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第六話 秘密の地下

 目を覚まして重い(まぶた)を開くと、景織子さんの心配顔で僕の視界は満たされた。なんという幸せ。目に飛び込んで来る映像でこんなに幸福を感じられた瞬間も最近憶えがない。


「よかった、目を覚ましたか。今水を持ってくる」

「景織子さん!」


 と叫ぼうとして僕は体のあちこちに激痛が走るのを感じた。いや、これマジで痛すぎる。特に脇腹と顔が痛い。あと口の中も切れているみたいだ。喋ると血の匂いがする。


「まだ安静にしていろ。医者には診せてある。脳や内臓に異常はないそうだ。だが打ち身がひどい。今日はここに泊まって行くといい。ご両親には連絡しておいた。後は私に任せてとにかく休むんだ」

「き、景織子さん……ここは?」

「私の部屋だ。安心しろ、ここは安全だ」


 ここは景織子さんの部屋……ということは研究室のカフェの奥。あの豪華絢爛(ごうかけんらん)な廊下の先の部屋ってことか。それにしてもこの部屋、景織子さんらしいシンプルで落ち着いたデザインだ。アンティーク装飾は西洋風だけど見ていて心安らぐ。


 ふいにドアをノックする音が聞こえた。景織子さんが返事をするとドアが開いてメイドさんがやってきた。常盤井家の”本物の”メイドさんだ。


「さぁ、一口飲んでおくがいい」


 景織子さんはメイドさんからコップを受け取ると、僕に手渡してくれた。受取ろうと手を伸ばした瞬間、脇腹に激痛が走った。


「痛っ……」

「大丈夫か!? よし私が飲ませてやる。キミは腕を上げるな」

「そんな、水くらい自分で飲めますよ」


 怪我をしているからといって、さすがにこの歳で人から水を飲ませてもらうのは恥ずかしすぎる。でも、景織子さんに飲ませて貰えるなんてこの先なさそうだから、これはこれでラッキーかもしれない。


「そら、動くんじゃない」


 景織子さんがベッドの上に乗り、僕に近づいてきた。そしてゆっくりとコップの水を飲ませてくれる。距離が近い。もうちょっとで密着してしまう距離感だ。彼女の息遣いはもちろん匂いまで伝わってきた。爽やかなフルーツの香りがする。リップや化粧品の匂いだろうか? とにかく僕は幸福な瞬間を迎えていた。体はボロボロだけど。


「ゆっくり飲むんだ。慌てるな」


 ゴクリ……ゴクリと一口ずつ飲む。体に染みわたる水分。水が美味しく感じる。それだけ喉が渇いていたんだろうな。そりゃそうか、自転車を急いでこいだ挙句にあの田んぼでの全力疾走。運動量もそれなりにあった。季節はまだ春とはいえ、もう桜が満開の頃。気温もそれなり暖かい。汗もかいているのかもしれない。


 僕は水を飲みながら左腕に温かい感触を感じていた。柔らかくてそれでいて…… 目線を腕の方に落とすと原因がわかった。景織子さんの胸が当たっている。至近距離だから仕方がないとはいえ、これはちょっと耐えられない。布越しに彼女の体温が伝わってくる。


「ゴッホゴッホ!」

「ほら、だから慌てるなと言っただろう」


 すみません。水を(むせ)たのはそのせいじゃありません。男子なら誰でも咽ます。


 噴き出した水を丁寧にメイドさんがふき取ってくれた。本当に申し訳ない。


「何かあったらベッド横の紐を引くといい」


 紐と言われて僕は不思議に思った。赤い紐が天井から垂れている。


「これ、何ですか?」

「呼び鈴だよ。メイド達の誰かに必ずつながる。安心したまえ、キミは完全看護する。でないとご両親にも申しわけが立たないからな」


 呼び鈴だって? このハイテクな建物になぜこんな前時代的な物が?


