一話
新連載始めました! ……え?他に連載しているのがあるだろうって? も、もちろんそちらも書きますとも!
……冗談はさておき、新連載です。今回、絶対に作者変わっただろと言われるくらいに長くなりました。しかしこれは偶然です。次回以降は期待しないでください。
人はみな、その内に〝穴〟を抱えて生きている。子どもも、大人も、老人も、男も女も。誰ひとりとして例外なく。
■
朝。
それは一日の始まり、あるいは夜の終わり。
それは安らぎのぬくもり、あるいは地獄の炎。
それは幸せな微睡みの時間、あるいは苦痛な生活の時間。
朝とは、幸せの始まりであるとともに、不幸の始まりでもある。なにかの始まりであると同時に、なにかの終わりでもある。
つまり、私がなにを言いたいかというと、今日は朝が好きだということ。
今日は、ということは嫌いな日もあって、特に月曜日なんかは朝なんか来なくていいと思っている。
……ともかく、今日は朝が好きだ。なぜなら、今日はこれから高校の入学式があるから。
小学生の頃も、中学生の頃も、学校なんかなくなってしまえと思っていたが、いざ入学式の日になると、こんなにも楽しみになるのだから不思議なものだ。
少女は感慨に耽ながら、学校に向かう支度を始めた。
まずは腹ごしらえだ。
フライパンに軽く油を敷き、温める。ある程度熱くなってきたらベーコンを焼き、最後に卵を落とす。ここでポイントなのは、先に少しベーコンを焼いておくことだ。そうすると、かりかりで美味しいベーコンができる。卵を落としたら、ふたをして弱火で三分。その間にトーストも焼いておくと時間が短縮できる。最後にキャベツを千切りにしていたところで、ベーコンエッグとトーストが焼けた。ベーコンエッグには仕上げに塩コショウを振り、皿に移す。
少女は半熟の黄身に頬を緩め、朝食を終えた。
次に、彼女はシワひとつない制服に袖を通すと、荷物の確認を始めた。大部分は昨日のうちに終わらせておいたが、初日から忘れ物をするのは嫌なので、念のためだ。といっても、持っていくものは筆記用具くらいだが。
少女は確認を終えると、最後に仏壇の前に座り、両親にむかって行ってきますと呟き、家を出た。戸締まりするのも忘れない。
■
入学式。
それは忌むべき学校生活の始まりを告げるものであると同時に、どうしようもなく心踊る行事でもある。後々、苦しくなるのがわかっていながら、その瞬間だけは楽しいと感じる、まるで麻薬のようなものだと私は思う。
とはいえ、入学式自体にはなんの楽しみもない。ただ、顔も知らない校長とかいう他人の長ったらしい話は聞き、これまた知らない校歌を歌わなければならない、むしろ苦痛の時間である。
この時ほど時間が遅く感じる日は、はたして他にあるのだろうか? おそらくない。
本当に、なんで入学式なんてあるのだろう? なんで校歌なんてあるのだろう? なんで校長は長い話しかできないのだろう?
……なんて、とりとめのないことを考えながらお偉いさんの話を聞き流し、周囲の人間を、詳しく言えばその〝穴〟を眺める。深い者、浅い者、赤い者、黒い者、白い者、様々な〝穴〟が見える。
……そう。私には人の〝穴〟が見える。一部の限られた人だけではなく、老若男女、全ての人の〝穴〟を見ることができるのだ。今まで十五年間生きてきて、誰ひとりとして例外はない。
今だって、ほら。ステージに上った教頭だかPTA会長だか知らないが、とにかく上った男にも、ポッカリと〝穴〟があいている。そして、その上に覆い隠すようになにかが掛かっている。
〝穴〟とは、人の持つ本質と言えるものである。
その上に被さったものは、理性や知性など、つまりは本質以外の全てである。
私は、私以外に〝穴〟が見えないことに、小学一年のときに親の喧嘩を見て気がついた。表層を感じとることしかできないことも。
父さんは、まるで母さんのことを全く知らないというように心ない言葉を並べ、母さんもそれに対し、まるで父さんのことを全く知らないというように心ない言葉を並べた。そして、口論になった。〝穴〟さえ見えていれば起こることのないことである。だから私は聞いたのだ。〝穴〟は見えないの? と。もちろん答えは見えないだった。
あのときの驚きといえば、忘れることができない。世界の全ての色が逆さまになったような衝撃だったのを覚えている。
……とにかく、私は〝穴〟が見えるのだ。ステージに立っている人にも、周りの人も、心になにかを抱えて生きている。
……ああ、本当に暇で暇で仕方がない。暇すぎて頭がおかしくなったのだろうか? いるはずのない誰かに自己紹介をするなんて。早く入学式なんか終わらないかな?
