前・嫉妬は醜いものなのか?
アデルの旅程はとても順調に進んでいた。
すでに決まっている二つの隣国は、それぞれ別の国と小競り合いを起こしているとはいえそこまで大きい戦にはなっておらず、すんなりと視察が終わる。この二国からは十数年前に外遊を受け入れたが、次の予定はまだ立たない。最近王子が生まれたとの情報は得たが、最低でも一年たたないと発表されないために、この話ができるのはもうしばらく後だろう。
騎士の身に過ぎた歓待を受けたと苦く笑えば、外交官は他国の名代はこんなものですよ、と快活に笑った。
アデルが次に入国したのは、ウィーフ王国。内海と呼ばれる外洋とも通じる大きな湖がある国で、塩が特産の漁業の盛んな国だ。気質的には情熱的かつ直情家が多く、付き合うのにさほど苦労がないタイプが多いらしい。
入国前に外交官から聞いた情報はこうでしたね、とアデルは宿の応接間で首をかしげる。隣の外交官も同じようにしていることから、二人しておなじことで首をかしげているのだろう。
この状況になったのは、アデルたちが宿をとって数刻してからの話。
「では、このまま街道を行っていくつかの町を経由しながら、王都を目指すということで変更はないですね」
「往路には特によりたい情報もないですし、構いませんでしょう。次の国に向かうまでには内海がありますので、少々ゆっくり進みたいですな」
「ああ、とても美しい景色があると聞いたことがあります。ウィーフが外遊地になれば、姫様もきっとご覧になることでしょう」
「ワイアット殿も、意中の方と来られればよろしかったでしょうが、こんな爺とで申し訳ない」
「何をおっしゃいます。マカスキル殿はまだお若いでしょうに。馬車は退屈だと馬に乗るなど、私はそのようにお元気な方を老人とは言いません」
外交官、デレック・マカスキルは、きっちり撫で付けた白髪交じりの髪を撫でてこもったように笑った。マカスキル家はワイアット家と同格の文の名門であるが、デレックは一門の分家筋に、本家から婿に出た人間である。そのせいか和を保つのが得意で、道中一行が和やかに過ごせたのは、彼の仁徳あってのことだろうとアデルは思っている。しかし、意中の方といって小指をピコピコ立てるあたりはどうなのだろうと、アデルはため息をついた。早々性別の話にはならないが、なるたびに訂正しても笑って流されてしまうし、小指を立てたくらいで訂正を入れるのは過剰だろうか。いや、実際問題勘違いが発生しているのだから訂正するくらい過剰ではない。と、アデルは自分を納得させる。
「それからマカスキル殿、私は」
『アデル・ワイアット様、いらっしゃいまして!?』
「おん、ん?」
「お呼び出しですかな」
「いえ、心当たりはありませんが……」
『グレイティアース国からお越しの、アデル・ワイアット様! いらっしゃるのはわかっていますわ! おとなしく出ていらして!』
「まるで警邏隊が犯人を呼び出しているような口ぶりですな」
「人聞きの悪いことを仰らないでください。とはいえ、私のお客様のようですね」
『早く出ていらして! でないと、でないとそう! こちらの店主の頭が禿げ上がりますわよ!』
後生です、髪だけは! という悲鳴が聞こえたあたりで、アデルは腰を上げた。正直、心当たりが全くないだけに応じなければという判断すらつかなかったから、反応が遅れていた。マカスキルも同じように腰を上げると、髪は男も大切にせねばなりませんからな、とにやにや笑う。空気は読めるが、意外と意地の悪い側面もあるらしい。受付の時にちらりとみた店主の頭は、今でも十分に禿げ上がっていたはずだった。
涙目の店主に応接間へ案内してもらい、目の前の女性をきっちりと観察する。
仕立てのいい衣装はアデルの自国のものとは少し異なるが、装飾品や生地を見る限りは相当高い階級の出身者だろう。口調からしてもそれがわかる。
ふうふうと息を付き、興奮しているさまを体現している女性の年頃は、まだ成人も済ませていない十代前半。ふっくらした真っ赤な頬は可愛らしいが、肩を怒らせて目と眉を吊り上げているところに可愛らしさは微塵も感じない。