「もう寝るんだ。君は怪我人なんだからな。そして眠る前に謝っておく。本当にすまなかった」


 景織子さんは部屋の灯を落とすと、そそくさと去っていってしまった。涼華(すずか)と呼ばれたメイドさんが、ベッドに寝る僕の布団をきちんと直してくれた。この気遣い、さすがはプロメイドさん。


 だけど僕は眠くなるどころの状況じゃなかった。景織子さんには聞きたいことが山ほどある。平凡な日常がひっくり返るほどの出来事がこの数時間でいっぺんに起きた。頭の回転が追いつかない。自分の目を疑うってことを心の底から感じた一日だ。


 体はボロボロだけど頭はハッキリしている。一つ一つ整理していこう。まず景織子さんが外出してきたことだ。確か陽光アレルギー……だったよね。だけど夕日程度なら当たっても大丈夫ってことなのだろうか。アレルギー体質にも程度があるから、不自然じゃないとは思う。だけどどうして景織子さんは僕の居場所がわかったんだろう? 偶然にしては謎が残る。大学に自宅の住所は届けているから、指導教官の景織子さんがそれを知っていても不思議じゃない。自宅の住所が分かれば、僕が向かった方角も何となく検討はつくってことか。


 うーん、まぁ、ここまでは何とか理解できる。


 次の疑問はあの二人組が何者かってことだ。ジャーナリストや新聞記者じゃないのは明らかだ。暴力団? 西塔(さいとう)と呼ばれていたサングラスの男の方は、その筋の人といっても違和感がない。ただそれは風貌だけだ。城之内と呼ばれていた小柄な女は暴力団という雰囲気じゃない。


 それに僕の事を常盤井研究室の学生だと知っていた。大学から跡をつけられていたか、それともどこからか情報が漏れてるんだろうか。あいつ等、景織子さんの事も知ってたみたいだし、やっぱりハンチング帽をかぶっていたあのしつこいジャーナリストと関係があるのかもしれない。


 で、次の疑問は僕が逃げられなかった事だ。走って逃げたハズなのに元に戻っていた。これをどう説明すればいいのだろうか? 僕の方向感覚を惑わすような何かがあったって事だ。催眠術とか? 思い出しただけでも気分が悪くなる。あの体験はかなり恐怖だった。


 そして最大の謎……というか未だに幻を見たんじゃないかと思っているんだけど、僕の目はちゃんとしている。視力も両目とも1.5はある。車が突然消えたり降ってきたり、挙句の果てに二人組がテレポートするなんて常識的にあり得ない。僕がどうかしてたと考える方が現実的だ。きっとあのサングラスの男が催眠術師で、いつの間にか僕は催眠状態だった……って話だったらしっくりくるかな。


 それにしてもリアル過ぎる。それに僕はあのサングラス男に突然殴られただけだ。催眠術っぽいことは何一つされてない。薬物を知らぬ間に注射されてたとか、そういう形跡もない。うーん、腑に落ちないな。やっぱり明日、景織子さんに聞いてみることにしよう。


 ……そういえば警察には通報したんだろうか? 仮にも傷害事件だし、あんな危ない奴らがウロウロしてたんじゃ治安にもかかわる。こんな田舎の街だけど、それなりに人間は多い。何より景織子さん自身が危険だ。あとはみな実や岩倉さんも同じ常盤井研究室の学生だ。狙われないとも限らない。


 僕は躊躇わずに呼び鈴の紐を引いた。チリリンと澄んだ高い音がする。すると直ぐにドアが開いた。涼華さんが立っていた。というかこの人、ドアの外に立っていたんじゃないだろうか。呼び鈴を鳴らしてドアが開くまで数秒だったし。


「あの……」

「涼華、とお呼びください。どうなされましたか?」

「じゃあ涼華さん……今日の事は警察へ通報したんでしょうか?」

「ご安心ください。万事対応済みです」

「みな実や岩倉さんへは連絡してますか? 彼女たちも巻き込まれているかもしれませんし……」

「そちらも既に手は打ってございます。今日はもうゆっくりとお休みくださいませ」


 手を打っている? さすが景織子さんだ。やることが早い。それに常盤井家の力もあるんだろうな。警察も直ぐに動いてくれているに違いない。あとは表沙汰にならなきゃいいんだけど……こんな事件はあのジャーナリストの格好の餌食だよ。


 涼華さんの落ち着いた口調にすっかり安心した僕は、そのまま眠ることにした。母さんに連絡済みだと景織子さんは言ったけど、僕から一報入れなくても大丈夫だろうか。でもこの研究室の中ではスマホ禁止だった。今日はもう遅いし、明日の朝一番で連絡しよう。ああ見えても母さんは心配性だから不安がるだろうなぁ。


 なんてことを考えていたら、突然睡魔が襲ってきた。涼華さんもそれを察したのか、ドアを静かに閉めて部屋を出て行った。この建物はセキュリティも万全だし、メイドさん達もたくさんいる。みな実や岩倉さんの方は、きっと警察が動いてくれているんだろう。