■
ようやく入学式が終わり、私たちが生活することになる教室に案内されることになった。他の教室は後で案内するらしい。
初めての高校生活ということで、どこか浮わつきながらも声だけは出さない独特の空気感の中、ついに教室に着いた。
1ー2組
私のクラスだ。ちなみに三階にある。最上階だ。
私たちはキョロキョロと周囲を物珍しげに眺めながら、自分の名前の書かれた席を探す。
28番 山内 結衣
あった。私の席は、窓際の真ん中の席だった。ちなみにひとクラス三十人で、男女関係なく名簿順に並んでいるらしい。
早めに席を見つけて座っている人もいたから、私もそれにならっておとなしく座っていることにした。
時計の針が動くのをぼーっとしながら眺めていると、全員が席に着いたようだ。先ほど私たちをこの教室につれてきた若い先生が自己紹介を始めた。
「これからみなさんの担任をすることになった伊藤 綾香です。担当の教科は国語です。よろしくお願いします」
先生は黒板に名前を書いた。国語の先生らしく、字がきれいだった。周りにいる男子生徒の表層がざわざわとしている。それくらい顔もきれいな先生だった。
先生は自己紹介を終えると、今度は私たちに自己紹介をするよう言った。
「まずは名簿一番から、名簿順にお願いね」
名簿の始めの方は名前、どこ中学出身か、好きな教科など、あまり興味のわかないことしか言わなかったが、ある程度進んでくると面白いことを言う人が出てきた。もちろん、私は最後の方なのでハードルを無駄に上げないでほしいと思っているが。
そんなことを考えながらも、なんと言えばいいかも考えていると、もうすぐ自分の順番が来ようとしていた。校長の長い話を聞いている間は時間が遅く感じるのに、こういうときだけ早く感じるのはやめてほしいなと思いながら、自分の番が来たので立ち上がる。
「山内 結衣です。出身中学校は他県の○○中学校です。なので顔見知りがひとりもいません。仲良くしてください。よろしくお願いします」
自分ではにこやかに笑っていたつもりだが、周りの大人からは表情をつくるのがニガテだねって言われていたから、きっと笑えていなかっただろう。……まあどうでもいいが。
席に座るとまばらな拍手があちこちから聞こえ、次の人が自己紹介をするために立ち上がる。
私は残りふたりの自己紹介も聞き流し、先ほどまでは緊張で見る余裕のなかった、クラスメイトの〝穴〟の深さを眺めることにした。ざっと見た限り、このクラスで特に深いのは四人ほど。
そこまでわかったところで、全員の自己紹介が終わった。
「うーん……時間が余っちゃったね。案内まで時間があるし、自由時間にするね。あ、でも教室から出ちゃだめだよ。あとあんまり大きな声は出さないでね、周りのクラスの邪魔になっちゃうから」
先生はそう言って備え付けのパイプイスに座った。
始めはしーんと空気が張りつめていたが、次第にあちこちから会話が聞こえてきた。