そうやって観察を続けていると、しばらくして、いまだ涙目の店主がびくびくしながらお茶を運んできた。これ以上禿げ上がりたくないのか、店主はそそくさとカップとポットだけを置いて退出してしまったので、アデルはそっと三人分のお茶を注ぐ。
「よろしければ、どうぞ」
そうアデルに勧められた女性は、湯気の立つアツアツの紅茶を、溢さんばかりの激しさでつかむと、ぐいっとのどに流した。
「ぶぁっつぅ!」
「大丈夫ですか? 冷えた飲み物を運ばせますか? のどを冷やさねば……」
「いいえ、それよりも! アデル・ワイアット様! わたくしと結婚してくださいませ!」
「……大丈夫ですか? 冷えたタオルでも運ばせますか? 頭を冷やしましょう」
「ふぉっふぉっむぐ。……わらっている場合ではありませんな。アレーシャ・リ・ウィーフ王女殿下、でよろしいですな?」
きっと興奮して思いもよらないことを叫んでいるだけだ。まさか王女があんな恥も外聞もない茶の吹き出し方をするとは思わないし、女性から求婚される覚えもないアデルはそう判断して、アレーシャのソファに近づくと傍らに跪いた。のどが痛むのか涙目で、少し声もかすれているが、あれだけ熱いお茶を飲み干して咳き込めばそうなるだろう。
面白そうに笑い声をあげたマカスキルを笑顔で威圧して、あきらかになった女性の素性に少なからず驚く。
王女が一人で、アデルに会いに来たとは穏便ではない。すわ緊急事態かと、アデルは周囲に目を走らせた。
「こちらの女性が殿下なのですか? 殿下が、おひとりで、いらしたのですか?」
「そっ外に、騎士がおりますわ。一人ではございません」
「ならばよろしいのですが……。私に何か用がおありなようですが、お伺いしても?」
「わたくしと結婚してくださいませ! 婿入りでなくても構いません。嫁に参ります」
「……私に何か用がおありで? お伺いいたします」
「女からもう一度言わせる気ですの? わたくしと結婚してくださいませ」
「あー……申し訳ありません。私は女なので、女性とは結婚できません」
「そんなウソを言ってまでお断りですの!?」
嘘ではないのですが。そういったアデルの言葉はなかったことになった。
「わたくし、もうこの国にいたくないのです。だってギア、ギアジが結婚するといいましたの。わた、わたくし、つらくて……視察があると知っていたので、しっ調べたんですのよ。わたくしと年回りが合う方で他国の方……貴国の姫の近衛が視察に来ると。ですから、わたくし、わたくしをここから連れ出してくれる殿方と婚姻を結んで、お国に連れて行ってもらおうと……」
涙声で、さらに早口でまくしたてるアリーシャのいうことを要約すれば。
王女の好いた相手であるギアジと、どこぞの令嬢との結婚が決まった。アリーシャはそんな幸せなふたりを祝福できないし、見ていたくない。だから、視察で来た中で一番年回りと身分が合うアデルに白羽の矢を当てた。
しかしながら残念なことに、アデルは同性愛者ではなく、さらに子供がほしいので婿希望だ。一番肝心なところがかみ合っていない。
えぐえぐと泣きわめいているのを見かねてそっとハンカチを差し出せば、泣き方と反して上品に涙を拭うアレーシャを眺めて、アデルは右に一回首をかしげた。そして、ふと頭の位置を戻すと、今度は左にもう一度、ゆるりとかしげる。泣きわめくアレーシャには聞こえないとは思うが、少しだけ縮まった距離に、アデルは言わずには居れなかったためかなり声量を落として囁く。
「この国の国民は気質的に付き合いやすいという風に教えてくださったのは、マカスキル殿でしたね」
「老いぼれを苛めないでいただきたいですな。間違ったことは言っておりませんでしょうに」
同じような流れで首をかしげていたマカスキルは、器用にもアデルにだけ面倒だという気配を隠して居ないようだった。アデル自身が面倒に感じているためわかっただけだが、アデルにとってはどうでもいいことだ。未だに熱を失わない紅茶で唇を湿らせて、アデルはため息を押し隠す。
