第十七話 左薬指の思い人
「もう一つの質問は何だ?」
「あ、え、……何でもないです。やっぱりそれは次でいいです」
「そこまで言われると気になるじゃないか。いいから遠慮しないで言い給え」
「じ、じゃあ遠慮なく。……景織子さんはどうして左手の薬指に指輪をしてるんですか?」
あの景織子さんが一瞬たじろいだように見えた。これもやっぱりしちゃいけない質問だったのかな。だけど返ってきた答えは衝撃的だった。正直にいえば質問したことを僕は深く後悔した。
「……心に決めた人ができたからだ。指輪はその証だ」
―――だ、ダメだ。今日もいろいろあったけれど、今のが一番ショックが大きいよ。目の前が真っ暗になった。景織子さんに好きな人……そんな馬鹿な。一体どんな人なんだろう、景織子さんの思い人って。きっと超イケメンで金持ちの実業家とかそういうエリートなんだろうな。
ショック過ぎて思わずバランスを失う。僕はベッドに倒れ込んでしまった。
「ど、どうした、学生君! しっかりするんだ!」
「どうされましたか?!」
涼華さんの声が割って入ってきた。ああ、彼女もドアの向こうで待機してくれていたのか。至れり尽くせりだ。だけど今日はもう動く気がしなくなったよ。
「い、いえ、何でもありませんよ。それより涼音さんは大丈夫ですか?」
「はい、瑞流様のおかげで元気なものです。研究室で待たせてあります。今日は二人ともわたくしがお送りしますね」
「ありがとうございます。……あ、そういえば明日のBBQの肉! まだ買ってませんよ!」
「大丈夫ですよ。わたくしが後で寄っていきますから」
外はもうすっかり日が暮れていた。カフェには岩倉さんの姿がなかった。バイトということで先に帰ったらしい。彼女が研究以外に時間を割くなんて……どんなバイトなんだろうか。明日、会ったら聞いてみよう。
僕と涼音さんは涼華さん運転の白いモンスターカーに乗り込む。助手席は僕、後部座席に涼音さんだ。
景織子さんが見送りにきてくれた。自然と目が左手の指輪にいってしまう。エンゲージリングのようにシンプルな指輪だから決してオシャレや見栄のためではないとは思っていたけど、まさかあんなにはっきり言われるなんて。涼華さんの話しじゃ、景織子さんに恋人はいないハズだったのに……。
「学生君、何をボーっとしている。やはりどこか痛むのか?」
「い、いえ、何でもありません。今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。明日は午前中にゼミをやる。常盤井研究室メンバーは全員集合だ。午後からBBQ大会と決め込もうじゃないか」
「はい、楽しみにしてます!」
「うむ、では気を付けてな」
白いGT-Rが唸りを上げる。だけど今日は穏やかなスタートだ。ゆっくりと滑らかに路面を進んでいく。
「……瑞流様、やはりお加減が優れませんか? 心なしか元気がないように見えますけど」
「いえ、体は大丈夫です」
「では心の方でしょうか? ショックが抜けないとか混乱があるとか?」
「いえ、さっきの事件のことは大体理解できましたから。僕だけが平和ボケしてたってことです。まだ原理原則がどれほど大きなものか、ちゃんと覚悟ができてなかっただけですから」
「では他に何か気がかりでも?」
キキッと小さな音を立ててブレーキが利く。赤信号だ。横断歩道を渡るお婆ちゃんがライトに照らされる。
「……その……いえ、特には」
「わかった! 景織子ちゃんのことでしょ?」
後部座席から涼音さんが元気よく会話に喰らいついてきた。しかも図星ってところがこれまた怖い。まさか心を読む原理原則とかそういうのまであるんじゃないだろうな。使われたら一番嫌な法則じゃないか。きっと第三の禁忌の扉に違いない。
「そうなのですか、瑞流様?」
「え、あ、まぁ……何というか、その」
「以前にも申し上げましたが、わたくしは瑞流様の味方です。どうぞ遠慮なく」
「そぉだよ! 言っちゃえ言っちゃえ! 和彦ちゃんが景織子ちゃんのことを愛してるって!」
「ブッ!」
僕が噴き出すと同時に青信号に変る。涼華さんの右足がアクセスを踏込む。唸るエンジン音にかき消されないほどの大声で涼華さんが言った。
「お嬢様と何かあったのですか!?」
「以前、景織子さんに特定の相手はいないって言ってましたよね?」
「はい。それは間違いございません」
「でも、さっき左手の指輪の理由を聞いたんです。そしたら心に決めた人がいるってハッキリ言ってました」
「うそぉ! マジでぇ?!!!」
涼音さんがまたも乱入してきた。軽やかにシフトチェンジをしながら涼華さんが反論する。
「恋人や許婚はおりません。それは保証いたします。でもまさかお嬢様に特定の思い人がいるなんて……」
「やっぱり涼華さんも知らなかったんですね」
「初耳です。わかりました、今夜お嬢様に問い質してみます」
「と、問い質すなんてそんな……さりげなく聞いておいてくれればいいんですけど」
「いいえ。このままではわたくしが瑞流様に誤った情報をお伝えしたことになります。」
この人の生真面目さというか堅さというか。妹さんとはまるで反対だよなぁ。
「でもおっかしぃなぁ。ボクの知っている限り景織子ちゃんの周りには男は居ないハズなんだけどなぁ……ボクの知らないところで、何かしてるとは思えないんだけどなぁ」
むぅ、涼音さんは景織子さんの保護者かよ。
涼華さんがさらにアクセルを踏込む。涼音さんも僕も加速でシートに押し付けられる。さらに首がもげそうになるくらいの横Gが加わる。前より攻撃的な走りに変わっている。涼華さん、もしかして怒ってるのかな?
