13.その愛は、呪いを溶かし
元王子様が世を離れている間に、人は神秘の術を失いました。
けれど人間には知恵があります。
魔法を使わずとも、道具があれば、重たく鋭い一撃を飛ばすことは可能なのです。
元王子様は見たことすらない物でしたから、警戒のしようがありませんでした。
彼が娘のいましめを解いている間に、しっかりと兵器の照準は合わされ、装填された鋭い槍が今彼の体に届きました。
彼が真っ先に感じたのは、うまく飛び立てない、ということ。
けれど落ちるわけにはいきませんし、背中を見せるわけにもいきません。
翼を動かそうとすれば、胸からは青い液体が音を立てて噴き出しました。
「効いているぞ!」
「落とせ落とせ!」
二撃目は腹に。
三撃目は翼に。
それでも元王子様はけして地面に降りませんでした。
少しでも高度を下げれば、姿勢を崩せば、せっかく乗せた娘が落ちる、あるいはそこに向けて兵器の矛先は向けられることでしょう。
「いいわよ、もっと――」
また、あの耳障りな金切り声が響き、頭を揺らします。
元王子様は朦朧とした視界の中で、音だけを頼りに首を捻り、ありったけ腹に力を込めて炎を吐き出しました。
巻かれそうになった人がちりぢりに逃げ回ります。
そして今度は聞き覚えのある声が絶叫し、ぐしゃりと何か大きな物が落ちる音が直後響きました。
――夫の裏切りを許せないのも、卑しい身分の人間を同じように思えないのも、仕方のないことかもしれません。
けれど無実の人間を辱め、処刑の様子を高台で見物しようなどと、あまりに悪趣味でした。
お似合いの末路だ、と自分がすべきことを成し遂げた事を悟った彼は、今度こそ誰に邪魔をされる前に、空に舞い上がり、飛翔し、雲の上にまで突き抜けます。
(どこへ……わからない。遠くへ……)
背中には相変わらず、震えと温もりがありました。
突き刺さった物達がとても邪魔です。
一つ羽ばたくごとに体から液体が溢れ、そうして力が抜けていくのを感じました。
炎は先ほど吐き出したのが最後。
(遠くへ――誰も傷つけるもののない場所へ)
彼を? いいえ、彼女を。
彼を突き動かすのは今や気力のみでした。
彼の胸の内にあるのは激情の炎であり、意地という熱でした。
体が傾きそうになるたび、歯を食いしばり、ぐっと噛みしめて、見えない前方に目をこらしました。
そうして本当に、己の全てを賭けて飛び続け、限界が来たところで――元王子様はゆっくりと落ちていきました。
雲の下に出ると、一面の青い水面が揺らめきます。
がむしゃらに飛んで飛んで、いつの間にか海に出ていたようです。
いいえ――ふらふらと、最後の力を振り絞った彼が背中から放り出すと、娘は柔らかい砂浜の上にどさりと落とされ、ドラゴンの巨体は浅瀬の中に落ちました。
うめいて体を起こした娘が、ふらふらと近づいてきます。
ドラゴンの喉からは、ひゅうひゅうと空気の漏れる音がしました。
彼女は自分を一のみしてしまえそうなほど大きな口に近づきますが、ぴったり閉ざされたそこからは、だくだくと青い血が吹き出て止まりません。
「ドラゴンさん……ドラゴンさん、どうして……」
彼女はぺたぺたと、弱々しい手で魔物の顔を触ります。
薄目を開けると、やっぱり燃えるような赤色がよく映えます。
ぜいぜいと息を漏らし、元王子様は思います。
(どうして? そんなもの……俺がそうしたいと思っただけだ。ただ、お前があのままなぶり殺しにされる、そんな世界は間違っていると思ったのだ。俺自身が死ぬよりも、許しがたいことだった……)
あれほど恐れ、生きることに飽いてすらなお手を伸ばそうと思えなかったものが近づいてきているのに、とても穏やかな気持ちでした。
それはもう、一人ではないからでしょうか。
何故こんな所で、と空しく思うよりずっと、ここでいい、と満足する想いの方が強くありました。
けれど心残りが全くないわけではありません。
一応、害する人間がいるような場所からは遠く逃げてきたはずですが、この先娘は大丈夫でしょうか。
(……いや、まあ。危なっかしく見えて、図太くもある奴だ。なんだかんだ、生きていくのだろう。俺がいなくとも……)