確かに、目の前のアレーシャは直情的で情熱家だろう。若さゆえとはいえ、一人の男に対してこれほどまでに愛を向け、叶わぬのなら誰でもいいという勢いで別の男(アデル※男ではない)の所へ走ってくるのだから。
アレーシャは特別そうだが、きっと普通に人付き合いするのであれば単純で誘導しやすいタイプが多いのだろう。しかし出来るだけ自分から矛先を逸らさねば、とアデルは考える。このままアレーシャの言葉に流されて、まかり間違って結婚なんてことになってしまえば、待っているのは偽証罪と詐欺罪と、国家反逆罪にも問われかねない。きちんと性別に関する手続きは踏んでいるにもかかわらずだ。
そしてマカスキルも、頭を撫でつけながら考える。アデルに嫁をあてがうにしても、この様子だと恩を売るどころの話ではない。文武の違いはあれど同格の伯爵家、派閥は同じだが、片方に他国の王女が嫁してくれば影響力が大きすぎる。マカスキル自身、一族の娘の釣り書きを送っていたがワイアット家から正式に断られている。可能ならば、マカスキル本家の嫡男の婚約者と同程度の女を、マカスキルから恩を売る形でまとめたいものだが、とそもそも根本から間違っている考えを巡らせていた。
「ひぐ……うぇ……ずびっ! ふう、お恥ずかしいところをお見せしましたわね。申し訳ありませんわ」
「ふぉっふぉっふぉ。殿下のように情熱的に人を愛せる方には、避けようもないことでございましょう。お気に召されますな。おっと、私としたことが。名乗らせていただいても?」
「ええ、許します」
「このような場で申し訳ありません。私はグレイティアース外交官を務めます、デレック・マカスキルと申します」
「遅ればせながら、私はフレイティアース第一王女付き近衛騎士、アデル・ワイアットと申します」
「ご存知でしょうけれど、わたくしはアレーシャ・リ・ウィーフ。この国の第三王女です。自己紹介も終わったところで、わたくしたちの結婚話について詰めませんこと?」
気を取り直したアレーシャは確かに王族らしかったが、最後の一言でその高貴さをかなぐり捨てたと、アデルは思った。
海が近いせいか、ウィーフ国ではあまり雪が降らない。しかしそれは内海や外洋に接する平野だけであって、今アデルたちが滞在する山裾の町では事情が異なる。とはいえ、すでに夏。この時期に見える雪は山の上だけで、外で待たされている騎士が寒いと思うことはなかった。
この騎士、ギアジ・オグル・マフカーンは、困惑している。そして、聞こえた声に絶望した。
ここになぜいるかといえば、何のことはない。彼の役目が第三王女の近衛騎士だからである。しかし、それだけでもない。
彼は、国王陛下へ努力を見せまくり、暑苦しい説得を重ね、さらには娘を奪いたくばこの父の屍を越えて行けという国王の言葉によって少々乱暴な方法も取って、このたびようやっと思い人の王女との婚約が調う、予定だった。実質婚約者と言って差し支えないとギアジは思っている。
それが、数日前、その話をアレーシャにしたとたんに、彼は距離を置かれ始めた。彼の努力を知っている同僚たちは、少しでも逢引気分を味わえるようにと、いつも少しだけ離れて護衛をしてくれていたのだが、突然、別の近衛を指名するようになった。最初は、婚約が調い照れているのでは、とぬるく笑っていられた事態も、一週間続くにあたって何かやらかしたのではないかという恐れにかわる。
その内に、そろそろ視察団が国内に入るという連絡を受けた王女が城を飛び出し、すぐに従えたのが彼だけだったため、現在王族の護衛がまさか一人だけという緊急事態に陥っている。彼がなんとか付けた連絡で後続もこちらに向かっている。ほかの近衛はすでに近くまで到着しており、何事もなければそう日を開けることなく合流できる算段だったが、連絡を受けていないギアジはしるはずもない。
さらに、無事使節団を見つけたと思ったら外での待機を命じられ、思い人が別の男に求婚するという信じがたい叫びが耳に入ったのだ。
