12.処刑場に彼女を助けに行きました。
谷を越え、川を越え、山を越え、夜の闇の中を一匹のドラゴンは飛んでいきます。
はっきりと場所や道筋を知っているわけではありません。
ただ漠然と、あちらの方だろう、という予感のようなものがありました。
地面に目をこらしながら翼をはためかせていると、自分は何をしているのだろう、と何度も思いました。
民家のような物が見え始めると特に、体がこわばり、心がどんより曇っていくのを感じました。
引き返そう、と思ったのも二度三度ではありません。
時には囁くように、時には激しく胸を焦がす後悔のように、何度も何度も誘惑が手招きをしていました。
(何の意味もない。求められている訳でもない。求めている訳ですらない――)
星が瞬き、夜は更け、やがて徐々に東の空が白みはじめます。
それでも元王子様は、前に向かって進み続けました。
脳裏には、笑う赤髪の娘の、いつかの時の顔と言葉がよぎります。
――ドラゴンさんは、意地っ張りの怒りんぼさんですね、ふふ。……あっあっ、駄目です、行かないで!
――別に責めてるわけじゃないですよぅ! ……そりゃあ、ちょっとはね。もう少し愛想良くしてくれてもいいのになーって、思っているときも……ああだから、行かないでってばぁ!
――ふう。だけど、あのね。ちょっと羨ましいんです、そんな風に不機嫌になれるの。私、怒ったり泣いたり、あまりしないので。……しないようにしてたら、やり方を忘れちゃって。
――だって、悲しいときに泣いて、嫌なときに怒ってたら、私の笑える時なんてないじゃないですか。幸せは、笑顔でないとやってこないでしょう?
――だから、いつもニコニコして、機会の神様を逃さないようにしてるつもりなんです。笑っている人が幸せになって、勝つ! ……そういうものでしょう?
彼女はいつも通り笑っていました。
いつも通り、どこか達観して、諦めて、寂しげに笑っているのでした。
(誰かが、あの馬鹿に、馬鹿と言ってやらねばならんのだ。……俺しかいないのならば、仕方あるまい)
体が、心が、魂が燃えていました。
地平線から白い光が姿を見せるその寸前――ようやく彼は、積まれた薪と乗せられた人の姿を見つけました。
自然と雄叫びが飛び出ました。
処刑場に集まった人々はいぶかしげに空を見上げ、順に顔色をなくしていきます。
「ド――ドラゴンだ! ドラゴンがこっちに向かってくるぞ!!」
見物に集まった群衆達は、我先に逃げ出していこうとします。
元王子様はそんな物に構わず、未だ十字架にくくりつけられたまま俯いている女に向かって、もう一度吠えました。
(貴様! この俺をここまで振り回しておいて、勝手に消えていこうというのか! そんなことは絶対に許さんぞ!)
「――ドラゴン、さん?」
ようやく顔を上げた彼女は、緑色の目を目一杯大きく見開き、信じられない物を見る目で空を見つめます。
慌てる人間達の間で、誰かが叫びました。
「ええい、うろたえるな! さっさとその小娘を殺してしまいなさい!!」
「そうよ、そいつが呼び寄せたのよ! 早く殺して!」
金切り声を上げているのは、あの着飾った母娘ではありませんか。
今日も処刑場にそぐわぬきらびやかな装いで、高見の見物としゃれ込もうとしていたようでした。
彼女達に言われ、慌てて処刑人達が薪を燃やします。
瞬く間に炎が立ち上りますが、それらが娘を包み込んで舐め取ってしまう前に、ドラゴンが到着する方が早かったのです。
彼の翼で起こった風で邪魔な人間達は吹き飛び、燃えたての火も一時的に勢いが消えます。
再び燃え上がる前に、ドラゴンは十字架に張り付き、しっかりとつかんで薪から引き剥がしにかかりました。
「――わ、わ、わわっ!?」
くくりつけられた柱ごと宙に持ってかれた娘が慌てた声を上げますが、それより聞き捨てならない叫びも飛び込んで来ました。
「何をしている! 矢を射かけろ、石を投げろ! なんとしても落として討ち取れ!!」
髪を振り乱し、顔を真っ赤にして叫ぶのは、貴族の男――娘が一度だけ、お父さんと呼んだ相手でした。
元王子様はそんな醜い姿見たくもないと思いましたが、それ以上に娘に見せたくないと感じました。
しかし、急いで空に上がろうとしましたが、うまくいきません。
雨のように降り注いできた矢から、娘を庇う必要があったのです。
ドラゴンの体は頑丈ですが、人間の女は脆いものです。
そしていくら頑丈とは言え、関節の柔らかい部分などには傷がつき、彼は苦悶の声を上げました。
「に……逃げて。あなただけでも」
(……だからお前は馬鹿だと言うのだ)
覆い被さられた下で娘が震えながら囁きかけてきますが、元王子様は鼻を鳴らします。
近づこうとする人間達を、翼を広げ、炎を吐き出し、尾を振って牽制し、娘を柱から解放すべく、慎重に牙と爪を使っていきます。
傷は増えていき、娘は顔をくしゃくしゃにして何度も逃亡をすすめてきましたが、ようやく自由にはできました。
けれど、なかなか腹の下から出してやれそうにありません。
抱えたまま飛び立てば下から撃たれてしまうでしょうし、背中に乗せようとすればやはりその間に引きずり下ろされてしまうでしょう。
道を開くべく顔を上げ、大きく口を開いたドラゴンは、わめきちらす尊い人間達の姿をとらえました。
「何をしているの! あんな魔女と、使い魔ごときに!!」
「魔女は殺せ! 殺せ!!」
「八つ裂きにしろ! 竜殺しは誉れぞ!!」
(……魔女?)
元王子様は思わず笑ってしまいました。
それは不気味な竜の声となり、人々を怯えさせました。
すがるように足にぴたりと身を寄せた娘の心許ない体温を感じながら、元王子様はすっと目を細めます。
ぐるりと見回せば、残っている人間達は皆、滑稽に着飾っているか、物々しく武装をしているか。
かつて見慣れたローブ姿が見当たらない事を確かめます。
(時代は下り、魔法使いすら消えて、神秘の存在を忘れたのか? 俺の知っている魔女は――こんなものではなかったぞ!)
吐き出した炎は処刑台を燃やし、近くの人々にまとわりつき、狂乱を引き起こします。
けれど不思議と娘には温かく感じるだけで、驚いている彼女はひょいと首根っこをつかまれ、乱暴に放り投げられました。
「ひゃ――ぎゃーっ!?」
いつもドラゴンに内心罵倒されている、およそ乙女らしくない悲鳴を上げた後、彼女はぐえっと潰れた音を立てて背中に収まります。
体を揺すって娘の位置を調整した元王子様は、今度こそ力強く羽ばたき、宙に浮かび上がりました。
けれど、上がりきる寸前、その刹那。
飛んできた槍のような杭のようなものが、深々と魔物の胸に突き立てられたのでした。