私は無表情だし、話しかけられることもないだろうと思って窓の外を眺めていたが、次の瞬間に机がトントンと叩かれた。なんだと思って窓から視線を引き剥がすと、隣に座っていたミディアムヘアの女の子が緊張した様子で私の方を見ていた。先ほど見つけた、特に深い〝穴〟を抱えている子だ。
「え……と? 山内さん、でいいかな?」
話しかけられるとは思っていなかったから、少し言葉に詰まったけれど、なんとか返事を返す。
「うん……えっと……」
と、自己紹介をきちんと聞いていなかったため、相手の名前が出てこないことに気がついた。
「……ごめん、自己紹介ちゃんと聞いてなくて……」
ごめん、とは言ったものの、きっと表情は動いていないだろう。ああまた変な空気になるな、と思っていたけど、相手はワタワタとして、
「そ、そうだよね! 序盤の人と最後辺りの人は覚えられるけど、中盤の人はあんまり覚えていられないよね!」
そう言った。私は別に自己紹介を全部聞いていなかったため、序盤も後半も中盤も覚えていなかったけど、特に注意はしなかった。
「私は向山 沙希。よろしくね!」
「うん。向山さんだね。よろしく」
彼女はにこやかに笑って言った。しかし、私は彼女が無理をしていることに気がついている。なぜなら、彼女の表層が揺らめいているからだ。
表層とは、〝穴〟と対になる存在である。〝穴〟とはその人の本質であり、表層は感情や知性など、それ以外の全てである。稀に、〝穴〟と表層が同じような人もいるがそれは本当に稀であり、大部分の人間は彼女と同じように〝穴〟と表層が対になっている。だから、表層が揺らめくということは、その人の感情や思考回路に反しているということで、つまりは無理をしているということになる。
ただ、私がいくら〝穴〟が見えるとは言え、初めて顔を合わせた相手に無理しなくてもいいよと言ったところで、たいして効果はないだろう。だから黙って会話を続けることにした。
「校長の話長かったね」
「そうだね」
「これからの学校生活、楽しみだね」
「うん」
「県外の中学校にいたんだよね? どうだった?」
「たぶん普通」
「そう……」
「……」
「……」
会話、終了。場に気まずい空気が流れる。しかし、原因の大部分はわかっている。私だ。私が寡黙で、返事くらいしかしないのが原因だ。とはいえ、なおす気はない。なぜなら、私から言葉を投げかけると、私の表層が揺らめくからだ。
私は人の〝穴〟を見られる能力を一度なくしている。小学二年から小学四年の前半くらいまでだ。そして、その間にすっかりその能力のことを忘れていた。しかし、小学四年のときに起こった事件によって、再びこの能力を手に入れたんだ。
それから私は、この能力を使い、自分の〝穴〟も表層も揺らさないようにしてきた。揺れる、ということはなにかしら無理をしているからだ。だから、あまり揺らさないようにしてきた。
私はたぶん、コミュ障なんだと思う。なまじ相手の心の揺れを感じ取れるがゆえに、自ら相手の心を揺らすことを恐れて話しかけることができなくなったのだろう。
……ただ、しかしまぁ、現在は相手の心が揺れまくっている真っ最中である。
話しかけちゃったけど気まずい! あの人、黙っちゃったけどもしかして迷惑だった?!
