第十八話 役得
翌朝。午前九時に研究室集合ということだったので、僕は少し早目の六時に目を覚ました。昔から夜更かしよりは朝の方が強い。だから朝の集合は僕にとって好都合だ。涼音さんと一緒にキャンパスへ向かおうと玄関を出て気が付いた。
「……あっ!」
「ん? どしたの?」
「そういえば昨日は涼華さんに送ってもらったから自転車は学内でした」
「大丈夫だよ。お姉ちゃん、呼んでおいたから」
涼音さんが言った途端に向かい側の角から、白いスポーツカーが攻撃的なエンジン音を立てながら現れた。そして運転席にはクールで切れ長な眼をした女性。涼華さんも客観的に見たらモデルさんみたいな美人だ。景織子さんよりは年上ってわかるけど、一体何歳なんだろう? これはさすがに聞けないけどね。
涼華さんの強烈な運転で朝食をリバースしそうになりながら学内到着。途中で無謀にもこの車を煽って来た車があったけど、勝負にならなかったのはいうまでもない。
研究室に着くと既に岩倉さんがいた。時間はまだ八時。ゼミの開始時間まであと一時間はあるのに……。既に彼女はパソコンと睨めっこしていた。
「おはよう」
「早いのね」
「まぁね。どっちかっていうと朝型人間だし」
「あっそう」
相変わらず素っ気ない返事。だけどこれが彼女の平常運転だから気にしない。
僕が早く来た理由は珈琲だ。研究室にある物は何でも使っていい。この約束があるので、自分で珈琲を淹れるのも自由ってわけだ。もちろん景織子さんや涼音さんに淹れてもらった方が美味しいに決まってる。でも最近は自分で淹れることに興味が出てきた。独学でちょっとチャレンジしてみたくなった。
カウンターに僕が入ると、岩倉さんが珍しくパソコンの画面から目をあげた。
「珈琲を淹れようと思うんだけど、岩倉さんも飲む?」
「瑞流君、珈琲淹れたことあるの?」
「ないけど景織子さんがやってるのを見てるし、大体わかってるから」
「……じゃあエスプレッソをお願い。期待しないで待ってるわ」
「了解」
岩倉さんらしい強烈なひとことを貰い、僕は薄緑色の生豆を取り出し、重厚な手鍋に広げた。手鍋はかなり年季の入った物で持ち手に綺麗な装飾がある。こういったさりげない道具一つにもハイソな雰囲気を感じる。ガスコンロで焙煎をする。エスプレッソだから深煎りだよな……確かフレンチローストだったかイタリアンローストだったかな。
しばらくすると豆からパチパチと音がしてはぜる。緑色の豆が徐々に茶色に変っていく。この作業が結構難しい。何しろ経験が足りないので見よう見まねだ。後から聞いた話だけど、ちゃんとした焙煎機があったらしい。景織子さんがいつも手鍋でやっているのを見て、僕はそれしかないのかと思っていた。焙煎機を使うと初心者でも簡単に上手く狙った焙煎ができるらしい。
ローストが終わって粗熱を取る。そして今度はミルで粉にする。確かエスプレッソは極細挽きだった気がする。ハンドミルでゴリゴリと挽いていくと濃厚な香りが立ち上がってくる。ちょっと焦げ臭いような気もする。まずい。炒り過ぎてしまったかもしれない。珈琲の粉を直火式のエスプレッソメーカーに移しかえて、水を入れてコンロに直接かける。これでしばし待てば出来上がりだ。
「へぇ。様になってるじゃない。形だけは」
「まぁ、本当に見よう見まねだけどね」
「問題は味と香りね」
いつも人の動きになんか興味を持たない岩倉さんが、珍しく僕に話を振ってきた。彼女は僕よりも研究室に長く滞在している。何だかんだいって、珈琲が好きなんだと思う。
エスプレッソメーカーがボコボコと音を立てる。しばらくして蒸気の残りが出切ると、辺りに官能的な香りが漂う。とりあえず香りは合格点なんじゃないかな。
自信を持って岩倉さんのカップに注いで出す。一口含んだ彼女の最初の一言。緊張の一瞬だ。
「……にがい」
「やっぱり……ダメ?」