ギアジは、瞬間、膝がかくんと抜けた。地面に付きそうなほど落ちたそれを、騎士の矜持で持ち直したのは立派だが、動きが不気味だったため、通行人から視線を浴びる。しかし今のギアジにそのような視線は意味を持たなかった。大好きで大好きで、出来る限り休みを減らし、減らしてなお私事と称してアレーシャの元へ参じた。愛しくて愛しくて、特別な日のプレゼントは当然ながら、何事もない日にもプレゼントを渡し、王女が良く飲むお茶や茶菓子の店などは出来る限り買収し、自分が渡していなくても王女の身の回りに自分のものが増えるように、と努力を重ねてきた婚約者(※まだ婚約していない)に、今まさにフラれたのだ。今さら民衆の不気味なものを見る視線などどうということはない。正確に言うならば、気にするほど周りを気に出来ていない。
近衛にあるまじき失態だが、だからこそ彼は声をかけられるまで彼女の存在に気が付かなかった。
「ギアジ・オグル・マフカーン殿でよろしいですか?」
「ぅわぉい!」
猫のように飛び上がったギアジをみて、アデルもまた目を丸くした。声をかけたのは突然だったかもしれないが、宿の扉を開ける前から気配を消したり、物音をさせないように近付いたわけでもない。
まさか気付いてないとは思っていなかったが、何より驚いたのは、茶を噴き出したアレーシャと同じような驚き方をしたとこらだ。将来、姫様も私と似たりするのだろうか、と考えて途中でやめた。不敬だし、アデルに似ると言うことはもしかすると男にしか見えないという王女が王子になる案件が起こるかもしれないからだ。
色々な思いを押し込めて、アデルはただ一言で感想を漏らした。
「主従似ておられるようで」
「そんなことは言われたことはないが、殿下と似ていると言うのはとても嬉しいものです。近しくなったように感じられるのはなんと甘美か」
頬をバラ色に染め、両腕で自身を抱きしめるようにして体をくねらせるギアジをみたアデルは、すんでのところで表情を取り繕うことに成功した。端的に言って気持ちが悪いなこの男、という感想をそのまま表に出しては、人付き合いという観点から歓迎できないだろう。しかし、ギアジはそんな感情を隠しもしない通行人の視線にはまったく気づかず、アデルにアレーシャがいかに素晴らしいかを語り続ける。
アデルの脳内に信者なのか、ストーカーなのかという疑問がわくが、藪をつついて蛇を出すのは愚の骨頂だ。息継ぎの間に少し途切れた合間を縫って、本来の用件を口にする。
「あー、その王女殿下があなたを呼んでおられます」
「む、そうなのですか。すぐに向かいます」
ギアジの反応は顕著だった。先ほどまであった変態性はなりを潜め、一気に近衛騎士らしい立ち振る舞いに戻ると、きびきびと歩き出す。査察団の道中の宿は基本的にその町の一番の高級宿だ。場合によっては貴族の屋敷という場合もあるが、身動きがとりづらくなるためアデルたちは好んでいなかった。
きしみもせずに開いたドアをとどめ、「ご案内しましょう」とアデルはギアジを宿へ招く。そしてそれをすぐに後悔した。
「よろしく頼みます、えっと、貴殿は?」
「アデル・ワイアットと申します」
「そうですか、貴殿が……。よし俺と決闘してもらおう! アデル・ワイアット!!」
「私、この数分程で流すとか誤魔化すとか意味がないことを学習しましたので、はっきり申し上げますね。お断り致します」
「学習するのは良いことだと思う。それによって成長すらならばなおさらだ。身を以て知ったことは絶対に己の糧になる。というわけだから俺と決闘してもらおう、アデル・ワイアット」
「流しても誤魔化してもはっきり言ってもダメならどうしたらいいんでしょうねぇ」
「どうしようもないのでは? だからさっさと決闘を受けてもらおうか!」
「いえ、それ貴方にだけは言われたくないんですけど。とりあえず聞きます。なんで決闘ですか?」
「ふむ、確かに理由もわからず決闘を申し込まれても困るか……では語ろう。俺が貴殿に決闘を申し込んだわけを……」
「あ、やっぱりいいです」
