神語(エル)と勉強と新たな解釈
「泣けば、誰かが気付いて助けてくれるというけれど、誰もかれもが見て見ぬふりで、心が悲しくなるだけだった。怒れば、誰かが耳を傾けて受け止めてくれるというけれど、私の怒りに耳を貸すものなどいなかった。笑えば、世界が平和に平等になるというけれど、みんな笑って、嗤って、嘲笑って、私をいつまでもその不気味な笑みが苦しみ続けさせた。——こんな、世界に私はもういたくない」
日向はふとルーラに教えてもらたったおとぎ話の一節を思い出していた。
「日向君~、集中しないと覚えられないよ~」
「あっ、すみません」
「よろしい。では、この単語は……」
日向が現在いるのは集会所の地下にある部屋の一室。日向の前にいるのは兎人のミミである。
日向は病院を隠れて飛び出した後、軽くなった体で『クロシスストリート』を駆けあがり、集会所に飛び込んでいた。軽くなったと言っても、日向の体はまだまだ傷ついていて、激しい動きにはついていくのはなかなか厳しい。
日向が集会所に来た理由は大量にあった宝珠の交換とミミに会うためであった。日向はまず神語を完璧に覚えることにしていたからだ。激動の数日間を過ごしていた日向に正直神語を覚える余裕などなかったが、彼女にしっかりと思いを告げるのならば神語を覚えるのが一番だと考えていた。
だから日向は換金を終えて、大量のリエルを受け取った後、受付にいたミミに頼んで、この部屋に連れてきてもらっていた。
「……それにしても、こんなに唐突に神語を覚えたいなんて、何かあった?」
羊皮紙につらつらと日向のための神語を書き連ねるミミは嬉々とした表情で問いかける。
「……まぁ、少しは……」
日向は肌を少し掻きながら、返答する。すると、ミミは自身の縦に長く伸びたモコモコした耳を上下に揺らして、可愛らしく笑う。
「日向君も~、隅に置けないねぇ~」
「なっ!」
唐突すぎる日向は頬を紅潮させる。その日向の様子にミミはさらにクスクスと笑う。
「……ということは~、その誰かさんにラヴレターでも書くのかなぁ~?」
「ちっ、違います。揶揄わないでください!」
日向の顔にミミの顔はさらに弛緩する。
「日向君。殊勝な心掛けだけど、一体誰にあげるのかな?」
弛緩した表情はそのままにトーンだけは変えて、ミミは問いかける。
「えっ、それは……答えられない……です」
ふとそのまま口にしてしまおうとも思ったが、日向の頭は遮った。このことだけはディルエールに住む人々には伝えるべきでないと感じていたからだった。
「……ふ~ん。まぁプライベートなことだけど、後悔がないように注意しなくちゃいけないよ~。これは、私からの忠告」
ミミは何か知っているかの如くそう言った。もちろん、日向は何も伝えていないけど薄っすらと何かを理解しているように。
「……はい」
「……まあ、お遊びは置いておいて、そろそろ本番に行くよ~」
少し強張った日向の表情を気にすることなく、ミミは書き綴った神語のまとめた羊皮紙をバンッ! と机に叩きつける。羽ペンで美しく書き並べられたその文字に指を差し示して、ミミは講義を始めた。
——数時間後。ディルエール国立図書館にて。
ミミの講義で散々扱かれた日向は最低限の神語を覚えていた。日本語で言うならば平仮名とカタカナぐらいの超基本的な事柄だが、今までほぼ何も読めなかった日向からすればかなりの進展である。
日向が神語を覚えて、ここまで来た理由は決まっていた。
端的に言ってしまえば、本を読むためである。もちろん、一番日向が読みたいあのおとぎ話は特別書架にしかないから見ることはできないけれど、それに近しい本はこの図書館内にあるはずだ。そして、そこに描かれている『彼ら』のことを改めて知ろうとそういう考えだった。
階段を上り、前見た司書の女性に会釈して地下へと降りていく。歴史書が多い地下のフロアでこれと思った本を数冊手に取った。
本の表紙にはどれも美しく描かれた絵が添えられており、そこに登場する女性の瞳には紅眼が宿っている。というより、往々にしてディルエールの本にはそんな絵やそんな登場人物が登場する描写が多いのである。少なからず、『疎外の紅眼』がこの国に影響を与えているのは目に見えて明らかだった。
日向は椅子に座り、覚えたての神語と集会所の保管庫に預けていた神語の辞書を使って、ゆっくりと時間をかけて読み進める。もちろんのことながら、スラスラと読めるわけでもないから、一ページ一ページに思わぬ時間がかかるのだけど、夜遅くまで読み耽っていた日向は図書館の閉館時刻までに三冊ほど読むことができていた。
日向が読んだ本にはやはり『疎外の紅眼』が登場する描写があった。そして、どの物語も結末はかなり悲しくて残酷なものであった。
ディルエールの話にはこういったものが多い。それは、『疎外の紅眼』がよく登場するのと同じく、『彼ら』を虐げてきた国のあり方を示唆するためだと考えられていた。
でも、そのおかげか日向は改めて『彼ら』のことを知り得ていた。所々に描かれる『女神の腕輪』という枷の姿や文章に綴られた残酷極まる境遇。ディルエールが『彼ら』にしてきたことやどのように誕生したのか。
そんなあのおとぎ話に描かれていたような描写や光景が別の表現で表されていた。
「お客様、そろそろ閉館です。帰り支度をお願いします」
日向に話しかけてきた司書の女性は小さくそう伝える。
「……はい、それはわかりました。でも、一つだけいいですか?」
日向の問いかけにこくりと首を傾げた女性は「何ですか?」と問い返す。
「ここに、おとぎ話には別の解釈があると書いているのですが、それはあのおとぎ話のことでしょうか?」
日向が三冊中の一冊のちょうど中盤辺りのページを開き問いかける。
司書の女性は日向からそれを受け取って、本のタイトルとそのページを確認すると、微笑を浮かべて答える。
「……そうですね。おそらく、『英雄と代償』のことだと思います」
「……なら、『英雄と代償』の物語に別の解釈が実際に存在するのでしょうか?」
日向は続けざまに問いかけた。あの悲しすぎる物語に別の解釈があるのならば、とても興味深かったからだ。
「さぁ、正直わかりません。……でも、希望的観測のようなことを言った人がいたという記録があったはずです。その記録が事実かどうかはわからないのですが……」
司書の女性は顎に手を当てて絞り出した記憶を日向へと伝えた。
「そう……ですか。ありがとうございました」
日向は正確な答えが得られたわけではないけれど、口角を上げて喜色を浮かべた。
「本はそちらに置いておいてください。私が片付けておきますから」
「わかりました。お言葉に甘えて、そろそろ行かせてもらいます」
司書の女性にお礼の念を込めて深々と頭を下げて、日向は階段を上がり、図書館を抜けた。
昼間の空は既に黒く染まり、街灯りが優しく温かく日向を照らしていた。




