水槽
何故、浮気をするのかと訊いてみた。
「俺は俺のことが好きな人が好きだから、好意を向けられるとつい絆されちゃうんだよねえ」
何故、私を手放さないのかと訊いてみた。
「ちづが一番俺のことを必要としてくれるからだよ」
何故、浮気をしてはいけないのかと訊かれた。少し迷って、寝るときに一人だと寂しいからだと答えた。
「あーそっか、ちづは寂しがりだもんなあ。じゃあ遅い日もあるかもしれないけど、夜は絶対に帰ってくるようにするね」
私の疑問と不安はこれで全て解決だろうとでも言うように、彼は私を抱き寄せて間もなく寝入った。
穏やかな寝息が耳に届いたあたりで私はぎゅっと目を閉じる。
どこよりも安心できたはずの、誰よりも愛しいはずの彼の胸の中で、私は一人、ここからの逃げ方を考えていた。
優秀な姉と手のかかる弟に挟まれた私は、三人の中ではどうしてもぱっとしないせいで、両親との距離を感じていた。
あからさまな差別はされていない。ただ、彼らが褒める対象は姉、叱る対象は弟で、私はいつも可もなく不可もなく、といった対応をされていた。
叱られるような問題を起こすこともなければ、褒め称えられるような功績もあげていない、中途半端な存在。
優等生か問題児、どちらか一方に傾いてみようかと思っても、中途半端な努力しかできない私では勉強の成果は思うように出ず、また中途半端な正義感と罪悪感に苛まれて学校のガラス一枚割ることもできなかった。
姉に期待を奪われ、弟に心配を奪われ、そんな私に両親は僅かでも関心を持ってくれていたんだろうか。
関心を持たれていなかったとしたらとても悲しい。私には目を向ける価値すらないと言われているみたいだから。
関心を持たれていたとしたらとても怖い。私に価値なんてものがないのがばれてしまうから。
人に愛されたい。けれど、人に嫌われたくないから近付きたくない。
そんな面倒な感情を抱いて一人ふらふらとしていた私を掴まえたのが彼、ユウヒだ。
姉より数段低いランクの大学に入学した私は、数ヵ月経っても一人で行動していた。親しい相手を作るのが怖かったからだ。
高校までの知り合いの連絡先は全て消した。それなりに親しい友人もいたが、彼女たちのものも含めて全て削除し、アドレスや番号も変えた。同じ大学の人はいない。どうせ切れてしまう関わりなら、先にこちらから切っても同じだろうと思った。
姉は多くの人に慕われている。弟は多くの人と笑い合っている。私には、彼らのようにできない。
自分だけで考えて組んだ時間割を淡々とこなしていると、ある日、一人の先輩に声をかけられた。ユウヒと名乗ったどこか軽薄な雰囲気の彼から数日後に告白され、私は人生初の恋人を得た。
人間関係においてあまりに臆病な私では恋人同士の付き合いなんて無理だろうと思っていたが、予想外にそれは続き、彼と付き合い始めてもう二年に及ぶ。
また、無理だと思っていた理由はもう一つ、ユウヒの性格である。彼は良く言えば博愛主義者、悪く言えば女好きの遊び人だ。彼はいつも求められれば断ることはなく、私に悪びれず別の女性の香りを纏って帰ってくる。
そんな彼ならすぐに別れることになるだろうと考えていたのだが、毎夜毎夜どれだけ遊びまわろうとも、彼女という立ち位置だけは私のもののままなのだ。
俺のハニーはちづだけだよ、と軽く言われたので、普段遊んでる人たちは何なのかと訊いてみれば、『一晩限定ハニーちゃん』とやはり軽く答えられた。何故彼に抱かれたがる人が尽きないのか、本気で不思議に思った。
しかし浮気性な彼に私が嫌気をさすかといわれれば、またそんなこともないのだ。
愛されたいけれど、嫌われたくないからずっと傍にはいたくない、という臆病な寂しがりの私にとって、彼の恋人という立ち位置は都合が良かった。
彼の用意してくれた水槽でふよふよとのんびり泳ぎ、定期的に与えてくれる餌に食いついていればいいのだ。私の世界はあくまで小さなもので、その外で飼い主が何をしていても構わない。楽なものだと思った。
でも最近、少しの息苦しさを感じる。水槽はきちんと心地よいまでに生温い水に満たされているのに、彼は餌という名の愛を欠かしたことはないのに、それなのに、ここではないどこかを求めてしまう。他に行く場所なんて、どこにもないくせに。
同じ布団に包まれる彼に、ぎゅうと抱きついてみた。彼は目を覚まさないまま私の背にまわしていた腕で優しく抱き締めてくれた。きっとどの女性に対しても同じように抱き締めてあげるんだろう。
私はこの、対象を選ばない無条件な愛情に安心していたはずなのに。どうして胸が痛むんだろう。
