第2話 目覚め
この世界で初めて目にしたものは、鮮血のような真っ赤な空だった。
ズキリと刺すような頭痛に苛まれ、重い瞼をゆっくり見開いても、やはり空は赤い。
ぼんやりとした思考で、夕方じゃないのかとも頭を過ぎったが、やはりこんな空は知らない。何故なら太陽らしきものが空に二つも浮いているからだ。
「こ、こは何処だ?? いや、たしか、死んだはずじゃぁ……」
自らの枯れた声に驚きつつ、何がどうなってるんだと鉛のように重い身体に鞭を打ち、ふらふらと起き上がって周りを確かめる。
死体だ。
瞳に飛び込んで来たものは、何の生物かも分からない夥しい程の死体。そんな屍の中心に俺は居た。
「うわぁあ!!」
反射的に飛び上がり、その場から直ぐ逃げ出そうと踏ん張るも、ズルリと何かに足を取られ無様にも転んだ。
落ち着け、落ち着くんだ。何が何だかわからんが、今は兎に角冷静になれ!! こういう時にパニックになる奴からまず死ぬって知ってるだろう!! そ、そうだ深呼吸、まずは深呼吸して冷静にーー
起き上がり地面から離れると、頬にヌチャリとする感覚。それが何かを理解すると背筋が寒くなる。
瞬間、強烈な腐敗臭が鼻孔を突き刺し、同時に胃から込み上げる何かをその場にぶちまけた。
何度も何度も訪れる吐き気、体中の液体が穴という穴から全て出切った頃、涙で霞んだ視界に異変を感じた。
「何だよ、この手……」
小刻みに震える深い緑色の手がそこにあり、指先からは三角に尖った鋭い爪が生えている。
怯えたその手を動かし、顔の周辺を慎重に触れると、髪の毛の無いツルツル頭、尖った耳、鼻や骨格ですら、かつて感じていた自分自身の感触とは余りにもかけ離れていた。
ふ、ふざけんな。気付けばこんな腐った死体だらけの場所に居て、しかも自分が人間じゃなくなってるなんてどんな悪夢だ!!
悪態をついたところで、これが夢なんかじゃないって事を何故か実感している。そう、この頭の片隅にある知らない記憶はーー
「がぁっ!?」
そこに意識を移した刹那、膨大とも言える記憶の奔流が押し寄せた。
脳が焼き切れるような痛み、熱。自分意外の記憶と、まるで自分が体験して来たかのような感覚は、走馬灯のように駆け巡り、俺をまた無意識へと引きずり込んだ。
どれ位の時間が過ぎたかは分からない。けれど、次に目覚めた時には、この身体の前の持ち主がゴブリンであり、ヘルと名乗っていた事を知った。
でも、今の自分は間違い無く人間だった頃の人格で行動しているし、別の記憶を有しているところも少し冷静に考えてみれば、学生時代に読み漁ったラノベ小説でよくある転生と呼ばれる現象に近いものと、そう思う事にした。
だが、それにしてもーー
「あぁ……最悪だ。この現状も、ヘル、お前の記憶もな……」
俺はさっき流れ込んで来た、ヘルの鮮明な記憶にうんざりする。
俺が知ったヘルは、屋敷に住まう雑用係のゴブリンとして生を受けた。毎日僅かな不味い食事と何のスキルも持たない事から、無能やゴミなどと蔑まれ、最初から最後まで奴隷みたいに働き続け、そして死んだ。
それだけなら可哀想なゴブリン、もしくは悲劇的な物語と割り切れたのに……そうじゃなくて、こいつは俺の琴線に触れる、その生き方こそが最悪だった。
ーーーーー
「は、はじめまして!! 今日から担当を任されたゴブリンです。な、名前はなんておっしゃるんですか??」
「へル……それが、僕の名前。僕だけのもの……うん、とても素敵な名をありがとう!! じゃあ今度は僕の番!! う〜〜ん、包帯がぐるぐるなので、噂に聞いた凄い魔物から取って、今日から貴方はミーラさんなんてどうですか!?」
「ねぇ、ミーラさん。ダンジョンマスターって知ってる?? それになれると、人間の住む世界が見れるんだって!!」