とでも思って、動揺と後悔をしているのだろう。
だから、仕方なく私から話しかけることにした。もちろん自分の心が揺れない程度に。
「……向山さんは中学のとき、なにしてたの?」
「……え?」
私が話しかけたのが予想外だったのか、それとも話しかけられた内容が予想外だったのか、それはわからないが、私がそう聞いた瞬間、相手の心は揺れまくった。さっきよりも。それも〝穴〟も表層も。おいおい大丈夫かと思うくらい。
「え、え、えと……ふ、普通だったよ?」
あまりに心を揺らすようだから、ついぽろっと言ってしまった。
「……本当に?」
いつもは無表情な顔が、ほんの少しだけジト目になっていたと思う。そこで相手は
「ほほほ、本当だよ!」
とテンパり、余計に怪しくなったが、そう、とだけ呟き場を流す。もう一度、ふたりのあいだに微妙な空気が流れる。……本当に気まずい。やめてほしい。
ちらりと時計を見てみると、五分しか進んでいない。本当に、暇なときとか微妙な空気感のときに、時間がゆっくり流れるのはどうにかしてほしい。
と思いつつ、仕方なく、本当に仕方なく言ってあげることにした。
「……無理しなくてもいいよ」
振り返って見てみると、相手の表層はやっぱりぐらぐらと揺れていた。だからそう言ったのだけれど、それを聞いた瞬間から余計に心が揺れ始めた。
「え、えと、わ、私は……」
私はそれには目もくれず、窓の外に目を移す。ああ、もうまた変な空気になった。ため息をひとつ吐き出し、雲を眺める。いいなぁ、あんなふうになにも考えずに漂っていられれば、楽だろうなぁ。雲になりたい。
些細な願いは叶えられることもなく、時間がゆっくり流れていった。
しかし、しばらくするとなぜだか彼女がもう一度話しかけてきた。
「あの、なんで無理してると思ったの?」
彼女の心を見てみると、確かに揺れてはいるが、さっきのように心配になるくらいに揺れてはいなかった。
一度微妙な空気になった相手にもう一度話しかけるとは、メンタル強いなとか思いながら、答え……ようとしてなんと言えばいいかわからないことに気がついた。初対面の相手に〝穴〟のことを言えるわけがない。だから
「うーん……体質?」
この能力はどんな言葉でも表せる気がしなかったため、体質と答えたが、どうやら彼女のツボにはまってしまったようだ。
「体質って……ふふ、山内さん、なんか面白いね」
彼女は笑ったけど、心が揺れていない。無理をしていない証拠だ。
笑われはしたが、彼女が無理せず笑えたなら別にいいかと、私も少し口角を上げた。そして、ちょうどチャイムがなった。
「また、お話してもいいかな?」
彼女は心を少し揺らしてそう聞いてきた。もちろん、断る理由もないのでいいよと返すと、今度は心を揺らさずに彼女は微笑んだ。
「それじゃあ、自由時間は終わり。トイレに行きたい人はトイレに行ってきてください。みんな帰ってきたら学校の案内を始めます」
伊藤先生はそう言った。心は揺れていた。若いし、初めての担任なのだろう。緊張するのも仕方ないのかもしれない。ぼーっとしながらその揺れを見つめ、トイレ班が帰ってくるのを待つ。
しばらくして全員が揃うと、担任の先生が学校案内を開始した。私は大事なところだけを覚え、特に使わなそうな場所は記憶の隅に追いやった。もし万が一は他の生徒について行けば迷わないだろうと思って。そしてまた、〝穴〟観察を再開した。
〝穴〟は、色も形も深さも、全部が他の人とは違う。同じ経験をしても同じように成長しないように、同じような経験をしても同じような形にはならないのだ。だから、一種の芸術鑑賞みたいなノリで私は観察する。人が絶えず出入りする場所では、一日時間を潰せるほどに面白いと私は思う。
とまあ、そうこうしているうちに、なんやかんやで高校生活一日目が終了し、解散となった。
私は貰ったパンフレットと筆記用具を鞄にしまい、学校を出る。スマホ画面をちらりと見ると、時間はお昼ちょっと過ぎくらい。今から帰って昼食を準備するのも面倒なので、近くの飲食店に行くことにした。スマホのアプリ、eatログを起動する。家に向かいつつ、ある程度良さそうな店を探す。私は中学卒業と同時にこちらに引っ越してきたので、eatログは必須アプリである。
ぽちぽちとスマホを操作していると、後ろから声がかかってきた。声をかけてくるほど仲良くなったのは(はたして仲良くなったと言っていいのか微妙だが)ひとりしかいない。振り返って見てみると、予想通りそれは向山さんだった。