彼の髪からは女性もののシャンプーの匂いがした。
一年前から彼の家に住まわせてもらっている私は、特に強制されたわけではないが家事の多くを請け負っている。この家にいていい理由が欲しかったのだ。ユウヒもそれを理解してか、任せてくれている。
朝起きたら彼はいなかった。冷蔵庫に貼った二枚の時間割表のうち、彼のものを見てみれば一限に授業が入っていたから、早くに家を出たのだろう。いつもなら彼に合わせて起きて朝食を用意していたのだけれど、すっかり失念していた。昨夜はなかなか寝付けなかったからそのせいでもあるかもしれない。
キッチンに向かえば、彼が自分で朝食を作り片付けまで済ませた跡が見つかり、つい口を引き結んだ。私の存在の必要性について考える度、鼓動が早くなって指先が冷える気がする。誤魔化すように冷蔵庫を開け、自分の食事について思考を巡らせた。
一枚だけ残っていた食パンにハムやチーズを乗せて焼いたものを齧りながら、窓を開けてベランダに出た。パクパクリ、口を開けて息継ぎをしてみたけれど、やはりほんのりとした苦しさは消えない。
週末が締め切りの課題について考えてみて、息がしやすくなった。そうだ、授業は午後からだけど、今日は早く学校に行って資料を探すために図書館に行こう。
使った皿とコップを手早く片付けた。すべきことを決めると心が楽になる。簡単に掃除を済ませ、家を出た。
忘れず施錠しながら、合い鍵につけられたストラップを見つめる。彼は遊び人だけど、この家には連れ込まない。だから合い鍵を持っているのは私だけらしい。
その事実を認識することで、私の立ち位置はちゃんとまだ彼の恋人のままだというのを確かめる。
うさぎのストラップは彼とお揃いで買った。ちづは寂しがりだからうさぎな、と笑いながら渡され、なら彼は何にするのかと思えば、実家で飼ってるから、と柴犬を選んでいた。
本当はうさぎの隣の隣にあった金魚のストラップがよかった。言えなかったし、今後も言うつもりはないけれど。
「ね、ユウヒ、今夜飲もうよ」
「おー、どういう面子?」
「あたしと二人」
あからさまな現場にしっかり居合わせてしまった私は、そそくさと足を速めて立ち去った。彼はきっとその下心の含まれた誘いに快く応じ、今夜は彼女を満足させるまで付き合うのだろう。夜は帰ってくると約束をしてくれたが、彼女が離さないんじゃないだろうか。
学生課の掲示板を見に来ていた私に彼は気がつくことなく、しかしあの彼女は恐らく気がついていた。二人、と告げるときに私の方を見て笑っていた。
わかりやすく見せつけてくれなくても、ちゃんと理解しているのに。彼は私だけのものにならない。
いっそ誰か一人が、徹底的に彼を惹き付けて自分だけのものにしてくれたなら、拍手をして感心してしまうのに。そんな日は来ないだろうと考えながら結論付けた。
あそこまで好意について寛容な人は見たことがない。八方美人な姉はそれでも嫌いな人はいたし、弟は嫌いな人だらけだった。
人を拒否できないのは、長所なのか、短所なのか。わからない。短所であるとは思えないが、長所であると認めたくない自分がいる。
もうすぐ私のスマートフォンに彼から帰りが遅くなるといった旨のメッセージが届くことだろう。ポケットに入れていたそれを鞄の奥に押し込んだ。
ああ、息継ぎがうまくできない。
電源を消そうとテレビのリモコンに指を乗せた瞬間、玄関のドアの開く音がした。舌打ちをしたくなる。
先にベッドに入って寝たふりさえしてしまえば、彼と顔を合わせる必要なんてなかったのに。
「ちづーちーづー千鶴~、ただいまあ」
「……おかえり」
ご機嫌に浮かれた声が近づいてきて、眉を顰めたくなった。酒には強くないくせに、随分と飲んできたようだ。
ふにゃふにゃと赤らんだ顔で笑いながら、彼は冷蔵庫から水を出して飲んでいる。同時にもぞもぞとジャケットを脱ごうと動いているが、うまく脱げないらしい。自然と立ち上がり、上半身だけじたばたしていた彼を手伝った。
「へへ、ありがとー」
「ん。飲んできたんだね」
「うん、友達の家でねー」
ああ、その友達に心当たりがあるなあ。勝ち誇るような美しい笑みを脳裏に浮かばせながら、脱がせたジャケットをハンガーにかけた。
「ちづーすきー。ぎゅー」
「わ、」
言葉通りぎゅーと抱き締められ、彼の腕の中で縮こまる。大人しく捕まる私に彼はだらしなく笑うと、髪にすり寄ってきた。
「いいにおいする」
「……ユウヒはくさい」
「えーひどーい」
本当に酷い匂いだ。酒の匂いと、女の人の匂い。
彼の匂いが思い出せない。
「ちづ、デートしよっか」