「たぶん炒り過ぎだと思う。でもあたしは苦いのが好きだからちょうどいい」
「よ、よかった」
何とか彼女の合格点を貰うことができた。お世辞は決していわない人だから、その点は信用していいと思うけど、たまたま好みが苦さにあったので、運よく助かったってところだね。まだまだ練習が必要だ。
「エスプレッソか」
突然景織子さんが現れた。今日もシンプルなモノトーン調。モード系とでもいうんだろうか。黒いタイトパンツにパリっとした白いシャツ。サイドダウンのポニーテール。長い黒髪は今日も艶やかだ。
「はい。今日は僕が淹れてみたんですよ」
「フフフ、そうか。では私にも一杯くれないか?」
「もちろん」
そういう景織子さんの顔はどことなく嬉しそうだった。僕が珈琲に興味を持ったことを歓迎してくれていればいいんだけど。
「あ! じゃあ私にも一杯!」
そう言ってドアから入って来たのはみな実だった。遅刻魔のみな実がこんなに早い時間に来るなんて。
「了解。じゃあ座ってて」
「よし、少し早いが全員揃ったな。早速だが第二回のゼミを始める」
え? 僕、珈琲豆炒りながらなんですけど。
「みんなそのままでいい。話を聞いてくれ。今日のゼミは研究の進捗報告を聞きたい。カウンターで豆を焙煎している学生君については、研究テーマの発表だ。彼は今、ご覧の通り忙しい。だから私が代わりに話をする」
「わかりました。じゃあ、まずあたしから進捗報告するわ」
「では有紀、発表を頼む」
岩倉さんがパソコンの画面をカフェのテレビモニターに映し出した。そう、ここではプレゼンテーションできるように画面転送できるようになっている。さりげなく研究室的な配慮もあったりするので、見た目のクラシカルな雰囲気で油断しちゃいけないよな……。
一通り岩倉さんが進捗を話す。相変わらず説明が上手い。的確で表現もわかりやすい。どうやら進捗は順調みたいだ。と、彼女が終わる頃には豆を焙煎し終わり、挽く作業に入る。次はみな実の番だな。何やらやるせない顔をしている。もしかして……
「すみませーん、わたし、全然進んでませ~ん」
「みな実、何か問題でもあったか?」
「サークルとかバイトとか忙しくて……テヘ」
どうやら大方の予想通り、本当に何も手を付けていなかったらしい。岩倉さんとは対極だ。と彼女の方を見るとやっぱり眉間に皺を寄せて汚物を見るような顔をしている。これはダメだ。午後から親睦を深めるためのBBQ大会だっていうのに。
「みな実、その調子では二年で修了できない。来月中に必ず研究計画書を作成して提出するんだ」
「はぁ~い」
「わからないことがあったら遠慮なく質問するように。来る時間がないなら電話でもいい」
「わかりましたぁ」
本当にわかってるのか心配になる返事だ。気分屋で天然のみな実だからな。とはいえ、ちゃんと計算する子なのは知っている。だから最後の最後で帳尻は合わせてくると思う。
みな実とのやり取りを聞いている間に、コンロのエスプレッソメーカーが蒸気の残りをブスブスと音を立てて吐き出し始めた。どうやら完成のようだ。景織子さんとみな実のカップに出来立てのエスプレッソを注ぐ。香りはさっきより大人しい。ちょうどいい焙煎ができた。
「最後に学生君、キミの研究テーマを発表する」
「はい!」
といっても僕はまだカウンターの内にいるのだけれど……。
「彼のテーマは、“オーパーツが文化・歴史与えた影響について”だ」
「オ、オーパーツですって!?」
「そうだ、有紀。オーパーツだ」
「そんなオカルトな研究テーマで大丈夫なんですか?」
「オカルト?」
「だってそうじゃないですか! オーパーツっていったら怪しげな出土品のことですよね?」
「オーパーツは実在するよ」
「どうせ誰かがねつ造した出土品でしょ、フン。あたし、オカルトとかそういうのが大嫌いなので」
