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第七話 実験場

 エレベーターの扉が開くと、そこは何もないただの広い部屋だった。部屋というか広さからするとコンサートホールの規模だ。床も壁も真っ白。思わず距離感を失いかける。天井も凄く高い。野球ができるほどの高さだよ、これは。しかし僕の予想に反して部屋の中には何もなかった。実験器具もなし、記録用のパソコンや端末らしきものも一切ない。危なそうな化学物質や兵器も一切ない。一体どういう実験をしているのだろうか? ここは何もないただの広い空間だ。


 景織子さんは僕に正対してゆっくりと声を掛け始めた。


「昨日のことをどこまで覚えている?」

「気を失う前までは全部覚えています」

「そうか……。キミ自身、どう思った?」

「催眠術にかかっていたんだと思います。それか薬物で幻覚を見せられていたんだと思います。でも、それにしてはリアルでしたし、催眠術に掛けられたり薬物を注射されたようなことはされていません。だけどそう考えないと車が突然消えたり降ってきたりするはずがありません。物理法則に反しています」

「キミは聡明だな。真実を知りたいか?」


 真実―――その言葉は、科学を志す者にとって甘くて危険な果実だ。なぜなら真実を追求するのが科学だけど、真実を疑うのも科学だからだ。終わりのない答えを求める旅のマイルストーン。それが真実だと僕は思っている。


「はい」

「これを聞いたら後戻りはできない。二度と”普通の生活”は送れなくなる。それでも聞きたいか?」


 知ったら普通の生活を送れない? 一体どういうことだろう。意味がわからないというより想像ができない。実は”宇宙人はいます”とか、”ムー大陸は実在しました”とか、そういうトンデモない話じゃないよね? 景織子さんに限ってそれはないと信じたい。


「普通の生活が送れなくなるって、どういうことですか?」

「今詳しくはいえない。確実にいえることは、キミのこれまでの価値観はすべてひっくり返る」

「例えば天動説が地動説になるみたいに?」

「その衝撃の比じゃない。自分の経験や常識を否定されるんだ。少なからずショックのはずだ」


 なんだ、そんなことか。常識を覆す、教科書を書き換えるのが研究者の醍醐味だと僕は思っている。


「望むところです。教えてください」

「……わかった。初めに言っておく。この話が終わったらキミの研究テーマは私のテーマと同じになる。いいか?」

「問題ありません」


 と勢い答えてしまったものの、景織子さんのテーマってなんだろう? まぁテーマが漠然としすぎて決まってなかったので、ちょうどいいのかもしれないけれど。つまらないテーマだったらどうしよう。少し心配だ。だけどここまできて後戻りはできない。


「キミは科学の法則や原理をどう思う?」

「世界の常識です。すべての現象はその法則に従って動いています」

「模範解答だ。では論より証拠、キミの言う”世界の常識”とやらを今から覆す。よく見ていろよ」


 次の瞬間、僕は信じられない現実を目の当たりにした。


 ――― 人が宙に浮いている!


 しかも景織子さんは自在に部屋の中を飛び回っている。自分が幻を見る人間だとは思ったことはないし、変なクスリに手を出したこともない。これでも妄想と現実の区別はしっかりできている常識人のつもりだ。だけどこれは明らかにおかしい。


「一体どんな手品ですか!?」


 部屋で人が宙を舞う。マンガや映画でもなければありない。重力に反して自在に宙に浮くなんて……物理法則を完全に無視している。絶対に何かタネがあるはずだ。この広い部屋のどこかに強力な電磁石があって、景織子さんも服の下に磁石をつけているとか?


「私は手品師ではないよ。学生くん、キミのことも浮かせてみようか」


 そう言って景織子さんが僕の方に向かって手を振ると、途端に足元がおぼつかなくなった。重さを感じていた自分の足がなぜかふわりと浮いた。もちろん僕の体が糸で吊られているなんてことはない。正真正銘、僕は浮いている!


「ど、ど、どうなってるんですか?!」

「慌てることはない。ただの重力エネルギーの法則だよ」

「何を言ってるんですか!? こっ、こんなのウソだ。こんな非科学的なことが起きるわけがない!!!」


 僕はふわふわした感覚に包まれながら、必死で言い返した。すると景織子さんはニヤリと笑って顎に手を当て、からかうように話を始めた。


「ほう……非科学的だって? キミの言う”科学”とは何だい?」

「そ、それは物理学や化学のことですよ!」

「ふーん、そうかい。キミは物理や化学が万能のルールだと思っているわけだ」

「当たり前じゃないですか! そりゃ新しい発見で少しは書き換わるルールもありますよ。で、でもこれはあり得ない。だって一番基礎になる重力や引力に関する法則が成り立ってないじゃないですか!」


 万有引力の法則を力説しながらも、僕はそれを真向から否定する状態になっている。脚を天井に向けて頭は床の上スレスレに浮いている。これじゃあリンゴは木から落ちない。ニュートンの面目も丸つぶれだ。


