8.娘はいろいろなことを話して過ごしました。
その日から元王子様は、娘と過ごすようになりました。
朝起きる度に、今日こそわかれてやる、今度こそおさらばだ、と思うのに、無防備によだれを垂らして寝ている姿を見れば置いて行きがたく、起きれば目を輝かせてどこまでも後をついてきて、どうにも引き剥がすことができません。
顔を見ているとイライラするのに、見えないとそれはそれでモヤモヤするのです。
なんといまいましい奴でしょうか。
いえ、実の所、勢いに任せて逃げてみたこともあったのです。
が、これでせいせいした、と巣穴に帰って丸くなった彼は、非常に後悔する羽目になりました。
「ドラゴンさんんんん」
「おいてっちゃやだああああ!」
「どこ行ったんですか、うわあああああん!!」
……こんな調子で半日ほどずっと、声がかれてガラガラになってもびいびい鳴く声がこだましたのですから、たまったものではありません。
元王子様は、人間よりもずっとよく聞こえるドラゴンの耳を、この時は非常に恨みました。
我慢比べには完敗する気の短さでしたから、根負けするしかありません。
渋々、実に不本意という顔で戻ってやれば、涙と鼻水で実に汚らしい顔で歓迎され、なんとも言えない腹立たしさを抱えた彼は尻尾をびたんびたんと地面にたたきつけるのでした。
しかもその後腹を鳴らすのですから、本当に図々しいことこの上ない奴です。
それなのに、食べ物を与えれば飛んで喜び、火をくれてやれば伏して拝み、とかく子犬が尻尾をちぎれんばかりに振る勢いで、無垢に一途に慕ってくるのです。
こんな相手は初めてでした。
ここまで露骨に全身で感情を表現する人も、王子様の後をパタパタ音を立ててついていくる人も、完全無欠の人間だった時だって出会ったことはありませんでした。
娘は食べ物を探して歩き回り、住処の掃除や整頓を行い、あるいは数少ない着る物の洗濯をするなどして日中を過ごしていました。
風呂に入る時など、どうしてもの用事があるときだけいそいそと姿を消し、済むと慌ててバタバタ戻ってくるのです。
その途中でコケたことも二度三度では済まず、いつの間にか元王子様は彼女の姿が見えなくなると、吠え声で自分の場所を教えてやるようにまでなっていました。
(なぜ俺がこのように気を回してやらなければならないのだ、こんな小娘に!)
と憤懣やるかたない思いなのですが、顔を見ると文句が引っ込んでいつの間にか消えているのです。
やはり何か妖しの術を使う女なのでしょう。そうでなければ、この不可思議に従ってしまう理由がとても説明できません。
元王子様はそのうち、なぜ俺はこんなことを、と思う度、この女の秘密を突き止めるためだ、と自分に言い聞かせるようになっていました。
娘は食べるとき以外、ほぼ一日元王子様に話しかけてきました。
大概はとりとめのない、やれ今日は森で何を見たとか、自分は何が好きで何が苦手だとか、料理が上手にできたから見てくれだとか、そんな下らない内容でした。
けれど時折、自分の素性などについて何気なく語ることがあります。
「ドラゴンさんはどうして一人なんですか? ドラゴンさんだからでしょうかねえ。私はですね、なんだか知らないけど、失敗しちゃったみたいなんです」
ある日木登りを成功させ、うまく焼けた魚を囓りながら、彼女はそんな風に零しました。
元王子様はいつものように聞き流してうたた寝する姿勢から、注意深く聞く体勢に変わります。
「最初はね、お母さんと二人きりだったんです。あの頃が一番楽しかったかも。でもお母さんが死んじゃって、お父さんだって言う人が迎えに来たんです。立派なお屋敷で、食べ物も住む場所も困らなくなって、たくさんの人に囲まれて……でも何をしてもお父さんは私の事が気に入らないみたいでした。奥様と、お嬢様方も」
(……つまり、妾の子だったが実家に引き取られた、というところか)
娘は思いつくまま喋る性格でしたから、大幅に話が飛ぶこともあれば時系列が前後することもあり、余計な事を話しすぎるかと思えば重要な事に限って省略したりするのです。