「聞いてミーラさん。街にはダンジョンギルドってのがあってね、働けばダンジョンポイントって言うのが貰えるんだって!!」
「こ、これ?? き、今日も失敗しちゃて、ホブゴブリンさんに殴られちゃったんだよ。あはは……あ、でも身体は大丈夫だよ。だから、そんな顔しないで。でもその時、ダンジョンポイントを1億貯めるとどんな願いも叶うって教えて貰ったんだ!! とにかくそれを貯めたならダンジョンマスターになれるから、ミーラさん一緒に暮らそうよ。あ、ところで1億って10を何回数えるのかな……ミーラさん知ってる??」
「……ミーラさん。仲間が絶対無理だって馬鹿にして来るんだ……だか、ら、だったら、僕は絶対諦めてやらないんだ。うぅ……ううううぅ」
「ミーラさん……ねぇ……そこに……いる?? そう、ごめんね。なんだか最近目が良く見えなくって……」
「や、やぁ……ミーラさんいる?? どうしてか身体に力が入らなくなって倒れちゃってさ。ここに来たいって仲間に頼んだら、初めてお願いを聞いて貰っちゃったよ……ふふふ。なんでって?? さっきこっそり教えて貰ったんだけど、僕は寿命なんだって。それって病気?って聞いたら、悲しそうに笑ってたんだ。けど何でだろうね」
「ねぇミーラさん……僕は……死ぬんだって……寿命は治らないって……でも……諦めない……よ……死んでからだ……て、ダンジョン……ス……に……なれる……よね……ミー……ラ……さ」
ーーーーー
無知の知も知らぬゴブリン。だけど、自分の願いに足掻き、藻掻き、なおも己が抱く夢を諦めないそんな姿が、俺の持つ過去に重なりそうでーー
ーーそれが酷く煩わしい。
いつの間にか頭痛は消え去り、漸く冷静に思考が働いて来た。
変わらず屍に囲まれた状況なのに、ヘルの記憶のせいかそれとも自分が魔物になった影響なのか、特に動揺する事も無くなった。
赤い空をぼんやりと眺めながら、これからの事を考え始めた。
「ふぎゃぁあ!! ふぎゃぁああ!!」
はぁ、いよいよ赤ん坊の鳴き声まで聞こえて来た。もうこの世界って、何でもかんでも起こり過ぎじゃないか?? ヘルの記憶は屋敷の中の情報しか無いから、まるで役には立たないし、俺の推測でしかないけど、多分ここは墓場的な場所だと思うんだよ。で、何で赤ん坊っがって事になるんだけど、やっぱりその辺の魔物が捨てて行ったっていう胸糞悪い話の可能性が高い。
取り敢えず、この場を移動するのは決定している訳で、嫌々ながらも鳴き声の方へ足を進める事にした。怖いもの見たさならぬ、嫌いなもの見たさ的な感じだ。
そうそう移動しながら分かった事だけど、視線がいつもの感覚より低くて、せいぜい身長は120cm前後くらいしか無いのと、人間の骨格とは違って猫背気味でちょっぴり歩き難い。
その変わり尖った耳の性能は高そうで、声がする場所までは結構離れている気がするからそこそこ良いんだろう。他にも多分嗅覚も鋭い。何故なら臭いからだ。腐った地表と顔が離れていても臭いからだよ。
聴覚、嗅覚と来れば視覚はどうだと聞かれそうだが、そこまで良くは無い、と思う。何故曖昧なのかと言えば、過去の自分ではメガネをしていたし、装着した状態まではいかない程度の視力で微妙なところだったからだ。
鳴き声が次第に大きくなり、そろそろ視界に入る頃だろうと頭を過ぎった時だ。
赤ん坊の声に混じって別の声が聞え、俺は慌てて足を止めた。
「あわわわ!! どうしようどうしよう!! でも助けなきゃ。ん゛ん゛ん゛ん゛!! この子、糞重すぎるぅうううう!!」
気配を出来る限り消して静かに近寄ると、そこには生まれたばかりの人っぽい赤ん坊、ピクリとも動かない横になった母親らしき人物。そして、小汚い布に巻かれた赤ん坊を、必死に引っ張る羽根の生えた小人がいた。
「誰!?」
そう、この出会いが物語を大きく変える事になるなんて、その時の俺は想像もしなかった。