「常識……そうか。まぁいい。キミもこれからはいろいろ勉強していくことになるだろう。科学というヤツで導きだされた常識なんてものは、真の原理原則からすればただの影に過ぎないってことをね」

「真の原理原則? いったい何のことですか!?」


 景織子さんが自分の肩をポンポンと叩くと、彼女の体も僕の体もゆっくりと元に戻った。しっかりと重力が足に戻ってきている。ああ、地面を踏みしめるってこんなに落ち着くものだったのか。


「すまない、先走ってしまった。順を追って説明しよう」

「ち、ちょ、ちょっと待ってください! 今のはトリックですよね? きっとこの部屋は広くて白いから僕が錯覚を起こして浮いているように見えたとか、そんなところですよね?」

「キミもなかなか疑い深いな。だがそれくらいの姿勢でいい。”哲学者”を志す者ならな」


 景織子さんはクルリと(きびす)を返し、僕に背を向けた。そして横に立つように言った。ちょうど二人並んで立っている格好だけれど、何もない部屋の真ん中で一体何をするつもりだろう。


「キミはトリックがあると信じているようだがタネなどない。すべて科学的な現象だ」


 掌を開いたまま、左腕を前に突き出す。半身の姿勢になった景織子さん。次の瞬間、”フンッ”という掛け声と共に、彼女の目の前に巨大な火球が現れた。人間の身長の倍以上はあるだろう。まるで燃え盛る太陽のミニチュアが目の前に突然出現したみたいな感じだ。正直に言おう。むちゃくちゃ熱い!


「熱っ!」

「確かに体感できる熱さだろ? ホログラフィやプロジェクション・マッピングを使ったトリックなどではない。正真正銘、本物の熱い火の玉だよ」


 そ、それはわかる。わかるけど、なぜそんなことができるのか? トリックにしても僕には想像がつかないし。出した火球を触れずしてホワンホワンと自在に操っている景織子さんを見て、やっぱり手品の域を超えていると確信した。


「よし、昨日の後始末をしよう」


 そういうと景織子さんは右手で空間を掴むような動きをした。ということは…… 


 ガシャーンと大きな音がした。振り向くと昨日の二人組が乗っていたバンが降ってきていた。やっぱり、またか。今僕は意識もはっきりしているし、催眠術にもかかっていない。もちろん薬物も注射されてない。車が突然出現したしたのは、現実に起きていることだ。トリックなんかじゃない!


 景織子さんがニヤリと笑うと、途端に火球は車へ目がけて一直線。轟音とともに車に激突した。炎に包まれた車はあまりの高温でみるみるうちに溶け出した。


「下がりたまえ、全身火傷するぞ」


 僕は言われるまでもなく全力で溶け始めた車から大きく距離を取った。熱すぎてとても人間が耐えられる気温じゃない。というかあの火球、普通の炎じゃないと思う。自動車の内装はともかく、フレームは金属でできている。それがものの数秒で溶解している。いや、よく見れば溶解して直ぐに気化している!? 鉄の沸点って何度だっけ? 確か三千度近かった気がする。今目の前にその熱量がある。車一台を瞬時に気化できるあの火球……一体何なんだ? そして景織子さんは何者なんだ? 魔法を使う魔女? いや神様か悪魔か? 疑問が多すぎて頭がパンクしそうだ。これは確かに価値観の転換が起きるわけだ。


 しばらくすると車はすべて気化して跡形もなく消失していた。激しく焦げた跡だけが白い床にべっとりとへばりついている。炎は完全に無くなったけれど、あまりの高温だったのでまだ床が熱い。ゆらゆらと陽炎のようなものが立ち上がっている。とてつもない高温だよ、これは。


 正直に告白すれば、僕はリアクションに困っていた。文字通り”絶句”というやつだ。二の句がつげない。


「疑問が山ほどあるだろう。心配はいらない、一つ一つ説明していく。長い話になるがいいかい?」

「も、もちろんです!」


 僕はまた勢いで答えてしまった。


「私は魔法使いでも神様でもない。普通の人間だ。今私がやったことは、学べばキミにもできるようになる。だから恐れるな。目を逸らしてはいけない」


 今の魔法のような事が僕にもできるようになる? まさか。信じられない。


「今世界で認識されている物理現象……科学というヤツだが、いうなればイデアの影に過ぎない」

「イデアの影? イデアって何ですか?」

「何だ、キミはプラトンを知らないのか?」

「は、はぁ。名前だけは聞いたことはありますけど」

「ふむ、それではここで講義を始めるとしよう」

「え、ここで、ですか?」

「ああ。キミ以外には聞かせられない講義だからな」

「岩倉さんやみな実にも?」

「彼女たちは既に研究テーマを持っている。講義の必要はない。テーマがないのはキミだけだ。だから特別講義だ」


 テーマがないと言われればハイというしかない。けど景織子さんと同じテーマになるって言ってたよね。ということは分野としては哲学になるのか。うーん、正直興味が持てないぞ。