ですが喋る相手はドラゴンだけでしたし、幸か不幸か元王子様の文句は人間の言葉にはならなかったので、好き勝手彼女の思うがまま喋るしかないのでした。
「奥様もお嬢様方もお綺麗で、色んな事を知っていて、私より何もかも持っていて……私はいつもあの人達を苛立たせてしまっていました。自分なりに頑張ってみたんですけど、どうにもうまくいかなくて。絶対に恥をかかせるなって言われて、それはそうだと思って、じゃあせめて外では大人しくしていようと思ったら……何故か知らないんですけど、今度は王子様の婚約者になっていました。ふふ、意味がわからないって顔をしてますね、ドラゴンさん。私自身も訳がわかりませんでしたよ。急に手をつかまれて、一方的に宣言されて、それで終わり」
娘はバリバリと元気に魚の骨を歯で砕きます。
思わずあんぐり口を開けていた元王子様は、慌てて閉じて真顔に戻りました。
「そうしたら、今度は逆に目立ちすぎたんだって、ものすごーく怒られました。本当に言いつけ通り何もせず、黙っていただけなんですが……いえ、お父さんは喜んでたみたいんですけど、奥方様とお嬢様方は許してくれなくて。背中を鞭で叩かれるのは痛かったなあ」
元王子様はだんだんと気分が重くなっていくのを感じました。
なんとなく、話が読めてきました。
おそらく奥方様とお嬢様というのは、娘が引き取られた家の正妻とその子ども達。
世間体を考えて愛人の子を引き取ったものの、差別していたところ、思いがけず良縁に恵まれてしまった。
しゃべり出すとこのように残念な娘ですが、何しろ見事な赤い髪に、この深い深い美しい緑の目。
綺麗に着飾って黙っていれば、確かに目を引いたことでしょう。
あの、うっかり水浴びを見てしまったとき視界に入った無数の傷は、それで――。
「……で。何かの間違いですからお断りしなさいって。でも、お父さんはそんなの許さないって。私、困っちゃって、本当にわからなくて、でも王子様とはどのみち話をしないといけないじゃないですか? そうしたら……まあ、元々住んでいる世界が違う人だからでしょうか、なんかこう、全然通じなくて。しかも、今度は王子様を怒らせてしまったらしくてですね……結局、婚約は破棄されて、偉い人を騙した罪に問われて……で、ここに来たって訳なんです。信じられます? 私もちょっと信じられないです、自分の事なんですけどね」
うふふ、と娘は笑っていますが、元王子様はどんな顔をすればいいのかわかりません。
おそらく最初から最後までずっとこの調子なのだろう、娘が戸惑いながら、けれど何の悪意もなく、彼女なりに励む様子が目に浮かぶようでした。
一方で、そんな彼女を疎ましく感じる上流の人間達の考えだって、わかってしまうのです。
特に、おそらく黙っていた彼女の姿を見て勝手にのぼせ上がり、会話をしてみれば裏切られたと激怒したという王子とやらの話は――聞いているだけでとても胃がむかむかしました。
(俺も、裏切られたと思った。相手が何を考えているのかなんて、知ろうともしなかった……)
「でも、ここも悪くないです! だって怖い人はいないし……ひとりぼっちで寂しいと思ったら、ドラゴンさんがいてくれますし!」
(俺は貴様を監視しているだけだ、勘違いするな)
元王子様が唸ると、娘はニコニコ笑いました。
口の端に食べかすがついていて、本当にどうしようもない女です。
「私、本当に嬉しいんです。だって今までどんなに叫んでも、誰も戻ってきてくれなかった。皆私のことなんかいらなくて、興味がなくて。でも、あなただけは来てくれた。太った私を食べるためなんだとしても、この先も一緒にいてくださいね、ドラゴンさん」
いつも通りの罵声を、心の中に浮かべたはずでした。
けれどうまく、言葉が作れませんでした。
ぐちゃぐちゃのないまぜな感情が腹の中でとぐろを巻き、どうやら離れがたいようだ、という思いだけがより一層強くなっていくようでした。