「なにしてるの?」
彼女は少しだけ心を揺らしながら、しかしそれでも会ったばかりのときほど揺れてはないが、話しかけてきた。普段は自分から話しかけない性格なのだろう、緊張している。
「お昼、どこかの店で食べようと思ってeatログ見てた」
「へぇ~」
そこでふと、調べるよりも近くに住んでいる人の意見を聞いた方がいいのではないか? と思った。ちらりとeatログを確認する。それなりに星は高いが、これだと思う店はない。
私はeatログを閉じるとスマホをしまい、彼女に向き合う。
「おすすめの飲食店とか、ある? それなりに近くて、できればあんまり高くないところ」
「うーん……。あ、それならあるよ。飲食店というか、カフェみたいなところだけど……」
彼女は少し緊張しているのか表情が固かったが、心は揺れてはいなかった。
そして、おすすめの店を知っているようだ。
「いいね、カフェ。どこにあるか教えてくれない?」
彼女は笑って、こっちこっちと言いながら店への案内を開始した。
「今から行く店、モカっていうの。eatログで調べても出てこないから、たまたま見つけたりしないと入れないんだ。コーヒーゼリーが美味しいんだよ」
隠れた名店というものだろうか。ますます行きたくなってきた。
……それにしてもコーヒーゼリーか。甘いものは嫌いじゃないし、頼んでみるのもいいかもしれない。
彼女はニコニコと(心は少しざわめかせながら)、私はいつも通りに無表情で店に向かう。
「ところで、誰と行くの?」
しばらく歩いて話すことがなくなったとき、彼女は唐突にそう言った。きっと沈黙に耐えられなかったのだろう。
「ひとりだよ」
「え?」
どうやら、誰かと一緒に行くと思っていたらしい。しかしあいにく、こちらに来て一週間ほどしか経っていないから友達はいないし、そもそも両親もいない。中学のころお世話になった祖父母の家は、居心地が悪く飛び出すように逃げてきた。
「だって、一緒に行く人いないもん」
「お母さんとかは?」
「死んじゃった」
「……ごめん」
彼女の心がぐらぐらと揺れている。
私が両親がいないと話すと、だいたいみんなはこんな反応をする。
「大丈夫だよ。死んだのは小学四年のときだし。もちろん小学生時代は悲しくて悲しくて仕方がなかったけど、中学に入ってからはそんなこと思わなくなった」
彼女はそれでももう一度ごめんと言って、無理矢理気にしていないという顔をする。心がやっぱり揺れている。
「……あ、あのさ、私も一緒に行っていい? ひとりで店に入るの、気まずいじゃん?」
私はひとりで店に入るのには慣れていたからそうは思わないけど、別に断る理由もない。答えはもちろんイエスだ。
そう答えると、彼女はほっとしたようだ。……ただ、知り合ったばかりの人とふたりきりでの食事なんて、むしろ気まずくないかと問いかけたいが。でも、私は空気を(心を)読めるため、そんなやぶ蛇になるようなことは言わない。
そうこうしているうちに、店に着いたようだ。
「ここだよ」
Cafe モカ
それは、細い路地をいくつか通らないとたどり着けないような場所にあった。偶然見つけなければ入れないと言われたのも納得だ。私たちは早速入ることにした。
彼女がドアを開けると、チリリンと音がなる。開いたドアの隙間から周りを見てみると、あまり客もいない。少々、こちらが心配になってくるレベルだ。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
そのとき、ダンディーなマスターの声が雰囲気を壊さぬよう静かに、されど聞きとりやすい大きさで響く。
向山さんは勝手知ったるとばかりにマスターへ会釈をすると、店の端の方にあるふたり用の席へ向かう。
「私、常連さんなんだ」
「へぇ、そうなんだ」
それしか感想は出てこない。
「ちなみに、ここはカルボナーラとかがおすすめかな」
「カルボナーラか、いいね、今日はそれにしてみようかな?」
ふたりで相談しながら、なにを頼むか決めて店員さんを呼び、注文をしたあと、場は沈黙に支配された。当然だろう。なんたって今日初めて会ったのだ。なにを話せばいいか、わかるわけがない。そのことに彼女も気がついたのだろう、心が揺れている。
「ちょ、ちょっとお手洗いに……」
場の空気に耐えられなくなったのか、彼女はトイレに行ってしまった。
……なんで私は良く知らない人とランチをしているのだろう?