◇ ◇ ◇


 翌朝。ベッドを抜け出そうと体を起こすと、やっぱりまだ脇腹が痛い。でも昨日よりはだいぶマシだ。動かさなければ痛みもほとんどない。骨には異常がないので一週間もすれば治るだろう。


 母さんに電話しようと僕は廊下に出た。そう、あの豪華絢爛な廊下だ。とても日本の建物とは思えないよ。誰の作かわからないけれど、絵画も彫刻もきっと高価なものなんだろう。絨毯もふかふかしている。窓枠にもアンティークか工芸品のように洗練された装飾がされている。


 ……窓枠!? 僕はここで気がついた。廊下から見えるのは植物やら池やらが見える外だと思っていた。だけどよく考えたらここは建物の真ん中、奥だ。構造的に外が見えるわけがない。なのに僕が見ているのは外だ。一体どうなっているんだ? ふと目を上にやると天井が付いていた。天井が透明なガラス張りになっていて空を素通しで見る事ができる。つまりここは中庭ってことか……建物の中に入ったのに外があるっていう不思議な感覚に僕は少しめまいがした。この造りも景織子さんの趣味なんだろうか。


 廊下を進み研究室の方へ出る。カフェの入り口の壁に例の電話がある。ふと見ると、僕のスマホがチェストの上に乗っていたので、それを手にとって研究室の外へ出た。通話ダイヤルボタンを押すと、直ぐに母さんの声が聞こえてきた。ああ、いろいろ説明するのが面倒くさいなぁ。というか僕の頭だってまだ全然整理できてないんだから、正直何をどう話していいかわからないよ。


 重い気分で話を始めようとすると、母さんの方から話かけてきた。


「常盤井のお嬢さんから話は聞いてるわよ。心配はしてないから、そっちで頑張りなさい。くれぐれもご迷惑をお掛けしないようにね」


 いつもならあれやこれやと口うるさい人が、途端に物分かりのいい大人になっていた。よっぽど景織子さんの説得が上手かったんだろう。それにしてもあの母さんを黙らせるとは。一体どんな手品を使ったんだ。


「おはようございます」


 振り返ると凉華さんがいた。メイド姿がキリリとしていて思わずこちらも背筋が伸びてしまう。よく見ればこの人も景織子さんと同じくらいの年齢じゃないだろうか? 地味だけど美人だ。景織子さんと違って目立つタイプじゃないけれど、その辺のファッションモデル顔負けだよ。


「研究室の方にお戻りください。朝食をご用意してございます」

「あ、はい、ありがとうございます」


 出てきた朝食は痛みを忘れるほど美味しかった。凉華さんの淹れる珈琲も、景織子さんの珈琲に見劣りしない。これが常盤井家の味なんだろうか。これまで珈琲にこだわりはなかったけれど、この研究室に配属されて、好きになってしまったかもしれない。


 しかし、宿泊も出来てメイドさんが食事を出してくれる研究室なんて、もはや大学というより高級ホテルだよなぁ、コレ。


 カフェのカウンターの向こうにいる凉華さんに話を切り出す。


「あの……景織子さんは?」

「お嬢様は研究室にこもられています。実験中のご様子です」

「実験、ですか。一体どんな実験何でしょう?」

「さぁ、内容までは知らされておりませんので」

「そういえば景織子さんの研究テーマってどんなものなんでしょうか?」


 恥ずかしながら指導教官の論文を僕は読んだ事がない。全然分野違いの論文って普通の大学生だったら触れる機会はほとんどないのが普通だし。景織子さんのテーマは一体どんなものなのか。すごく興味がある。


「それはお嬢様に直接聞かれた方がよいと思います」


 そりゃそうだ。ごもっとも。


「今、景織子さんと話をすることはできるでしょうか?」

「実験中は立入禁止ですので、難しいと思います」

「……ですよね」


 ということは、かなり大掛かりな実験、あるいは危険を伴う実験なのかもしれないな。今日は日曜日だし、岩倉さんもみな実も来ないだろう。僕も今はフラフラと外を出歩く気になれない。あの消えた二人組にまた遭遇してしまうとも限らないし。家に帰っても暇だしな。それに何より、今僕がすべきことは自分の研究テーマを見つけることだ。ここでしばらく過ごした方がいいだろう。


 カフェのパソコンを立ち上げると僕はネットでいろいろ調べ始めた。まずは景織子さんの論文から調べてみようか。僕がパソコンに向かっていると、凉華さんは料理の片付けを始めた。