「なんで?」
「えー、なんでって……、付き合ってるから?」
休日の朝、ふわふわした会話の後に、のんびりと都内の水族館に行った。
凄い。今時の水族館、凄い。
イルミネーションがきらきらと空間を彩り、液晶ディスプレイまでも使われた水槽には魚の名前と生態がタップする度に浮かび上がる。現代的だ……。くらげゾーンなんかあまりに幻想的過ぎて頭がぽわぽわした。
すっかり夢中になった私は何度もユウヒを置いていきそうになったが、その都度彼が苦笑いしながら手を捕まえてくれた。画面に触れるために何度もその手を離すのも私なのだけども。
「ユウヒ、ユウヒ、水族館凄いね」
「だよねえ。俺も少し前に友達と来てびびったわ。金かけてる感じするよねー」
ユウヒがカニの水槽を見て「美味そうだな」と呟いていたが、なんとなく返事はできなかった。少し前に来たばかりの場所、選ばなくてもいいのに。
イルカショーは席が取れず、後ろからどうにか覗いた。そこでも照明がきらびやかに水を映し出していて、跳び跳ねるイルカたちを美しく飾っていた。私がプールから片時も目を離せない様子を、横で彼が笑っていた。
「ちづ可愛い」
「イルカの方が可愛い」
「ちづもぴょんぴょん跳んだら可愛いだろうなあ」
「意味わかんない」
私の心の内にやや不安定なところがありつつも、彼との付き合いは続いている。彼の素行は変わらない。そこに安堵と不安が生じるのも変わらない。
今日は私の誕生日だった。彼は互いの誕生日とクリスマスを一緒に過ごすのだけは譲らない。彼の中の恋人ルールなのかもしれない。
だから今朝もしつこいくらいにおめでとうを言ってくれて、夜にはご馳走とその他を楽しみにしとけよ、なんて自分でハードルを上げながら先に登校する私を見送ってくれた。
『ごめん! 本当にごめん! どうしても外せない用事ができた。夜遅くなるかも。お祝いは明日にしよ』
メッセージが届いたのは昼休みだ。ずしりと体が重たくなるのを感じた。あれだけ楽しみにしておけって言ったのに。
『了解』
彼の用事が何かはわからない。しかし、彼は学校関連、家族関連、バイト関連については訊かずとも詳細に教えてくれる。友達とか、用事とか、ふわっとした言い方をするときは大抵そういう案件なのだ。
ぼんやり見ていたスマートフォンの画面に通知が表示され、彼からの返信かと思ったら家族からだった。
『おたおめ』
弟だ。家族の中で一番荒れていてつんつんした態度の弟だが、毎年お祝いしてくれるのが一番早いのも弟だったりする。
家族なのに皆苦手だが、家族だから皆嫌いじゃない。
『ありがとう』
送信を押して、それから俯いた。口元が緩んでしまったのを隠すため。
彼の一晩限定ハニーちゃんになって、彼に本気になる人は少なくない。本物ハニーの私を疎ましく思う人も。
嫌な言葉を投げつけられたことは幾度となくあるし、すれ違いざまに乱暴にぶつかる相手が多いのは気のせいではないだろう。前方不注意者が多い、なんてとぼけてはいられない。
しかし明確に個人に呼び出され、暴力をぶつけられるのは初めてだった。
顔は殴るな、腹を狙え、なんて、ありきたりな展開。服に隠れる場所ばかり殴られ蹴られ、私が動けるようになったのはもう窓の外がすっかり暗くなってからだった。
校舎の隅の教室を出て、よろよろと歩き出す。存外しっかり歩けるものだ、と笑ってしまった。あの教室にいたのが全員女性だったからこの程度で済んだのだろう。
これなら家まで帰れるだろう。いっそのこと歩けないほどにボロボロになったのなら、生まれて初めての救急車体験とかしてみたかったのに。
ゆっくりとした足取りで家に向かう。家。彼の家に、帰らないと。
彼は、いないのに?
大学を出てすぐ、足が止まってしまった。体が痛い。それでも、歩けるはずなのに。動けない。
スマートフォンを取り出した。家族以外で唯一登録された番号。
『はいはーいもしもしぃ』
「……」
ユウヒの声じゃない。女の子の、鼻にかかったような可愛らしい声。
『あれ? 聞こえてるー?』
『あ、おい勝手に出んなよ』
『ユウヒー、チヅルって誰ー?』
『彼女! ほら返して、あ、もしもし? ごめんちづ』
親しげな会話の後に、ようやく聞き慣れたユウヒの声がはっきりと耳に伝わる。
「あ、の、ユウヒ、」
『あー、っと、ごめんなちづ。ほら、用事あるっつったじゃん? 今忙しいからまた後で!』
電話はあっさりと切られた。あの可愛い声の女の子でもなく、彼の手で切られた。
でも、彼に電話して、私は何が言いたかったんだろう。
あなたのせいで殴られた。だから?
