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「一、二!」
グラウンドの隅で剣を振るうラニア。
夕陽で煉瓦製の校舎が照らされている。授業はとうの昔に終わり、グラウンドの中央では部活動に勤しむ学生の姿があった。
「痛っ……!」
刃を横に薙ぐと、手に温かい液体が広がるのを感じる。見れば、右手のマメが潰れたようで軽く出血していた。ラニアは血の着いていない方の手で包帯を取り出すと、慣れた手つきで右手に巻いていく。
昔から怪我や傷害は多い方だった。普通ならば、この位の軽傷は《回復魔術》ですぐに治せるのだが……、ラニアの体質からして自分では無理なので応急処置の技術だけ上がっている。
今朝、レスターから他の候補者の説明を受けてから、昼食以外ラニアはずっと剣舞の練習をしていた。
他の候補者……、特にレスターから説明を受けた四人は、ラニアに無いものを持っている選ばれた人間だ。レスターの頭脳を持ってしても勝てるか分からない。しかし、努力をしなければ待っているのは敗北しかない。
これまで無駄な努力を続けるしかなかったラニアにとって、無駄じゃなくなるかもしれない努力ができるのはとても有難いことだ。
ラニアは潰れたマメを見て、不思議と嬉しい気持ちになった。
「怪我……ですか?」
包帯を巻き終わろうという時、凛とした声が耳に届く。
ラニアは息を飲んだ。声をかけてきた少女に見覚えがあったからだ。
天使の羽のように柔らかそうなミルク色の髪。校則は一つも違反していないが、地味さを感じさせない出で立ち。膨らんだ胸部には生徒会長の証であるエンブレムが付いている。そして、宝石のような青色の瞳と、亀裂のような十字の瞳孔。
“女帝選定戦”の優勝候補──エリーゼ・フォートエーゼが、ラニアの目の前で微笑んでいたのだ。
「私が治してあげましょう。手を貸してください」
「え、ちょ──」
エリーゼは有無を言わさずラニアの手を取ると、丸い紋章が刻まれた右手を傷口にかざす。
「──《治癒魔術》」
エリーゼが呟くと同時、彼女の手から黄色の光が漏れる。すると、ラニアの手にあった怪我が、そもそも存在していなかったかのように消えてしまった。
「これで大丈夫です」
「あ、ありがとうございました……」
ラニアは感謝を述べると同時、緊張で奥歯を噛み締めた。
今の魔術はいつもプリッツが使うような《治療魔術》とは格が違う。治療の神エリダスとの契約により行使される契約魔術だ。エリーゼがその右手をかざせば、例え致命傷だとしても、それが無かったことにされる。《治療魔術》の中でも最上級の代物だ。
ラニアは今朝レスターから受けた説明が脳裏によぎった。
「昨日の決闘ですが」
「あ……、あの件はすいませんでした」
「いえ、見事な剣舞でした」
また怒られると思っていたが、意外にもエリーゼは褒めてくる。
昨日の彼女と比べて、何処か柔らかい、優しい印象をラニアは受けた。昨日の彼女が女帝候補者だとするならば、今はただの生徒会長といった感じだ。
「以前から剣術の心得が?」
「いえ、直前に詰め込んだだけで……」
エリーゼが目を丸くした。
「それは凄い。きっと才能というやつですね」
「それはど、どうも」
ラニアは緊張から畏まった受け答えしかできない。そもそも何故エリーゼはここに来たのか、敵である自分に何故《治療魔術》を施したのかと思考が巡る。
怖くて目が合わせられなかった。その青色の双眸には全てが見透かされてしまう気がしたのだ。
「──危ないっ!」
グラウンドの中央から少女の声が聞こえる。
視線を向ければ、豪速球の球体がラニアの眼前にまで迫っていた。
「──え」
驚きが呟きとして出る。反応が追いつかない。
顔面への痛みを覚悟した瞬間のことだった。球体が白色の刃で一突きされ、その場に静止する。エリーゼの左腕から顕現した刃がボールを串刺しにしていたのだ。
レスターの説明が脳裏によぎる。
──《ヘストスの創剣魔術》。
鍛冶の神ヘストスとの契約魔術。紋章の刻まれた左腕から刃を顕現させるだけのシンプルなものだが、その刃が触れた魔術は全て無効化される。最強の矛にして、無敵の盾ともなり得る魔術だ。
そして、エリーゼを優勝候補たらしめる最後にして最強の要素。
菱形のように大きく開いた瞳孔。五百年前にアリオス・バドラットに初めて発現したとされ、その目は全ての軌道を見通すといわれる。──《バドラットの神眼》。
「大丈夫ですか?」
「だだ、大丈夫です」
エリーゼは優しく問いかけるが、彼女に見られているだけで威圧感を覚えてしまう。
これならボールが当たった方が良かったとラニアは考えてしまった。
「すいません、不注意で」
実技用のローブを着た女生徒が頭を下げに来た。部活動で使っていたボールを不注意で飛ばしてしまったのだろう。
エリーゼは怒った様子を見せず、剣からボールを引き抜く。
「いえ、こんな所で話していた私達に落ち度があります。申し訳ない、私がボールをダメにしてしまったようです」
穴が空き、お皿のように平たくなってしまったボールをエリーゼはつまみ上げる。
「生徒会からボール分の部費をおろしておきます。それで新しいのを購入してください」
女生徒はエリーゼからボールだったものを渡されると、一礼をして、グラウンドの中央に走っていった。
「では、私は用事があるのでこの辺で失礼します。──貴方とは選定戦で戦ってみたいものです」
エリーゼはそう言い残すと、ラニアから背中を向けた。何か用事があったと言うよりは、選定戦前の顔合わせだったのかもしれない。
エリーゼがグラウンドを横切って行く中、山なりのボールが彼女の頭上へ落下する。
また剣で突くのかと思いきや、意外にもボールはエリーゼの頭で軽く跳ね、彼女が躓く。……意外と抜けている所もあるのかもしれない。
「ラニアちゃん、かーえろ」
委員会の仕事を終えたプリッツが、ラニアに駆け寄ってきた。既に夕日も沈み、辺りには夜の帳が降りている。
「そうね、帰りましょうか」
ラニアは汗を拭って帰りの支度をすると、正門への道をプリッツと歩いていく。
するとその途中、地面に何か落ちているのに気付いた。
「何それ」
「生徒手帳……かな」
ラニアは拾い上げた生徒手帳を開くと、“エリーゼ・フォートエーゼ”の名前。思い返せば、先程エリーゼが躓いた辺りだ。その時に落としたのだろう。
「どうする? これ」
「そうね……」
住所を見れば、歩いて行ける距離だ。