「言わぬわけにもいくまい! では事の起こり、そう、俺が殿下をお慕いするようになったわけから」
「手短に、簡単に、要点だけまとめてください」
「手短に簡単にかつ要点のみか。俺はあまり口がうまくないのでな……ああそうだ! 口で伝えるよりも文章に書き起こしたほうが、後々にも残るしわかりやすいか……。では、今日の夜にでもしたためる故、明日それを読んでほしい。そして、いざ姫様を賭けて決闘としよう」
「………もう、だいたいわかりましたからしたためないでください」
広い宿の廊下に誰もいなくてよかった、とアデルは心底思った。この国の国民が、こんなんが近衛騎士かと思ってしまったらかわいそうだからだ。国民が。
コンコンと軽い音を立ててノックをすると、マカスキルが応えを寄越す。先ほどと同じようにアデルが扉を開け、中に入るようギアジを誘導した。それを追って彼女も入室すると、不思議なことにアレーシャの姿がない。
ギアジがカーテンのそばに直立で立っていることからそこにいるのはわかるが、状況がつかめない。
マカスキルに視線で問いかけると、ふぉっふぉっふぉと軽快な笑い声をあげて事実説明とも、追い打ちとも取れる発言をする。いわく、そこの男とお会いになりたくなかったそうですぞ、と。
「話はワイアット殿が近衛を呼んでくると出て行ったあとになります。殿下は、近衛って、とつぶやいて少しお考えをまとめられて、会いたくない、と泣きながらカーテンにくるまってしまわれました。私が止める間もない動きでしてな。爺には、若いお方に追いつけませんでしたよ」
「……マフカーン殿。お気持ちは察しますが気色の悪い動きはやめていただきたい」
またも膝を崩しかけたギアジに、アデルは冷静に突っ込んだ。
「気色悪いとはなんだ、アデル・ワイアット! 殿下、このような男に嫁されてもご苦労を背負うだけになりましょう! どうかお考え直しください!」
「いや! わたくしはもうこの国に居たくないの! つらいのよ。わたくしはワイアット様に嫁ぎます」
「なぜそのような! この男の何が良いとおっしゃるのですか!? 近衛である以上ある程度の腕は認めますが、大したことない男ではありませんか!?」
「ワイアット様をそのように言わないで! あなた、あなたには関係のないことでしょう!?」
「く……そこまで、この男のことを……」
カーテンと騎士の言い合いに、アデルはきっちり突っ込みを入れていた。男ではありません、女です、嫁は貰えない、男ではないといってるでしょう、私にも関係ないんですが、だから男ではありません。こういううちにちょっと疲れてきていたアデルだが、ギアジの矛先がこちらに向いたことに気を取り直した。
窓際にいた彼が、アデルのもとへ動く。彼女はいまだ扉の前に立っていたので、わざわざテーブルとソファをまわって、彼女の正面に仁王立ちする。
ギアジが剣に手をかけると、彼女もさすがに腰に手を伸ばす。狭い部屋で一触即発の空気がにじむのに気付いたのはマカスキルだけだった。なぜなら、アレーシャはいまだカーテンだからである。
今やるつもりはない、そうつぶやいたギアジは、剣帯から鞘ごと剣を抜くと、鞘を持ちアデルの胸元にどんと押し付けた。
アデルは動かない。これがこの国流の決闘の申し込みだと知っていたからだし、今まさにこの男はアデルの胸に手を当てているというのにアデルが女だと気付いてくれなかったからだ。彼女は目線だけで自身の胸元を見て、どちらをさきに突っ込むべきか悩んだが、どういっても信じてもらえないものは仕方がないと割り切ることにした。結婚はあきらめたりしないが、この男に女と分かってもらわなくてもいいかなとも考える。
「……これはさすがに、お断りします、というわけにはいかないのでしょうね」
「当たり前だ。騎士が正式に申し込んでいるのだ。少なくとも貴殿が騎士ならば断ることは許されん」
アデルはふう、と息をつく。自分に差し出されたままの剣を、左手で柄を、右手で鞘の先に触れて受け取ると、親指の長さほどだけ縦にした剣を抜いて、きん、としまう。ギアジにそれを返してから、アデルも同じようにギアジに剣を差し出した。