岩倉さんがいつになく熱い。メガネをチャっと指で上げると、景織子さんをキッと睨みつけた。その間でみな実がオロオロしている。
しかし岩倉さんは大のオカルト嫌いか。うーん……原理原則を知ったら卒倒するだろうな。
「そういう怪しげな物まで含めて彼には科学的、文化的、考古学的に分析してもらう。インチキならインチキで構わない。オーパーツなどただのインチキだったという科学的証明ができるわけだからな」
「……ああ、なるほど。そういう考え方なら理解できるわ」
「ということだ……学生君、がんばり給え」
「は、はい!」
突然振られて対応に困った。
「ところで常盤井先生、試作の汎用型AIをデータセンターの中で展開したいのですが……」
岩倉さんと景織子さんが研究の本題に入ってしまった。こうなると完全に二人の世界になる。僕とみな実は蚊帳の外だ。ついていけない。
気が付けば一時間以上、二人は話し込んでいた。その間、僕とみな実は雑談して時間をつぶしていた。そんな会話をここでしていると、また岩倉さんに怒られそうだけどね。
「今日はBBQで懇親会だろ?」
「うん」
「お前、岩倉さんと仲良くしたらどう?」
「私は別に仲良くしてるつもりだけど。それよりまさひこ君、あの金髪の子は?」
「……あ、ああ、あの子ね。まだ家にいるけど、それがどうかした?」
「二人だけなの?」
「う、あ、うん。今ちょうど母さんがドイツに出てるからね」
「ふーん……アヤシイ」
「怪しいわけないだろ!」
いや実際は外から見たら十分怪しい同棲だよな。
「ま、いいわ。後でまさひこ君の家に遊びに行くから」
「お、おう、別にいいけど。近所だし」
そう、みな実の家と僕の家は幼馴染だけあってかなり近い。ゆっくり歩いても五分くらいで着いてしまう。しかし、今来られるのは正直危ない気がする。イデアの連中と鉢合わせしたらみな実を巻き込んでしまう。
「では諸君、今日は昼からBBQ懇親会だ。肉と酒で昼間から盛り上がろうじゃないか!」
景織子さんが大きな声で音頭を取った。それを合図にメイドさんたちがたくさんの食材を持って現れた。いや、食材だけじゃない。お酒もたっぷりとある。ビールにワインに日本酒まで……。これは危ないな。昼間から酒盛りとはね。景織子さんはお酒を飲めるのだろうか? 僕は強くはないけれど人並みには飲める。
皆で食材やらお酒やらを抱えて運ぶ。炭や網はもう景織子さんが屋上に用意してくれているそうだ。
◇ ◇ ◇
二時間後。昼間から学術棟の屋上で飲めや歌えやのBBQ懇親会が始まった。極上の常陸牛を焼きながらビールを飲む。最高過ぎて笑いが止まらない。こんな贅沢をして許されるのだろうか。
最初は渋い顔をしていた岩倉さんも、肉の魅力には敵わなかったようだ。赤ワインを煽りながら常陸牛を頬張っている。みな実は直ぐに酔うくせに強い日本酒を飲みたがるので、開始三十分もしないうちに顔が真っ赤だ。景織子さんはというと……実はすごく酒に強いらしく、ワインを何杯飲んでも平気な顔をしていた。
「景織子さん、昼からこんなことして大丈夫なんですかね?」
「なぁに、たまにはこういう息抜きも必要だよ、フフフ」
皆で他愛のない話をしながら肉をつつき、酒をあおる。夕方になる頃にはすっかり肉はなくなり、ちょっとした酒の肴をメイドさんたちが作って持ってきてくれた。つまみながらゆっくり話をする。
岩倉さんとみな実は、酒の力でお互い本音を出し合って半分喧嘩腰で言い合っていた。でも最後には女同士打ち解けたみたいで、二人揃って仲良く床に寝込んでしまった。春とはいえ屋外は陽が沈むと寒くなる。気を遣った景織子さんが二人に毛布をかけていた。
「それにしても景織子さんがこんなアウトドアのイベントが好きだったなんて」
「意外だったかい?」
「い、いえ……いつも部屋にこもっているイメージしかなかったので」