謝ってほしかったのか、あの彼女たちに対して怒ってほしかったのか、それとも、彼に私を手放してほしかったのか。
考えてもわからず、彼が電話を切ってくれたことにほっとした。
痛い。痛い。痛い。
大学を出たばかりのところまでは、普通に歩けていたのに、段々と一歩歩くだけで全身に痛みがはしるようになってきた。
あと少し、あと少し、と心の中で呟きながら、どうにか彼のマンションまで辿り着いた。
部屋の鍵が開いていて、え、と声が出た。彼が帰っているのだろうか。私の歩みが遅すぎたせいで、先程電話した時間から暫く経つ。用事とやらを終えて帰宅しているのかもしれない。
もたもたと靴を脱ごうとして、部屋の奥から近づいてくる軽い足音にびくりと肩を震わせる。ああ、彼じゃない。
「ユウヒー? もう帰ってくんの遅いー、っとっと、じゃないっすね。えーっと、……どちらさま?」
また、知らない女の人だ。彼は何人に手を出せば気が済むのだろうか。
靴がないから、この部屋に今ユウヒはいない。きっとまだ電話に出た可愛い声の女の子と一緒なのだろう。それなのにこの彼女が部屋の中にいるということは、鍵を使って入ったということ。
私は、一応恋人だから、唯一の合い鍵を持っていた。でも彼女も鍵を持っている。それは、つまり。つまり?
なんだかくらくらしてきた。精神的なものなのか、肉体的なものなのかわからないけれど、もう、無理だ。
「これユウヒに渡しておいてください」
うさぎ付きの鍵を目の前のきょとんとした彼女に渡して、そのまま踵を返した。靴を脱ぎ終えていなくてよかった。彼女の前で呑気に靴を履き直してなんていられなかったから。
ふらふらとマンションの廊下を歩いて、一瞬悩んで、私は階段を上った。
ユウヒの部屋は三階にある。四階に上がるのは初めてだ。
表札の出ていない、一番端の部屋の前で立ち止まる。部屋番号を何度も確認して、インターホンを押した。
「……はーい」
低い声と同時、ドアが開いて、目が合った瞬間ふにゃりと力が抜けた。慌てながらもしっかり受け止めてくれて、その温かさに安心して完全に意識を失った。
目が覚めたら知らない男の人に抱き締められていた。
嘘だ。知ってる人だった。
二歳年下の弟。よくよく見知った、手のかかる暴れ馬みたいな弟だった。
あまり顔を合わせないうちにこんなに身長が伸びていたのか。肩幅もしっかりしていて、父よりよっぽど立派な体格をしている。
凄いなあ、と肩をぽすぽすと触っていると、彼の目が薄く開いた。
「ん……、あ? なんで俺ちーちゃん抱っこしてんの」
「私も今それを訊こうと思っていた」
お互い寝ぼけ眼で見つめ合う。とりあえず起きようと結論を出して彼の腕からもそもそと這い出て伸びをした。
「っいっだあ……!」
「え? ああ、そうだ、ちーちゃん、腹とか太ももとかやばいアザできてるよな。喧嘩? 俺がやり返すか?」
「……なんで腹とか太もも見てんの……?」
「着替えさせてやったんだよばか」
油断して全力で伸びをしたせいで引き攣るような痛みに燃える腹部を押さえながら、自分の格好を見下ろした。彼のTシャツと短パンに着替えさせられている。意識のない間に手厚いもてなしをしてくれていたようだ。
彼が私とは違う学校ではあるがこの近くの大学に進学し、ユウヒと同じマンションに住んでいることは知っていた。しかしあまり積極的に接触しようとは思っていなかったのだが、昨夜は緊急事態なので駆け込み寺のごとく駆け込ませてもらったのだ。便利な位置に住んでいてくれてありがとう。
「てかベッドないんだね」
「俺寝相悪いから床のが安全だろ」
そして床に敷いた布団ワンセットに強引に二人で寝ようとしたから彼は私を抱っこしていた、というわけか。
「んいいいいだだだだだだ」
「うっわーすげえ色してる。これ病院行った方がいいんじゃないの? あと俺やり返してくっから相手の顔と名前教えろ」
「だだだだだ……ううー……病院、もやり返しもいいよ別に……」
「泣き寝入りかよ情けねえな」
弟に湿布を貼ってもらいながら、枕に悲鳴を閉じ込める。寝起きにはあまり感じなかったのだが、覚醒すると途端に痛みが舞い踊る。微動だにしたくない。