そんなことをつらつらと考えながら、店員さんの〝穴〟を眺める。それはそこそこ深く、仄かに薄暗かった。きっと私なんかが想像もできない出来事があったのだろう。私は、そういうことを考えながら他人の〝穴〟を見るのが趣味といってもいい。先ほども言ったが、そうしていればいくらでも時間を潰せる。
店員さんをバレないようにぼーっと眺めていると、向山さんが帰ってきた。場に、再び気まずい雰囲気が流れる。
「あ、あの……」
彼女はなにかを発したが、結局口を閉ざしてしまった。心が揺れている。
……仕方ない。本当に仕方ない。心を揺らすのも好きじゃないし、心が揺れているのを見るのも好きじゃない。それに、せっかくの料理をこんな空気の中で食べるのはごめんだ。
「……あのさ、この店教えてくれてありがとう」
「……え? あ、うん」
「私、最近ここに来たばかりだから、周辺の地理に疎くてさ、本当に助かった」
「……ど、どういたしまして?」
自己紹介のときよりも、幾分かでも優しく見えるように、口角を少しだけ上げた。
彼女の〝穴〟が嬉しそうに動いている。表層がむず痒そうに波打っている。たぶん、照れているのだろう。
「……それと、受けとる側によっては誤解されそうなことを言うけど、私、別に沈黙は嫌いじゃないよ」
彼女は少しぽかんとしている。けど、私は構わずたたみかける。
「それと、今日が初対面だし、なにを話せばいいかわからないよね。だから、話すことがなくなって気まずいなって思ったら、話題が無くなっちゃったって言ってよ。そしたらそれでいいからさ。別に気まずく感じる必要はないよ。無理をする必要もない。私も口下手だし、話題もあんまりだせないからさ」
できるだけ優しそうに、責めてないよと言うように、ゆっくりゆっくり微笑んで、彼女のことを見つめる。
彼女の心は、揺れていなかった。〝穴〟も、表層も。きっと今ごろ、心の中でいろいろ考えているのだろう。私はじっくりと答えが出るのを待つ。
「山内さんって、なんだかお母さんよりもお母さんっぽい」
やがて、彼女はそう言って笑った。心は揺れていない。だいぶ本音で話せるようになったようだ。が、次の瞬間にはわたわたと心が動きだした。
「え、えと、その、お母さんっていうのは、その、あの……うぅ……」
彼女は必死になにかを探してわたわたしている。きっと、私がお母さんっぽいと言われ、傷ついていないかが気になっているのだろう。
その動きが、心と全く同じ動きをしていて、思わずふっと笑ってしまった。私の心が楽しげに揺れる。しかし、心が動くのはなんだか嫌なので、すぐに落ち着けるが。
「いいよ、気にしてない。悪気がなかったのは様子を見ていればわかるから。それより、その調子だよ。思っていることは全部口にしなよ。少なくとも私のまえではさ。学校でも言ったと思うけど、私はなんとなく他の人が無理してるのがわかるんだ」
今までの空気が軽くなっていく気がする。と、そのとき料理を持って女性の店員さんがやってきた。
「君、紗希ちゃんのお友達? 仲良くしてあげてね、紗希ちゃん友達少ないからさ。これ、私からのサービス」
「も、もう! やめてくださいよ! 特に友達少ないとか言うの!」
「あはは、だって事実じゃん」
ふたりは少々騒がしく喧嘩らしきものをした。らしきもの、というのは心の動きが、全く不快感を表していなかったから。どころか、穏やかに揺れていたのだ。きっと、いつもこのようなやりとりをしていて、この距離感が心地良いと感じているためだろう。
「もう、友達少ないとか、ひどくない?」
さっきの店員さんが帰ったあとも、そんなふうに彼女は言っていたが、その顔はどこか楽しそうだった。
「まあ友達のことは置いておいて、冷めないうちに食べちゃおうか」
「うん」
テーブルを見ると、彼女がおすすめしてくれたカルボナーラと彼女の頼んだスパゲッティ、店員さんがサービスしてくれたコーヒーゼリーがふたつ並んでいた。どれもこれも美味しそうな匂いをしている。