「原理原則の護衛役をアイツから引き継ぐ前、私はフィールドワークが大好きだったんだ。だから本音をいえばこの建物から、いや、この敷地から直ぐにでも出たい。あちこちゆっくりと旅行をしたい」
「やっぱり出られないのは辛いですよね」
「この間、キミを助けに行った時のように、短い時間なら出られないことはないがね……できれば日帰りでもいいからどこか旅行に行きたいものだよ」
「や、やっぱり出かけるのは無理なんでしょうか?」
「難しいだろうな」
「涼華さんや涼音さんが居ても?」
「リスクは高い。モノがモノだけに危険は冒せない」
「じゃあ理事長先生に任せて……」
「アイツには別の仕事がある。忙しすぎて無理だろう」
「で、でも一日くらいなら……」
「いや、いいんだ。アイツに頼むくらいなら、私は出かけられなくてもいい」
「随分と理事長先生のことを嫌っているんですね。一体何があったんですか?」
「いずれキミには話す。でもまだその時じゃない。すまないな、これ以上は聞かないでくれ」
景織子さんの懇願するような表情に、僕は何も言えなくなってしまった。だったら理事長先生に直接聞いてみるしかないのか。
日が完全に沈んでますます冷え込んできた。意識を睡魔に持っていかれているみな実と岩倉さんを、メイドさん達が研究室まで運んでくれた。
僕と景織子さんは夜風に当たりながら、白ワインを飲んでいた。もう二人とも結構酔いが回っていい感じに出来上がってしまっている。
景織子さんの陶器のような白く透明感溢れる顔色も、今はほんのりピンク色に染まっている。そういう僕もワインの前に飲んだ日本酒のせいで、かなり理性が緩くなっている。今なら酔いに任せて聞けるかもしれない。
景織子さんの隣に座る。二人並んでキャンパスを見下ろしながらワインをちびりと飲む。
「その左手の指輪の人って、誰なんです?」
「……」
しばらく返事がないので隣を見ると、なんと景織子さんは寝ていた。そしてゆっくりと僕に寄りかかってきてしまった。どうやら僕の質問を聞く前に彼女は寝てしまったらしい。残念。
だけど僕はしばらくの間、役得だった。何せあの景織子さんが僕に寄りかかって寝ているんだ。幸せな時間だよ。BBQもお酒も楽しい会話もよかったけれど、今が最高にいい。夜風に吹かれながら景織子さんが僕に密着して寝息を立てている。
もう二度とないかもしれないので、寝顔を見ておこうかな。と、景織子さんの顔に自分の顔を近づけた時だった。彼女の寝言が聞こえた。かすれるような寂しげな声で。
「行かないで……お父さん……」
若くして亡くなったという景織子さんのお父さんの夢でも見ているのだろうか? そういえば景織子さんの家族の話を僕は全然聞かない。あの“ぶっちゃけお喋り”の涼音さんからも、聞いたことがない。人の家族を詮索するのが趣味なわけじゃないけど、かなり気にはなっている。景織子さんのことなら何でも知っておきたいと思う。これからまさに運命共同体になるんだからね……。
その時だった。ふいに人の気配を感じた。顔を上げると金髪蛍光ピンクがいた。涼音さんだ。
「あっ……もしかしてボクお邪魔だった? もうキスとかしちゃったの?」
「してません!」
「何だよーまだしてないのかよー。今ならやりたい放題だぞ。ほらほらぁ」
「するわけないでしょ!」
「エッヘヘヘ、冗談冗談」
涼音さんはBBQの間、どこにいたのだろう。きっとまた近くで僕たちを護衛していてくれたに違いないよね。
「ところで涼音さんは景織子さんのお父さんって知ってます?」
「……ボクが生れて、常盤井の家に奉公した時にはもう亡くなってたから直接は知らないよ。お姉ちゃんなら少しは知ってると思うけど、ボクも景織子ちゃんのお父さんの話って聞いたことはないかなぁ」
涼音さんでも知らないのか。この辺も理事長先生に直接聞くしかないみたいだ。緊張するから会いたくなかったけれど、これはもう会わないわけにはいかないな。