「……そういえばちーちゃん今、彼氏の家に住んでるんだったな」
「ん? うん」
「まさかこの怪我、その彼氏が……?」
弟の目が怒りに燃え出した。相変わらず情に熱い子だ。
「違う違う。これはその彼氏が遊んではポイした子達からの逆襲」
「はあ!?」
湿布の入っていた空箱がぐしゃっと握り潰された。
そして肩をぐっと掴まれた。肩をぐしゃっとされないことを祈る。
「なに、ちーちゃんそんなくそみたいな奴と付き合ってんの? そんな奴と住むために実家出たの?」
「ま、まあ、うん」
「そんなくそのために俺とねーちゃんは毎晩ちーちゃんを思って泣いたっつーのかよ!」
「泣いたの!?」
ねーちゃん、とは我が家の長女である姉のことだ。八方美人の優等生。
姉は自分達が両親の関心を奪ったことについて認識していて、その分私のことを可愛がってくれている。弟は完全に思うがままに行動しているのだが、なんだか憎さ余って最近可愛く見えてきたところだ。
家を出ることについて両親が特に何も言わなかったからあっさりとユウヒの家に住み着いていたのだが、まさか姉と弟が惜しんでくれていたとは。姉に前に会ったときもそんな様子はなかったはずだけど。
「ちーちゃん、そんなくそとは別れろ。俺んち住んでいいから! 布団買うから!」
「ええ……」
「そういえばここの下の階に顔のいい男がいるんだけどさ、駅前とかで見かけるといっつも違う女連れてんだよな。ちーちゃんの彼氏もそういう奴だろ? むかつくイケメン」
「……」
や、その人ですね。
熱が出た。
「こんだけ殴られりゃなあ。あ、プリンとヨーグルト買ってきた。どっち食う?」
「あんにんどうふ……」
「なんで杏仁買ってきたのばれてんだよ。俺が食おうと思ってたのに」
ぶつぶつと口を尖らせ文句を言いながらも、弟は蓋を開けた杏仁豆腐とスプーンを渡してくれた。ありがたく受け取ってゆっくりとした動作でしっかり完食。
水分をとって、それからとにかく寝た。
弟の布団は実家の匂いがして、でもやっぱり主に弟の匂いがして、なんだか落ち着く。夜は弟が図々しくも病人の布団に潜り込んできて、朝になるとやっぱり抱っこされていた。弟の誕生日に布団一式と抱き枕、どちらをあげようか悩むところだ。
「熱は下がったっぽいな」
「うん」
「でも怪我は痛いんだな」
「うん」
大楊に頷いて、授業をどうしようか悩む。昨日も休んでしまった。友人がいない私としてはこれ以上の欠席は避けたい。
でも。殴られた記憶が痛みと一緒に私を襲う。大勢の人間の、蔑んだような、恨みのこもった目が、私を、見下ろして。
「ちーちゃん?」
「……怖いよユウくん」
呟くと、弟──優河が困ったように眉を垂らし、アザに触れないように優しく抱き締めてくれた。
ユウヒと違う温度、違う匂い。ユウくんは私と似た体温をしていて、実家のユウくんの部屋の匂いだけがする。
人から受ける暴力がこんなに怖いと思っていなかった。人から向けられる敵意がこんなに痛いと思っていなかった。
事情を知らないはずのユウくんは私の支離滅裂な泣き言を全部受け入れて、こっそりもう一個買っていた杏仁豆腐を譲ってくれた。
「ちーちゃん、買い物行こうぜ」
「なんで?」
「ちーちゃんの誕プレ、丁度買いに行こうと思ってたんだ」
「ユウくんは授業は」
「よし、駅前のショッピングセンターでいいよな!」
姉弟揃って自主休講なのである。
歩いてもそう遠くない距離だが、ユウくんは私の体を気遣ってバスを使ってくれた。ありがたい。
一人で必要必需品を淡々と入手する買い物とは違って、雑談しながら適当に気になるものを見て回るのは楽しい。
ユウくんは雑貨屋でピアスを買ってくれた。
「ありがとユウくん」
「俺の誕生日もよろしくな」
「うん。布団と抱き枕どっちがいい?」
「なんで?」
去年は考えることを放棄して商品券とか図書カードとかを贈って残念がられた気がするので、今年はしっかり贈ろうと気合いをいれたら怪訝な顔をされた。寝具はだめか。
この年頃の男の子には何をあげたらいいのやら。ユウヒには何をあげたっけ?