「これにて、お互いの武器を改めたとみなす。時刻は明日の朝で良いか?」
「かまいません」
「条件はどうする? 貴殿が負けたなら、殿下を不幸にしないと誓え!」
「は?」
「何か文句があるのか!? 殿下が幸せになれぬ結婚など許さぬ!」
「どうしましょうかね。いい知恵はありませんか? マカスキル殿」
にやにやとこちらを見る初老は、読めた状況を蚊帳の外から楽しもうとしている風にアデルには見えていた。強制的に巻き込まれたマカスキルは一回眉をあげると、そうですな、と頭を撫でつける。
「貴殿は、条件も自分で考えられぬ男なのか」
「だから、私は男ではありませんし、結婚もしませんしできません。そういったもろもろを含め、マカスキル殿に知恵を求めたのです」
「男ではないなどと、戯言まで……!」
「あー、これはワイアット殿の冗談なのでお気になさらず。そうですな。では、ワイアット殿が勝ったならば、その場でギアジ殿の素直な気持ちを殿下にお伝えする、というのはいかがですか?」
「それにしましょう。そうしましょう。私からの条件はそれで」
マカスキルの手前もあり訂正は丁寧に行うが、やはり冗談として流された彼女は出された条件にしっかりとうなずいた。そもそもちゃんと話し合っていれば、この二人が他人に迷惑をかけることもなかったのだ。マカスキルは、その点しっかりと空気を読んでくれたようだった。というか、一度でもこの二人の空気を感じれば無駄にすれ違っているのはすぐにわかるだろう。
「ところでマフカーン殿。明日の朝というのはいかがなものかと思いますが」
「臆したか。アデル・ワイアット。何の不正も行わぬため、できるならば今すぐにといいたいところを、わざわざ準備の時間を設けたのだぞ」
「いえ、私のほうは問題ありませんが、外にマフカーン殿以外の近衛が見当たりませんでしたので、よろしいのかと。ほかの方は隠れているのですか?」
むぐ、と押し黙り視線を逸らしたギアジに、アデルは無言で答えを促した。笑顔の圧力とは意外と効果のあるものである。無言の空気にそろりと顔をだしたアレーシャはぴっと鳴いてまたカーテンになりかけるほどの威圧感が応接間を支配した。
「さて、他国の私がこう申し上げるのもどうかと思いますが、少々お話をいたしましょう。アレーシャ様にも、きちんと理解していただかねばなりませんので」
護衛を一人しか連れずに飛び出すのはいかがなものか。ほかの護衛がいないのに個人的感情から護衛対象を放置するような予定を立てるとは。
二人をソファに座らせて行われたこの説教は、とっぷり日が暮れるまで行われた。
それを横で聞いていたマカスキルが、最初の頃逃げるタイミングを見誤ったと考えていたのは、アデルには関係のない話である。結局ちくりちくりと針を刺していたからだ。
アデルに関係のある自身の性別の話は、彼女自身がするのを忘れていたため行われず、終始説教に終わった結果、決闘に関しては他の護衛がついてから日時を決めるということになる。
この町一番の宿であるこの場所のもっともいい部屋はアデルたちが取っていたが、こうなってはアレーシャに譲るしかなく、荷物を映し終えたアデルとマカスキルは部屋に戻る前に打ち合わせを行っていた。
「これで予定の再調整はひと段落つきましたが……ひどい目にあいましたな。それに、関係のない説教は聞いていて心が痛くなります」
「御冗談を。楽しそうでしたよ」
「まあ、少しくらいは、と思いましたしね。王女殿下が居られるわけですから、こちらも足止めですし。早々に近衛の方が到着されることを願いましょう」
「まあ、そう待たされることもないでしょうし、あとは決闘さえ乗り切れば大丈夫でしょう。今日はゆっくりと眠りましょう。いささか疲れました」
アデルの予想はある意味で的中し、ある意味で的外れだった。
まさか翌日には近衛がそろい、準備が整うとは思っていなかったし、予定外の来客が増えたせいでさらに一週間も決闘が延期になるとは、この時点では近衛すらも思っていなかった。