5.一人の娘と出会いました。
元王子様が逃げ込んだ土地は、豊かな自然に恵まれていましたが、滅多に人がやってこない場所でした。
岩のごろごろした荒れ地や断崖絶壁を乗り越えねば辿り着けなかったことや、街道から外れていた事が理由でしょう。
とにかく、久々に見た人間にまだ息があることは、元王子様にとってものすごく都合の悪いことでした。
死んでいてくれれば、嫌な物を見たと思った後、しばらくその場所に近づかなければいいだけのこと。
でも生きているだなんて。
胡乱な目を向けた元王子様がさっさと逃げ出さなかったのは、まず泥だらけな薄汚い色の中に浮かぶ、見事な赤色に目を引かれたからでした。
血まみれなのかとぎょっとしましたが、よく見てみればそれは髪の毛です。
鮮烈な赤毛の人間は、再びもぞもぞ動いて何事か呟いています。
「ううう……せ、せっかく川まで辿り着いたのに、もう動けない……お腹と背中がぺったんこ。へへへ、へ、うへ……はあ、落ち込む……」
(なんなのだこいつ)
さて、元王子様は考えます。
どうしてこんな場所までやってきたのかは謎ですが、どうやらこの人物は行き倒れというものではないでしょうか。
放っておけばこのまま餓死しそうです。一息にとどめを刺してやる、という選択肢もあるでしょう。
しかし王子様は、既に死んでいる相手ならともかく、たとえ死の淵に瀕していようと、生きている人間をどうこうしたくありません。
というか、この沢は水を飲むのにも体を洗うのにも重宝していた場所なので、さっさとどいてほしいというのが最も正直な所でした。
(……ええい、なぜ俺がこんなことを!!)
最終的に王子様は、イライラと頭を振りながら飛び去り、すぐに戻ってきてごちんと行き倒れの後頭部に木の実を投げつけました。
うごご……と奇妙な音を立てて顔を上げた人間は、木の実を手に取ると、慌てて辺りを見回します。
元王子様はさっさと物陰に隠れ、様子をうかがっていました。
「おお……おおう! なぜ空から食べ物が? いよいよ幻覚かな? いやでももうこの際彼岸の食事でも特に問題ない気がする、いただきまーす!」
(やかましい、黙って食え! そしてさっさと失せろ!!)
死にかけているようなのに、どうもビービーうるさい輩です。
元王子様が隠れた場所から念を飛ばしていると、起き上がった人間は一心不乱に木の実に噛みつきました。
「…………!!」
たかが木の実なのに、目を丸くしたりぎゅっとつむったり、とにかくあまりにも夢中に幸せそうに食べるので、元王子様はついじっと人間の顔に魅入ってしまいました。
もぐもぐと小さな口を一生懸命動かして、人間は喉を鳴らします。
「……はあ! 美味しかった! 生き返った! 感謝いたします、雨の代わりに木の実を降らせてくださったどこぞの人よ……」
ぱん、と両手を合わせた人間は、感謝でも示しているのでしょうか、地面に頭をこすりつけています。
なんとも奇妙な輩でした。嫌な気分にはなりませんが、とにかく変です。
(そんなことはどうでもいいから早く去れ。俺が川を使えないだろう)
イライラと見守る王子様がひとまずは腹が満ちたはずの人間を見ていると、またぞろ何かごそごそやり始めました。
どうやらついでに、川の水を補給し、顔を洗っているようです。
泥だらけの肌から汚れが取り除かれた時、元王子様は思わずあんぐり口を開けてしまいました。
赤い髪の下には、まろやかな輪郭の優しげで線の細い輪郭が描かれます。
緑色の瞳のなんと吸い込まれそうで深い色合い!
(お……女だと? しかもまだ若い……?)
大概物乞いになるのも一人旅に明け暮れるのも男のすることではないでしょうか。
若い身空の女性が一人で、こんなボロ布をまとって餓死寸前など、少なくとも元王子様の常識ではあり得ない事です。
元王子様の姿が変わってから大分経ちましたから、人間の決まり事もまた変わったのでしょうか?
それにしてもやはり異常に思えました。
はっと我に返ると、娘はフラフラと歩き出す所です。
元王子様の願い通り、沢は元通りになりそうでした。
けれど元王子様はなんとなく、娘の後ろ姿に目が行ってしまって離せません。
沢から人の姿が消えて、ようやくいつもの状況が戻ってきてもモヤモヤした心がそのままなのです。
(……ええい! そうだ、あいつはまたこの沢に水を飲みに現れて、鉢合わせするやもしれん。あるいはここを拠点にされるのも困る。だからそう、これは必要な事なのだ!)
彼はさっさと水分補給をすると、イライラ首を振りながら娘の行く先を確かめることにしました。
ドラゴンの自由な視界を有効に使い、彼女がその辺の大きな木の下で丸まって眠りについた所まで確かめると、ひとまずはほっと息を吐き出します。
そしてなぜ自分がほっとしなければならないのだとすぐにまたイライラします。
(しかし、この森にもヘビや狼はいる。俺にとっては小鳥だが、肉食の鳥だって近くの谷から飛んでくる。あいつ、あんな所で大丈夫なのか?)
何しろ長い長い時間を経た、非日常の出来事だったので、元王子様も慌てていたのかもしれません。
結局彼は巣穴にも戻らず、娘が寝ている間ずっと、夜の闇に目をこらして勝手に見張っていたのでした。