と、ここで思い出した。ユウヒに連絡していない。
青ざめながらスマートフォンを取り出したら、充電が切れていた。それはそうか。何時間放置したかわからない。
「どうした?」
「えあや、あのあの、彼氏に連絡してない!」
「は? いらねえだろ、んなもん」
ユウくんがむすっとして顔を顰めた。モバイルバッテリーを持っていることを思い出して鞄の底から引っ張り出す。モバイルバッテリーの充電がなかったらどうしようかと思ったが、それは問題なかったのでとにかく急いで電源をいれる。
不在着信47件。
「ふひぇ」
変な声が出た。
インターホンを押した。ピンポーンと軽やかな呼び出し音。私の心は全然軽やかじゃないのに。
衝動のままに鍵を放棄するんじゃなかった。私の荷物は全てこの家にあるんだった。昨日弟に買ってきてもらったコンビニのパンツを履いているときも全力で悔やんだ。
つまりはユウヒとこのまま自然消滅を狙うなんてできなかったのだ。いや、流石にそんなやり方は狙っていなかったけど。
「……ちづ」
「お、おはよう」
上がって、と固い声に促されて玄関で靴を脱いだ。あの日はなかなか脱げなかった靴は今日に限ってするんと脱げた。
「どこに泊まってたの?」
ここの上の階です。
家出先がなんとなく恥ずかしくて答えることを躊躇っていたら、何かに気がついたユウヒが目を瞠った。
「何、そのピアス」
ゆっくりと伸びてきた彼の指が、ユウくんが買って着けてくれたピアスを撫でた。温度のない彼の声に思わず後ずさりそうになる私の腕を、彼が掴んで引き止める。
「これ、は、誕生日プレゼント、に」
「その人に祝ってもらったんだ? 誰? 女友達じゃないよね。ちづには友達いないもんね」
確かにそうなんだけども、急に抉りにくるのやめてほしい。
「俺が他の女抱いてるから、やり返したの? 俺を怒らせたかった? 悲しませたかった? よかったね、俺はちゃんと怒ってるし悲しんでるよ」
「う、え、……?」
いつものふにゃんとした雰囲気はどこへやら、低い声が紡ぐ言葉の意味を理解しようとしているうちに、掴まれた腕ごと体を壁に押し付けられた。
「いっ……!」
背中やお腹の傷に衝撃が伝わり、苦痛に息を詰めた。涙すら滲みそうな私に、彼は気がつかない。
「ちづには俺しかいないんだろ? 俺以外の奴んところに行こうとしてんじゃねえよ」
「ゆ、ひ……?」
痛みに耐えるため、浅くなる呼吸。彼に掴まれたままの腕に力を込めるも、ほどけそうになかった。
「俺がちづ以外の奴んところに行ったから嫌だった?」
「それ、は、べつに、いつもどおり、だけど」
至近距離で目を覗き込まれ、彼の異様な様子に視線が泳いだ。
「嫌じゃないの? なんでちづは嫌だって言ってくれないの? ちづは本当に俺が必要なの?」
矢継ぎ早に繰り出される質問について考えることはできなかった。ただひたすらに、ここから逃げ出したいと思った。
「なあ答えろよちづ!!」
「ひっ!」
暴力的な声に、頭を抱えてしゃがみこんだ。掴まれていた腕は解放されていて、がくがくと震えながら「ごめんなさい」と呟いた。
過去の痛みが、今の痛みが、過去の恐怖が、今の恐怖が私を苛んだ。
もう無理だ。息が、できない。
この水槽は、もう私の居場所じゃない。
必死になって床を這いずり、玄関に向かった。
「ゆ、う、……っは、ゆ、く」
「ちづ……?」
ぐっと唾と息を飲み込んで、立ち上がった。靴に爪先を突っ込んで、ドアの外に飛び出る。
「ユウくん!」
四階に上がる階段の側で待っていてくれたユウくんに飛び付いた。
「ちーちゃん」
「ユウくんユウくんユウくん……!」
パニックのままユウくんの胸に縋りつく。姉の威厳はもうこれで塵となっただろうが、そんな元からあったかどうかわからないもの、どうでもいい。
「誰だよそいつ」
背後から聞こえる怒りのこもった声から逃げられるならば、一生優河様と呼んでも構わない。
ユウくんは察しのいい子なので、当然私の怪我の原因であるくそみたいな彼氏がこの目の前の彼で、さらにこの彼はいつも違う女を連れているむかつくイケメンだ、と気がつき、ガルガルと威嚇をする大型犬みたいな目付きになった。
体格のいいユウくんに睨まれて細身のユウヒは一瞬怯んだが、しかし引くことはしないようだ。
「あんたがちづの浮気相手? 随分ごついの選んだんだな、ちづ」
「……え」
浮気相手? 私、浮気したの?
