昧だ。
「ヘルさん??」
「え? あ、はい……すいません。ちょっと気が抜けてました、何の確認でしたっけ??」
「DPが入っているか確認して下さいとお伝えしましたが……大丈夫ですか?? 初めてのダンジョンでは良くある話ですが、恐ろしい目にあって二度とダンジョンに入れなくなる魔物も多いのです。もしヘルさんもそういった状況なら、DPは安いですが他の仕事も斡旋致しますよ??」
ありがたい話だがそれは出来ない。これからもダンジョンに入りレベルを上げる必要がある。
今回でレベルは2に上がったが、急いで進化しなければ直ぐに寿命が尽きて死んでしまう。そうなれば契約を結んだフィアは勿論、アビスは病に苦しみ1人ぼっちになるし、そんなの絶対駄目だ。
「ご心配ありがとう御座います。でも、どうしてもダンジョンで稼がなきゃならないんで……じゃあまた来ます」
そうドッペルさんにお礼し、なるべく人気の少ないスペースを見つけ座り込んだ。
蓄積された疲労と極度の緊張からの開放で、地面に吸い込まれるような奇妙な感覚を覚えた。
疲れた……怒涛の1日と言ってもいい。
「……ふ、ふふふ」
現実逃避するような思考に気付き、思わず苦笑してしまう。
「気持ち悪い顔で笑ってんじゃないわよ!! それより、ずっとアンタのお腹がグゥグゥ鳴いてるんだから、さっさとDPで補給して休みなさい!!」
いつからポンコツ蝶々から名マネージャーに転職したんだと頭を過ぎったが、口に出す気力もなく割とまともな意見だったので大人しく従う事にした。
システム画面を呼び出し『カチカチの固いパン』と『普通の水』を選択しゴクリと喉を鳴らし購入ボタンをタップする。
「な、なんだ!?」
瞬間、目の前にある画面がカッと光り、思わず瞳を閉じてしまったが、いつの間にか黒くて丸いパンと木の筒が空中で止まっているのに驚愕した。
「ど、どうなって……」
あまりの出来事に戸惑っていると、不思議な力学の効果は有限ですとでも言わんばかりに、パンと水はボトボトッと地面に落ちた。
「あははは!! やっぱり引っ掛かった引っ掛かったぁ!! その顔うけるぅ〜〜」
姿は見えないが、肩で飛び跳てるのが分かる。
フィアが事前の説明をしなかったのは、自分を揶揄う為だったのかと気付き、湧き上がる感情にそっと蓋をすると、タイミングを合わせ、彼女を優しく握り締めた。
「そう言えば、沢山働いて肉が食べたかったんだよ。お、こんなところに美味しそうな妖精肉があるなぁ」
俺は笑顔でお肉ちゃんに話し掛けた。
「ちょ、た、ただの冗談じゃない!! 妖精は揶揄うのが仕事なの。それにそんな罰当たりな事してみなさい。大精霊様の祟りに遭って、お腹ピーピー地獄確定よ!?」
俺は笑顔でお肉ちゃんに返答した。
「揶揄うのが仕事か、うん、仕事は大事だよな。仕事の為なら仕方ないって事はよくあるし、全く同感だと俺も思うよ」
「な、ならさっさとーー」
「そう言えば、仕事である言葉を思い出したんだけど、仕事を一生懸命続ける為には『身体が資本』て言葉とーー」
「こ、言葉と……??」
何だか元気のないお肉ちゃんに、ちゃんと聞こえるよう顔を近付け囁いた。
「食べるのも仕事」
「ごめんなさーーい!!」
結局、その場で平謝りするポンコツ蝶々だったが、ちょっと考えればこうなるのは分かるだろうに、このポンコツ蝶々は残念蝶々に格下げだな。
とはいえ、今は多少気が滅入っている。ギャアギャアとうるさい声もかえって気が紛れて良いのかもしれないとそう思ったが敢えて口には出さないでおこう。
布を重ねた上にアビスをそっと寝かし、さっそく丸い黒パンを噛ってみた。
ガリガリと音を立てた後、焦げた味が口の中一杯に広がり、僅かに残された水分を強引に奪って行く。