「イデアだが、言うなれば理想形、真実そのもののことだ」

「よくわかりませんけど……」

「そうだな。キミはこの世界に”正三角形”というものが存在すると思うかい?」

「あると思います。だって正三角形定規で描けば直ぐにできますよね」

「ハズレだ。厳密にいえば完全な正三角形は存在しない」

「どうしてですか?」

「定規で描いたとしても誤差が出る。定規そのものにも僅かに狂いがある。描いた紙が完全な平面であるかどうかもわからない」

「そ、そりゃあそうですけど、実用上は問題ないと思いますよ……」

「だからプラトンは、この世界ではない理想の世界に完璧な正三角形が存在していると考えた。我々はその世界の“完璧な正三角形の影”しか見ることができない。この完璧な正三角形の事をイデアという。そしてそれが存在する世界をイデア界という」


 哲学にはまったく興味はないけれど、景織子さんの話は少し面白かった。プラトンとかいう古代の難物に興味が湧いてきた。


「つまりこの世界はイデア界の作った影みたいな物で、本当の理想や真実はイデア界にあると考えた。それがプラトンだ。ちなみに英語のidea(アイディア)もこのイデアが由来だ」

「……イデア、イデア界。プラトンの話はわかりました。でも景織子さんの話にどう繋がるんですか?」

「ここまでヒントを与えたんだ。キミも少しは考えたまえ。ほら、講義には演習問題が付きものだろ?」


 いきなりの無茶振り。でもここを乗り越えないと、景織子さんに認められないのかな。ようし、久々に燃えてきた! ばっちり考えてやろうじゃないの。


 落ち着いて情報の整理をしてみよう。景織子さんはまるで魔法のような現象を見せてくれた。でもそれは魔法ではなく僕にもできる事だと言った。そしてプラトンの話。この現実世界はイデアとかいう理想世界の影だってこと。これだけの情報でどういう推察ができるか。


 ……うーん、全然わからない。ダメだ。


「すみません、さっぱりわかりません」

「難易度の高い問題だったかな。では解答編だ」

「お願いします」

「キミが科学と言った物理法則もイデアの影の一つということだ。つまり”真の物理法則”はこの世界ではないところにあって、我々はその影を見て、加速度がどうとかエネルギーの保存がどうとか浅い議論しているに過ぎないということさ」

「ちょ、ちょっと待ってください! じゃあ今まで僕らが習ってきた物理の法則とか化学の原理とか、そういうものは全部ウソってことですか?!」

「ウソではない。真実のほんの一部であり、無数にある面の一つを観ているに過ぎないってことだよ。そうだな……もっと簡単に表現しようか。我々の常識や科学は氷山の一角だ。真実はもっと深く大きくたくさんあるんだよ」


 ……景織子さんの語る真実。それは僕の経験を全否定するものだった。いや、全否定という表現はよくない。まだまだ勉強する余地があるってことを示してくれた。そして何より嬉しかったのは、まだまだワクワクできる、未知の世界へ足を踏み入れる快感を堪能できるってことだ!


「学生君、何だか嬉しそうだな。顔がニヤけているぞ」


 知らぬ間に僕は笑っていたらしい。そうだ、そうだよ! これだ! このワクワク感を僕は科学に求めていたんだよ! あ、でもこれは科学なんだろうか? 哲学? よくわからないけど面白くなりそうだ。


「話を先に進めよう。やるからにはきちんと学んで欲しい」


 景織子さんのクールで優しい声が僕の頭に澄み渡る。この今の気持ち、どう表現していいかわからない。だけど一つ言えるのは僕は最高にワクワクしてるってことだ!


「イデア界なるものがあって、科学以外の原理原則がある……これが発見されたのは遥か昔だ。それを体系的にまとめたのは祖父達だ」

「理事長先生ですか? ”祖父達”ってことは、理事長先生以外にも発見者がいたんですか? 論文にはしてないんですか? どうして他には誰も知る人がいないんでしょうか? イデア界って具体的には何処にあるんでしょうか?」

「待て待て、順を追って話そう。かなり長くなりそうだから私の部屋へ行こうか」

「あっ、でも研究室(カフェ)には岩倉さんがいましたけど」

研究室(カフェ)ではない。私室だ」


 景織子さんの部屋。僕が寝ていたあの部屋は、実は客間みたいだったから、他にもいくつか部屋があるんだろうか。


 まだ熱いままの床をちらりと横目で見ると、景織子さんは左手を何回かブラブラさせた。その途端に床がかちんと凍りついた。そう、テレビでよく流れる瞬間冷凍のCMを現実に見せられた感じだ。


「フフフ、熱冷ましが必要だからな」


 この時、僕の目には彼女が魔女の類にしか見えていなかった。魔女なんて科学を志す学生にあるまじきワードだけど。でもこの現実を目の当たりにしたら、誰でもそうなると思う。


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