『常盤井景織子 論文』


 検索エンジンの窓に入力して「検索」のボタンを押す。一体どんなテーマが出てくるんだろう? 少しドキドキする。


『検索結果 該当なし』


 え?! 嘘だろ? まさか論文を公開してないとか? それにしても博士号をとっているんだ。学会発表の一つや二つは必ずしているはずだ。ヒットしない方がおかしい。


 いろいろ検索条件を変えてみても結果は同じだった。論文ゼロで博士号取得なんてありえない。もしかして意図的に何かフィルタリングされているのかな? だったら彼女のお祖父さんの方で検索だ。


『常盤井亮太郎 論文』


 こっちは逆に多過ぎてさっぱりわからなかった。医学関係の論文を中心に、物理、化学、生物、情報工学、果ては宗教や哲学に関する論文なんかもたくさん出てきた。一体この人の専門は何なんだろう。


 ……だったら経歴で調べてみよう。


 検索を続けていたら、ふいに声を掛けられた。


「あら、日曜日なのに熱心ね」


 振り向くと岩倉さんが立っていた。なんと、今日も彼女は研究室通いなのか。


「岩倉さんもね」

「まぁ、あたしは家にいたくないってのもあるんだけどね」

「どうして?」

「……まぁその話はいいわ。それより昨日襲われたって話」

「そうそう、大変だったんだよ。岩倉さんがスマホの忘れ物に気がついてくれなかったら、今頃僕は死んでたかもしれない。ありがとう」

「べっ、別にお礼なんかいいわよ。それより無事でよかった」


 岩倉さんが素直になりきれず、照れて顔を赤らめている。すごく可愛い。けど、どこか(かげ)がある。やっぱりリストカットの跡と関係があるんだろうか。家庭事情も複雑そうだし。


 僕は彼女にあの不思議な話をするべきかどうか迷った。でもしたところで信じてもらえないだろうし、何よりも僕自身、まだ頭が整理できていない。相手は聡明な岩倉さんだ、上手く説明しないと白い目で見られて終わりだ。


 研究室奥のドアがふいに開いた。そこには景織子さんが立っていた。今日もしっとりとした高貴で爽やかな姿。でもいつもより表情が硬い。何かあったんだろうか? やっぱり昨日の事が尾を引いているのかな。


「おはよう、有紀、学生くん」

「「おはようございます」」

「早速で悪いが学生くん、ちょっと付き合ってくれ」

「は、はい!」


 僕は景織子さんの後ろについて長い廊下を抜け、いくつか部屋を通り抜けた。想像以上に広い。どう考えても一つの研究室が持つには大きすぎる。あのジャーナリストじゃないけれど、変な噂が立つのもこれを見た後だとちょっと共感できてしまう。


 大きな部屋を抜けるとエレベーターがあった。冷たい銀色の無機質な扉だ。シンプルなデザインで、メーカーの銘板や装飾なんかが一切ない。ちょっと寒々しい感じだ。まさか研究室の奥にエレベーターがあったなんて。確かこの建物は四階建てだったはず。


「上の階に行くんですか?」

「いや、これから行くのは地下だよ」


 あれ? この建物に地下なんてあったかな? 確か入学案内のパンフレットには地上四階建てって書いてあったはず。景織子さんの声が心なしか冷たく聞こえる。


「この建物に地下フロアなんてありましたっけ?」

「公式にはないことになっている。常盤井研究室専用のフロアだよ」


 話をしているとエレベーターの扉が開いた。中もやっぱりシンプルで無機質な造りになっている。冷たく事務的な感じがする。表のカフェや廊下の造りとは大違いだ。


 地下フロアなんていうので、せいぜい地下一階か二階程度を想像していた。でも僕の予想に反してエレベーターはぐんぐん下に降りて行く。体がふわっと軽くなるあの感覚がずっと続いている。気圧の変化が急すぎて耳が痛い。


「あ、あの景織子さん、一体どこまで降りるんですか?」

「すまない。もう直ぐだ」


 感覚でいうと地下三十階くらいまで降りているような気がする。そんな地下深くに一体何があるっていうんだ? よっぽど安定した環境でないといけない物ってことなんだろうか。思い付くのは加速器とか放射性物質関連の実験施設だ。あとは”危険な”化学物質や微生物、細菌とか? あのジャーナリストの言葉がちらつく。ワクワクする好奇心と一緒に嫌な予感も湧き上がってくる。もし景織子さんがあのジャーナリストの言ったように、国費を使って危険な実験をしていたら? それが軍事利用するための物だったら?


「不安がることはない。悪いようにはしない」


 景織子さん、それ、悪役が吐く常套句ですよ。


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