「ユウくん、って何? 俺への当て付けに名前で選んだ?」
私はユウくんが生まれた瞬間からユウくんをユウくんと呼んでます。
「ガタガタうるせんだよ。お前のせいでちーちゃんが傷ついたんだろ? ぼこらせろや」
私に対するときの何倍も低い声でユウくんが喋るものだから、びくびくしながらユウくんの腕にしがみついた。喧嘩のときのユウくんって、お父さんに怒鳴ってるときよりも全然怖いじゃないか。
怖がった私に気がついたユウくんが目元の鋭さをやや緩め、しがみつく私の頭をぽんぽんと撫で叩いた。
ユウくんはあちこちにガルガルと威嚇してガブガブと噛みつくのに忙しそうなくせに、私が悲しかったり辛かったりしたときにすぐに気がついてくれるから不思議だ。私がしょんぼりしてるとすぐさま隣にやってきて寄り添ってくれる。
両親はそういったユウくんの優しさに気がつかず叱りつけてばかりいたが、私はこれのせいでこの子を憎めないのだ。憎めないところが憎い……。でも上の姉と違って出来の悪い自分を可愛い弟に見せたくなくていつも逃げていた。情けないばかりだ。
「傷ついた、って何の話?」
「てめえが手ぇつけた女どもからリンチうけたんだよ」
一人反省会をしている間にリンチ事件をばらされた。顔色を変えたユウヒに凝視されるが、目を合わせられない。条件反射だ。彼に感じてしまった恐怖が、消えないのだ。
「そ、れは、いつ」
「ちーちゃんの誕生日だ。最悪のプレゼントをありがとうな」
ユウヒは察しのいい男なので、嫌味っぽく話すユウくんの言葉から、あの日の私の電話について思い当たったのだろう。怒りはすっかり引っ込み、泣きそうなまでに顔を歪めた。
電話のときにいた声の可愛い女の子は高校の同級生で、どうしても、と懇願されて会いに行った。ちなみに流石にあの日は体の関係はない。
ユウヒの家にいた人は元カノで、家からユウヒの持ち物が出てきたからついでに返し忘れていた合い鍵と一緒に渡しにきていたそうだ。
ユウヒがもごもごと言葉を連ねていたがつまりはそういうことだったらしい。
ただ、高校の同級生さんの様子を聞く限り、なんとなくあのリンチに関係ありそうな気がして仕方ない。強引な呼び出しと、そのタイミング、無理に呼び出した割に大した用もなかったそうで。
まあ、ただの予想だからわからないけど。
「ごめ、ごめんなさい。もう他に手は出さないから、ちづだけを大事にするから、もう傷つけないから、だから別れたくない」
いつ捨てられてもおかしくないと当初から考えていたはずの私は、ユウヒに半泣きで縋られた。
「お願いちづ、千鶴、もう俺のこと好きじゃないかもしれないけど、俺なんて憎いかもしれないけど、でも俺ちづがいないと無理、」
「ええと」
「やだ、やだ絶対に別れない。俺、ちづだけがずっと一番好きだから、だから、そいつと別れて、ちづ、」
「ええと!?」
そいつさんに目で助けを求めたらふんぞり返ってユウヒを鼻で笑っていた。ふてぶてしい顔をしている。多分今この瞬間、日本で四番目か五番目くらいにふてぶてしい顔をしているに違いない。
「はっ、ちーちゃんの怪我の治療費だけ払ってどっか消えろ。ちーちゃんには俺がいればいんだよ」
治療費といっても、実家から持ち込んだと思われる使用期限の切れた湿布しか使っていないでしょうが。
ユウくんは弟、と伝えようとしたら察したユウくんに口を塞がれた。ユウくんはユウヒの勘違いを訂正させる気がないようだ。
ユウヒが私に縋って、私がユウくんに縋る、ユウくんを頂点とした謎の膠着状態は、鳴り響く着信音が壊した。しかし電話の持ち主はなかなか出ようとしない。
「……電話鳴ってるけど、ユウヒ」
「あ、うん……」
スマートフォンを出して画面を見つめるユウヒの表情は気まずそうだった。どうせ、友達とやらだろう。普通に出ればいいのに。
彼の視線が私から完全に外れたことで、私も恐怖が和らいできた。彼が「ちょっと待ってて」と告げて少し離れたところに移動するのを見送る。
「ちーちゃん、布団でも買いに行こうか」
「うーん……やっぱり一組だと厳しいよね」
「朝起きてちーちゃん潰してたら怖いし」
「それは私も怖い。でも昔より寝相よくなってる気がするけど」
姉に『舞い狂ってるのかしら』と評されたユウくんの寝相は随分と改善されているように思える。ちなみに姉の寝相はユウくんに『踊り狂ってんのか』と評されていた。