私の前に置かれたカルボナーラは、とても濃厚そうなクリームソースの匂いを発している。そして、その中に入っているベーコンは分厚く切ってある。これはポイントが高い。真ん中に落とされた黄身は、店の照明を受けてキラキラと輝いていて、食欲を刺激する。
「いただきます」
しっかりと両手を合わせて挨拶をしたあと、スプーンとフォークを持ち、まずはそのまま。ソースを滴らせるそれを口に運ぶと、想像以上の濃厚なクリームソースの匂いが鼻を突き抜ける。思わずがっつきたくなるのをこらえ、今度はベーコンと一緒に。今度はベーコンの塩気がいいアクセントとなり、思わず頬が緩みそうになる。最後は、黄身を崩して、絡めて一口。もちろんベーコンも忘れない。濃厚な黄身の味と、クリームソースの匂い、そしてベーコンの塩気が口の中で踊っている。
今度は頬が緩んだ。ちなみに心の方はすっかりとろけきっている。いつもは心が動かないようにしているが、食事中だけは別だ。だってご飯は精一杯楽しまなきゃ損じゃないか。
「あぁ~……幸せ……」
思わず声まで出た。それほどカルボナーラはおいしかった。
「山内さんって、意外と食いしん坊だったんだね」
向山さんはくすくすと笑っている。それに対し、否定はしない。だってその通りだから。
「よかったら、スパゲッティも一口食べる?」
「食べる」
「そ、即答……」
向山さんは苦笑いだ。でも仕方ない。だって料理をくれると言うのだから。これは食べると即答するしかないだろう。
彼女は私の方に皿を渡してきた。私はそれをクルクルと巻き取り、口に運ぶ。瞬間、溢れるトマトの香り。それと同時に玉ねぎの甘味も。玉ねぎの食感はシャキシャキ過ぎず、トロトロ過ぎず、とてもちょうどいい固さになっていた。一緒に口に入ったウィンナーを噛むと、パリッと皮の弾ける感触。次いで溢れる肉汁の旨味。
「はわぁ~……」
思わず変な声が出るほど、それらはベストマッチしていた。
感動しながら(主に私)それぞれの料理を完食すると、次は店員さんがサービスしてくれたコーヒーゼリーに手を伸ばす。
上にクリームをのせたそれは、これまた照明に照らされキラキラと輝いている。食べるのがもったいないと思いつつ、手は止まらない。クリームと、コーヒーゼリーをちょうどいい割合ですくい、口元へ。そしてぱくっと一口。微かに感じるコーヒーの苦味と、それを打ち消してあまりあるクリームの甘さ、そしてそれに負けないコーヒーの香り。軽く口の中がお祭り騒ぎである。
「あま~い……」
だから幸せそうな声がでるのは仕方のないことだろう。テーブルの向こうで向山さんも苦笑いだ。しかしどこか嬉しそうにもしている。
その後しばし食後の会話を楽しみ、今日は解散することになった。
そういえば値段を確認していなかったとレジに向かう前にレシートを確認する。
カルボナーラ 1個 900円
スパゲッティ 1個 900円
コーヒーゼリー 2個 400円
うん。悪くない。むしろあの味ならもう少し高くても……高くても……高くても…………いい、かな?
まあいいや。
「レジ、行こうか」
「そうだね」
私たちはしっかりとお金を払い、店を出た。もちろん、ごちそうさまでした、また来ますと言うのも忘れない。
「今日はありがとう。いいお店を教えてもらって」
店を出ながら、そう言った。
「いいっていいって。……あ、でも良さそうな店を見つけたら教えてね」
向山さんはそう言った。
……ふと思えば、向山さんとは今日一日でずいぶんと仲良くなれたものだ。
感慨に耽りながら、彼女から目を反らし、頬笑む。心が心地良く揺れる。
「また、月曜日に」
「うん」
しかし、彼女と別れる前に心を落ち着け、いつも通りの無表情になり、さよならをする。
彼女と別れた少し後、温かいような胸の高鳴りはなかなかおさまらなかった。
読んでいただき、ありがとうございました。
できるだけ早く次話を投稿する予定ですが、もしかしたらかなり遅れることもあるかもしれません。気長に待っていてください。
誤字脱字報告、感想大歓迎です。ビシバシきてください。