9.ある日、娘に迎えが来て、二人はおわかれになりました。
ある日の昼、いつものように食べ物を集め、あるいはもうすぐ訪れる冬に備えて備蓄の準備を進めている娘を見守っていた元王子様は、聞き慣れぬ異音を耳にとらえました。
「ドラゴンさん?」
(少し様子を見てくる)
相変わらず、元王子様は娘の言葉を理解できますが、こちらの意思を伝える術はありません。
けれどもそれなりに長い間一緒にいたもので、なんとなく互いのしたいことが、言わなくても伝わるような仲になっていました。
出会ったばかりの頃であれば、元王子様が離れる素振りを見せれば泣いてわめいた娘ですが、今は彼が必ず戻ってくることを知っているためでしょうか、「いってらっしゃい」と手を振って快く見送ります。
元王子様が森を抜け、崖の方にやっていくと、危うい道を随分と大勢の人間達が進んできています。
格好も持ち物も、どうやら物々しく武装をしていて、なんとなく見ているだけで嫌な感じがしました。
(わざわざこんなに大勢で押しかけてくるなど……)
気づかれぬうちに引き返した元王子様は、さてどうしたものか、と考えます。
「おかえりなさい! 何かあったんですか?」
娘は戻った彼が降り立つと駆け寄り、あの深い緑色の目で見つめてきます。
元王子様は困ったように彼女を見下ろしたままでした。
もし人間の姿で言葉を話せたとしても、何も言えなかったかもしれません。
あの人間達がどういうつもりでやってきたにせよ、元王子様は関わり合うつもりはありません。
たまたま通りがかかっただけならば、大人しく数日間息を潜めていれば、すぐいなくなるのでしょう。
ですがもし、凶悪なドラゴンを探して追い出そうとしているのなら、残念ながらまた住処を変える必要があります。
その場合娘をどうしましょうか。
連れて行く――それ自体は不可能ではありません。
しかし、そもそもそんな可能性が頭に浮かんできたこと自体、非常に不可解で、しかし不愉快とは言い切れず、元王子様は自分自身の思いつきにとても戸惑いました。
あんなに離れたがっていたはずなのに、これはどうしたことでしょうか。
けれど更に話がややこしくなるのは、あの人間達が娘を探しに来た場合です。
彼女は喜ぶでしょうか。それはなんとなく面白くない気がしました。
彼女は嫌がるでしょうか。それもすっきりしない気がしました。
面倒ごとには、なるべく首を突っ込みたくありません。
そもそもこんなトラブルメーカーにずっと構っていたのがおかしかったのです。
あの人間達が始末をつけてくれるというのなら、願ったり叶ったりのはずではありませんか。
今度こそまた、平穏で退屈な一人の生活が戻ってくることでしょう。
なのに、どうしても、気持ちいい気分にはなれそうにありません。
気がつくと娘が、「よしよし」と言いながら、元王子様の顔の前で手を振っていました。
彼は娘に触れられることを拒み続けましたから、彼女は時折、触っているふりの仕草をします。
それでどうやら、本人なりに少しは満足するようなのです。
そして今の行動は一体何でしょう、まるで様子のおかしい元王子様を案じているかのようではありませんか。
「大丈夫ですよ。私、運はあまりないですけど、頑張りますから!」
(……どこが大丈夫なのだ)
以前ならがうがうと吠えた元王子様でしたが、近頃は呆れて大きく鼻息を鳴らし、そっぽを向くだけにとどまります。
そんな彼を見て、娘は何がおかしいのか、へにゃりと相好を崩すのでした。
結局元王子様が二つの意味で異変を告げられずにいる間に、娘は人間達と接触してしまいました。
というのも、あちらがなにがしかの名前を呼びながら森の中を騒がしく探し回り、そして彼女はそれに応じるように、彼らの前に姿を現わしたのです。
「あの人達、私を探してるみたい……騒がせてしまってすみません。ちょっと、話をしてきますね」
彼女はそんな風に気遣わしげな言葉をかけ、歩いて行きました。
元王子様はそんなこと全く気にしていない、という顔をして知らんぷりをしましたが、注意深く耳は澄ませたまま、様子をうかがいます。
「お嬢様! ご無事で何よりでございます」
物々しい男達は娘を見つけると一斉に膝を突きましたが、やっぱりなんだか嫌な印象が拭えません。
気のせいかもしれませんが、彼らの貼り付けたような表情は……昔、王子様に媚びへつらい、彼が竜になったら素早く見捨てた人達の顔を思い起こさせるのです。
「えっと……お久しぶり、です。あの……」
「いと慈悲深き殿下から恩赦が下りました。さあ、我らと共にお戻りください」
困惑する様子の彼女を、男達は取り囲んで外套を羽織らせ、さっさと連れて行こうとします。
「あの、待ってください! 全然話がわからない……恩赦? 私は許されたと言うことですか?」
「そうでございます。あなたは恐れ多くも王族を騙し、その身に余る罪ゆえこの辺境に追放されました。しかし、その罪はなくなりました。旦那様も奥方様も、お嬢様のお帰りをお待ちです。さあ、早く」
――随分と急で、いささか身勝手にも感じましたが、どうやら前に娘がちらりと話した追放の理由がなくなったということのようです。
寒さはますます深まり、冬支度を始めていたとはいえ、やはり娘一人でこんな森にいる生活は、不便で厳しいように思えました。
元王子様が火を与えてやっても、限界はあります。
彼女の身を守るのはぼろきれ一枚のみ。
であれば、わざわざ危うい道を通って迎えまでよこしてきたことを、喜ぶべきなのでしょう。
良かったではないか、と思い、せいせいした、と感じるところなのでしょう。
なのに、どうしても、体も心も重たいままで。
「待って! ……最後に、少しだけ」
娘の帰還は決められたことのようで、男達は彼女が拒むようなことは考えてすらいないようでした。
娘もとても驚いてはいましたが、激しい抵抗はしません。
ただ、彼女は一度彼らに頼み、森の奥にじっと目を向けます。
元王子様は娘が、自分に向かってまっすぐ目を向けているような錯覚を覚えました。
「急なお別れになってしまいましたが、お迎えが来たようなので、これで失礼します。思えば短い間ではありましたが、とてもお世話になりました。……私にたくさん幸せをくれて、ありがとう。そしてさようなら……私の人生で一番、親切な人」
深々頭を下げた彼女ですが、背後の男達は互いの顔を見合わせたかと思うと、嘲笑しました。
(おい見ろよ、また頭のおかしいことをしてるぜ)
(元々おかしかったが、放浪生活で更に気が狂ったんじゃないか?)
(どうでもいい。死んでいてくれた方が楽だったが、生きているならそれはそれで――)
元王子様のよい耳には、たくさんの嫌な言葉が届きました。
誰一人、娘のことを好きで会いに来た訳ではないようです。
嫌って見下しているのに、連れて行こうとする。
それはひどくいびつなことに思えました。
元王子様はぱっと口を開き、けれどそこで固まりました。
(――行くな、と。今俺は言おうとしたのか。言葉を話せぬ畜生に墜ちた身で。話せたとて、何の権利が、義務があって、そんな言葉が出てくるというのか)
モヤモヤと、ぐるぐると、どうにもできないじんわりした重たい心のまま――結局彼は、娘が引き立てられるようにして連れて行かれるのを、ただ黙って見ていることしかできませんでした。