もそもそとした食感に苦味しか感じないが、生きる為には食べるしかない。唯一の良いところは量で、人の顔ほどの大きさなら節約出来そうで助かる。
本当は『柔らかいパン』や『果実水』などを選択したかったけれど、今は1DPすら惜しいので我慢、我慢。
パンの半分を食べ終わると、いつの間に飲み切ったのか水筒も空っぽになっていた。恐るべしカチカチパン。
アビスが泣き出したので、ササッとショップ画面で綺麗な布(5DP)を2セット購入し、オムツとお包みを交換した。虚弱体質がどんな影響を与えるか分からないから、出来る限りの事はやっておきたい。
追加で水筒の水をもう1本購入し、指を綺麗な布で拭いた後、アビスへ与えてみた。ちゅうちゅう吸っている姿はとても愛らしく、言葉が話せる訳でもないが温もりで伝えて来ているようで、何だか込み上げて来るものがあった。
「な、なんで泣いてんのよ。悩みがあるなら、この大精霊候補ナンバー1のフィアちゃんに言ってみなさい。ほら、さあ、かかって来んかーーい!!」
ほんと、台無しだよポンコツ蝶々。
安堵と温もりに誘われ、俺は壁にもたれ掛かったまま意識を手放した。
「ふぎゃぁぁぁ!! ふぎゃぁぁぁ!!」
アビスはよく泣いた。
知識で人の子は2時間毎に母乳を与える必要があったはずだけど、彼女も同じようなテンポで泣き出して飲むので、あながち無駄な知識にはならなさそうで良かった。それより殆ど熟睡出来ないのが辛いところだ。世の母親達の凄さと大変さを嫌と言うほど痛感させられる。
それとこの世界にもちゃんと夜があった。幸いな事にそこまで気温は低くならなかったのはツイてると言ってもいい。アビスと自分の体温で温め合えば問題なさそうだ。
何度目かのオムツとミルクタイムを繰り返すと2つの太陽が顔を出した。因みにポンコツ蝶々は、最初アビスのお包みに一緒に入ると駄々を捏ねたが、何度も夜泣きをするので今は交換用の綺麗な布に挟まってぐうすか寝ている。
母親になった友人などから聞いた話だが、寝不足の中で旦那が何の手伝いもしないで気持ち良さそうに寝ている顔を見て、この感情が湧き上がると言っていた。
これが殺意か……
日の出と一緒に気温も上がって来た。アビスを置いて日課のラジオ体操を行って身体を確かめる。
おい、そこのポンコツ蝶々、シュールとか言うな。大人になってからのラジオ体操は身体に滅茶苦茶良いんだぞ。
それに空腹や疲れから来る倦怠感なのか、それとも別の理由なのかはずっと不安だった。今確かめた状態は多少はダルさはあるけど、昨日よりはまだマシといったところ。
朝食に残りの固いパンを食べ、システム画面を開いて今後の予定を立てる。そう言えばフィアは食べないのかと聞いてみると、妖精は誰かの魔力をお裾分けして貰っていれば食べる必要も無いのだと言う。
何それずるい……お前も食えよこのカチカチパン。
「お菓子とかなら食べるわよ。アンタは不味いパンでも噛って、さっさと稼ぎなさいよこの貧乏ゴブリン」
良かろう、またお肉ちゃんの刑だな。
冗談はさて置き、昨日の様な男が沢山いれば今日中に進化出来るかもしれない。ゴブリンは弱い分、進化が早いのだ。街に来る際にフィアから聞いた情報だと、Lv5でゴブリンは進化出来るらしく、実際システム画面でLvの項目にタップすると(2/5)の表記が出てくる。
フィア曰く、意外に知らない情報らしい。
2日を迎え順調そうに思えるが、自分がただのゴブリンで弱い魔物という事実は変わらない。何かあった際に生き抜く力が必要だ。
ダンジョン活動までもう少し時間はある。頰をパンッと叩き、気合いを入れフィアに頼んだ。
「俺に精霊魔法を教えてくれ」