今はまたビイビイ泣いてうるさいのですが、こんな風に感情を露わに出来る彼女だからこそ、きっと前に進み続けることもできるだろう。
それは短い間ではあれど、誰よりも近く娘を見守り続けてきた彼だからこそ確信できることでした。
(心残りと言えば。そうだ、大魔女への借りを返すのも、考えてみれば果たせぬまま……)
一時は生きる理由の一つですらあったはずのそれが、今ではもう、どうでもいい。
馬鹿でかい竜の体は、娘を庇うのにとても役立ちました。それだけは唯一、大魔女によくやったと声をかけてやらないでもないことかもしれません。
「い、いやだ。置いていっちゃ嫌ですよう。いつだって、あなたは……あなただけは、帰ってきてくれたじゃないですか。嘘つき……」
(誰も嘘なんかついてない)
心の中の悪態が、もう吐息にすらなりません。
見えていないけれど、あの深い、吸い込まれるような緑の目がのぞきこんでいるのがわかりました。
森に抱かれるような、神秘的で、安心させる、緑が。
――竜の体から、ふっと力が抜けました。
うっすら開いた目から光が消えたのを見て、娘は大きな顎を抱きしめ、大きな大きな泣き声を上げました。
しばらく波の寄せる音と、彼女の泣く音だけが響いていました。
やがて波は、霧を連れてきます。
巨体にすがって泣き続けた彼女が、がらがらの喉にえづきながらふと顔を上げてみると、憎たらしいほどの晴天はいずこかへ隠れ、真っ黒な空の下に靄が立ちこめます。
「愛。愛。愛――感激し、感涙し、拝跪して賛美せよ」
そうしてどこからか、ぞっと背筋が凍るような、美しい女の声が聞こえてきました。
娘はドラゴンの体を背に、彼の遺体を守るように立ち上がって両手を広げ、震えながら靄の中を睨み付けます。
「誰! この人をこれ以上傷つけるなら、誰であろうと許さない――」
泣きすぎて、しわがれた老婆のようになった声を懸命に絞れば、靄が渦巻き、山高帽を被り、杖を抱えた背の高い人型のようなものを描き出しました。
それはちっぽけな娘を見下ろして、囁きかけてきます。
「我は愛の下僕にして盲目の信徒なり。汝は愛ある者か?」
娘はごくりと生唾を飲み込んだまま、けれど一歩も引かず、爛々と輝く緑色の目で異形を見つめ続けました。
すると靄が揺れてたわみ――強い、強い風が吹いて。
「愛ある者は愛しきなり。生きよ、愛の賛美者達よ」
高らかに、歌い上げるような声と共に、靄は全て失せ散じ、後には晴れやかな空と青い海、白い砂浜だけが残されました。
――いいえ。それだけではありませんでした。
しばらくへたりこんで呆然としていた娘がふと何気なく降り向くと、大きな鱗がどこにも見当たりません。
慌てて血相を変えた彼女は、けれど竜の巨体が倒れていたはずの場所の近くに、見慣れぬ人影があるのがわかりました。
恐る恐る近づいてみれば、それは見たこともないほど美しい男のようでした。
息を呑んだ彼女が、何かに引き寄せられるように顔に触れると、ぴくりと瞼が動いて、うっすら開きます。
彼は固まったままの娘を胡乱な眼差しで見上げ、それからだるそうにゆっくりと体を起こし、自分の手を見下ろしたところで固まります。
それから急に立ち上がり、衣服をまとった体を何度も探り――特に顔の辺りはこわごわと、次に奇妙な物に触れるかのように、何度も何度も探ります。
男の様子を見守っていた娘が、その挙動不審の仕草を見て、ぽつりと一言、思わず漏らしました。
「ドラゴンさん?」
彼はピタッと止まると、ゆっくりと降り向き――そして、実に憮然たる顔で、むっつり言い放ちました。
「人違いだ、間抜けめ」
けれど開口一番罵倒されたにもかかわらず、娘はくしゃくしゃ表情を崩しました。
「いいえ、あなたです――あなたですよ、意地っ張りさん!」
そうして子犬のように飛びついた彼女に押し倒されるように砂浜に転げた男は、怒りの声を上げましたが、泣き笑いで忙しい彼女を引っぺがすのが難しいと悟ると、実にぎこちない――そんなことをするのは初めてだというような手つきで、おっかなびっくり背中を撫でてやるのでした。