「気ぃ張ってんだよ。……ああでも、ちーちゃん抱き締めて寝るのも好きだからやっぱり一組でいいか」
急にわざとらしい口調でシスコンまっしぐらなことを言い出したユウくんを見上げ、首を傾げる。しっかりした体格のユウくんに抱き締められて寝るのも安心感があって私も好き、とブラコンまっしぐらなことを思いながらユウくんの視線の先を辿るとユウヒが立ち竦んでいた。
いつの間に通話を終わらせていたのか、どこか呆然とした表情のユウヒを見て、ユウくんが意地の悪い笑みを浮かべた。
「で、そういうことなんだけど、あんた、ちーちゃんと別れてくれる?」
腰に腕を回されてぎょっとする。ユウくんはユウヒの誤解を誤解にしたまま私と別れさせる気だ。
何か言おうとして口を開いて、結局閉じた。このまま別れてしまった方が楽なのかもしれない。
ユウヒのことは多分まだ好き。ユウヒも多分私が好き。二人は恋人同士で、今まで絶妙なバランスで続いてきたけど、でもどこか噛み合わなくなってきていたのは確かで。
おかしいなあ。私の水槽は、いつから壊れていたんだろう。
ユウヒが泣いた。
涙目、とかでなく、大粒の涙をぼろぼろにこぼして泣いている。
ここはユウヒの部屋だ。いつまでも部屋の前で大騒ぎしていては近所迷惑になると思い、移動した。
ユウくんは入ってきていない。ユウヒが私と二人で話したいと言って、私が了承したから、外で待っている。
「こんな、ひどい」
どんな怪我をしたのか訊かれて、面倒なのでシャツをベロンと捲り上げたら、彼がめそめそと泣き出してしまったのだ。
湿布の匂いが嫌で今日は何も貼っていなかったため、酷い色になった肌がよく見える。シャツを戻しながら、初めて見た彼氏の泣き顔を眺めた。
「ごめん、ごめんちづ、痛かったよな、痛いよなあ、」
「……うん」
「遊んでも、恨まれるのは俺だけだと思ってた。遊んでも、ちづだけはそばにいてくれると思ってた。でも、誕生日のとき、帰ったらちづはいなくて、帰ってこなくて、なんでかわかんなくて、理由なんていくらでも転がってたのに、」
「……」
「ねえ、あいつ誰だよ、俺より大事? 俺より好き? なんで俺じゃない奴と一緒にいるの、俺じゃない奴と一緒に寝てんの」
ここまで取り乱すとは思わなかった。惰性で私を恋人のままにしているんじゃないか、と考えたこともある。彼の目に宿る執着の色は、彼に似合わないなあと思った。
私じゃない子とばかり遊んできたのはユウヒじゃないか。悪びれなく、誘われたら応えるのが当然とばかりに、あっちへこっちへ楽しそうに。
ユウヒ、漢字で書くと、雄飛。飛び回る雄。そのままだ。つい笑ってしまった私に、ユウヒが怪訝そうに目を眇めた。
「別れようよ、ユウヒ」
「は……? なんで……」
それが正しいと思うから。
ユウヒは私を手放さない理由を、私がユウヒを一番必要としているから、と答えた。
なら、仕方ないでしょう。
「あいつが好きなの?」
「好きだよ」
「あいつと付き合うの?」
「付き合わないよ」
「なのに俺と別れるの?」
「そうだね」
「もう絶対に浮気しないって誓っても、戻ってきてくれない?」
「ユウヒにはできないよ」
「ちづが好き」
「ありがとう」
「ちづだけが好き」
「ありがとう」
「ちづは俺のこと好き?」
「好きだよ」
「じゃあ別れるのやめてくれる?」
「やめないよ」
「どうして別れなきゃいけないの?」
「私、痛いの嫌いだから」
以上が、ユウヒの部屋にある自分の荷物をまとめる私と、私の後ろをついて回るカルガモユウヒとの会話である。
ユウヒには、双方に好意があるのに別れなくてはいけないということが理解できないらしい。
口汚い言葉で罵られるのは痛い。殴られるのは痛い。蹴られるのは痛い。甘い香りのユウヒに抱き締められるのは痛い。痛がる私に気がついてくれないユウヒからの無邪気な好意は痛い。
荷物を抱えて家を出る私を、ユウヒは何も言わずに見送った。
ユウくんが荷物の殆どを持ってくれて、二人で四階に上がった。
「そんな泣くなよちーちゃん」
「ないでない」
チクチクズキズキ、体のどこかが痛いけれど、同時にすっきりした気持ちでもある。そんな私は、次の日から本気のユウヒによる猛アタックを受けることになるのだと気がつくはずもない。
前回、誤解の浮気を書いたのでとことんくずにしようと本当の浮気を書いてみたら、書いているうちに弟贔屓がひどくなったのは否めない。
お読みいただきありがとうございました。