3.誰もがその死を祝福しました。
元王子様は数日、誰も来ない森の奥で震えていました。
姿が変わってしまったからとは言え、恐ろしい人々の前にもう一度現れる勇気はなかなか出てきませんでした。
特に王様とお妃様――知っている人の豹変は、とてもショックなことでした。
しかしいつまでも引きこもっているわけにもいきません。
元王子様はだんだんとお腹が空いてきました。
人の姿に怯えながら川を探して、喉を潤すことはできました。
空腹はしばらく食べられそうな木の実などを見つけてごまかしていましたが、大きな竜の体にはそれでは足りないようでした。
あるとき、お腹を空かせてフラフラしていた元王子様は、立派な鹿の姿を視界に入れました。
そして次に我に返ったときには、獲物をとらえ、一心不乱に腹を貪っていました。
狩りで仕留めるのはまだしも、直接食らいつくなどと。
なんという蛮行、度しがたい凶行。これでは本当にけだものではないか。
頭はそんな風に思っているのに、口の中に広がるのは美味で、全身が久方ぶりのまともな食事に喜んでいるのを感じました。
口から出てくるのは喜びの吠え声です。
本当に泣きたくて吐きたいのに、どちらも叶わないのです。
心と体がばらばらになっていくような気がしました。
けれど諦めてしまえば、二度と人間には戻れないような予感もしていました。
(俺は必ず魔女を討ち、元いた場所に帰る――)
悔しく、屈辱的な事ではありましたが、時を経ることでドラゴンの体の使い方に慣れていくのは良いことでした。
飛ぶのも随分と上手になって、大魔女封印の場所を空の高い高い所から偵察することもできるようになりました。
それに、竜の体は人よりも視界や聴覚に融通が利くようでした。
実際に飛んでいくだけでなく、森の中でじっとしたまま、意識だけを飛ばす――そうすれば安全に、今人間達がどうしているのか知ることができるのだとわかりました。
大魔女の封印の場所には常に見張りが立つようになってしまっていて、なかなかもう一度調べに行くことは難しそうです。
悲しい気持ちになった元王子様は、今度は再び王城に飛んでいきます。
(俺がいなくなって、皆さぞかし心配しているに違いない。いや、それとも俺は、ドラゴンに食い殺されたのだと勘違いしたままなのだろうか)
王城の様子をのぞき見てみれば、心配したとおりの事が起きてしまっていたようでした。
どうやら元王子様の葬儀が行われているようなのです。
彼は呪われて姿が変わってしまったとは言え、まだ生きているのに。
涙を流している知り合い達を見ていると、胸が痛くなり、今すぐ飛んでいって自分の存在を告げたいような気持ちになりました。
けれど、誰かがふと零した言葉が、元王子様の耳に入ってきました。
「ああ、やっと死んでくれた」
最初、聞き間違いか、幻聴だと思いました。
しかしどうにも様子がおかしく感じます。
ハンカチで顔を覆い、体を震わせているのは兄弟達でしょうか。
元王子様がその人達に意識を集中させると、参列する彼らの密やかな忍び笑いがくっきり聞こえるようになりました。
「成人したら王様と王妃様は玉座をくれてやる勢いだった。あんな見てくれと魔力しか能がない奴に」
「正統な後継者ではないくせに、寵愛をかさにきて、いつもいつもこちらを見下して」
「国王になることがどんな意味を持つかも知らず、ただ乳をねだる赤子のように無邪気にほしいほしいと言いやがって」
鈍器で頭を殴りつけられたような衝撃が、元王子様を襲いました。それも、何度も、何度も。
間違いなく見たことのある知り合い達の口から、ああなぜでしょう、彼の死を悲しんでいるはずの口から次々に出てくるのは、どれも怨嗟と罵倒ばかり。
「皆に嫌われていたくせに、うわべで簡単に騙される愚か者」
「おだてられればすぐ木に登り、大魔女の封印石まで割った」
「いつかあの傲慢さが己を滅ぼすとは思っていたが、笑えるほどの身の程知らず」
「いい気味だ。罰が当たったのだ。これは天罰、運命に他ならない」
(嘘だ。こんなものは嘘だ。そうだ、きっと大魔女グリンドヴァーン……あれが何か、また悪さを)
動揺する王子様の視界の端で、王様と王妃様が肩を寄せ合っています。
可愛がってくれた両親! 彼らなら、きっと――。
「我々は今まで騙されていたのだ」
「ええ、きっと元から大魔女の手先だったのでしょう」
(何を……何を言っておられるのです……?)
「おかしいと思ったのだ。あれほど美しく、魔法に秀でていて」
「けれどとても意地悪で、扱いづらい子でした。それなのに私たちが夢中だったのは、きっと魔法で惑わしていたせいでしょう」
「ああ、そうだろうとも。全部あの王子が――いや、王子の皮を被った魔女の使い魔めが悪い」
(違う、俺は人の心を操る魔法なんか使えない! それに、何でもしていいと、何をしても許すと言ったのは、あなたたちではないか!? 大魔女の封印を解いてしまった事で責められるならともかく、そんな――!)
「本当によかったです」
また聞き覚えのある声に振り返れば、それは元王子様の婚約者になるはずだった女性でした。
彼女は喪中の服を着ているにもかかわらず、第一王子にしなだれかかり、うっとりした目で見つめます。
「私、あの人の嫁にされるなんて、絶対に嫌だったの。だって乱暴で気が利かなくて、自分だけのお子様で」
「ああ。たきつけた甲斐があったよ。まさかここまでうまくいくとは」
一番上の兄は、目立たぬ地味な男でした。
――お前ならば大魔女グリンドヴァーンを倒せるかもしれない。封印の森に一人で至り、単独で征伐に成功したのなら、誰ももうお前を悩ませることはないだろう。
そういえば、すれ違い様、そっと耳に囁きかけてきたのは彼ではなかったでしょうか?
「――本当に」
「ああ、あいつが死んでくれてよかった」
誰も。
元王子様の死を嘆いてはいませんでした。
泣いているふりの下で、誰もが歓迎していました。
親しいと思っていた取り巻き達も、愛してくれていると思っていた家族も。
元王子様の意識は体に逃げ戻りましたが、彼は震えたまま、しばらく動くことができそうにありませんでした。
怒ればいいのか、嘆けばいいのか。
彼らに? 大魔女グリンドヴァーンに?
――いいえ。
自分に?
口を開けば、大地を揺るがすような咆吼が飛び出ました。
元王子様は何度も何度も、言葉にできない感情を全部絞り出してしまうように叫びました。