「瑞流様、姉の私より感謝申し上げます。扉を開いてまで妹の命を救ってくださったこと……姉妹で一生かけて恩をお返しして参ります」
「涼華さん、大げさですよ。扉を開くとか僕にはわかりませんでしたし……まぁ、とにかくみんな無事でよかったですよ」
「和彦ちゃんはやっぱり景織子ちゃんの見込んだ通りの人だね」
「そうね。涼音、しっかり警護を頼むわね」
「ラジャー!」
雑談をしているうちにあっという間に家に着いた。が、僕は家の門の前に立って思った。原理原則の強力な使い手が襲ってきて、この家ごと消されたりはしないのだろうか? あれこれ考えたら怖くなってきた。仮に僕がイデア側の使い手だったら、住所のわかっている相手なんて、原理原則を使えば殺したり誘拐したりは簡単にできる。
「どうしたの?」
「ちょっと心配になって」
「警備のこと?」
「そうです。強力な使い手に家ごと消されたら……」
「それはないよ。だって和彦ちゃんが寝てる間にボク、めっちゃたくさん罠張っておいたから」
「罠? そんなことして大丈夫ですか? 近所の人とかまで巻き込まないですよね?」
「原理原則を使った人にだけ反応する罠だから大丈夫だよ」
「そんなのがあるんですか?」
「はい。涼音にしかできないいくつかの法則を組み合わせた複合トラップです」
そういう使い方もできるのか。理屈は相変わらずよくわからないけど、追々景織子さんに聞くとしよう。とにかく家ごと一瞬で消されることがないのなら安心だ。
涼華さんは僕らを玄関前に降ろすと、また強烈なエンジン音で前の車を煽りながら走り去っていった。断言しよう。彼女は絶対に走り屋だ。“湾岸の魔神”とか“峠の獅子”とか二つ名が付いていそうだ。あの勢いで旧市街の肉屋に車を横付けするのか。静かな空気の常陸太田の街中では、それだけで話題になりそうだ。
その晩は、涼音さんが気を回してくれていた。お風呂に洗濯はもちろん、掃除までテキパキとやってくれた。メイドというより家政婦みたいに使ってしまって、申し訳なかった。けど、涼音さんは「助けてくれた恩人なんだから、今日くらいは好きなようにやらせてよ」と照れながら言った。僕は涼音さんに恩を着せるつもり何てサラサラないけど、彼女の気がそれで済むならいいと思う。
一通り掃除が終わった後、涼音さん特製の珈琲を淹れてもらった。リビングで二人向かい合って珈琲を飲む。一口含めば鼻に抜ける濃厚な香りが、僕の心を元気にしてくれる。そう、涼音さんの珈琲は彼女の性格を現したように、飲む人を元気にしてくれる。
「和彦ちゃんは本当に凄い哲学者になると思うよ、ボク……」
「景織子さんには適性があり過ぎるって言われたけど」
「……そうだね。きっと和彦ちゃんは博士にもなれる素質があるんじゃないかな」
「それって……」
「うん、まぁ頑張って! 今はボクが守ってあげるから、強くなったら今度はみんなを守ってあげてよ。それと景織子ちゃんのこともね」
「ありがとう……でも景織子さんには守りは必要ないんじゃ」
「そういう意味じゃないよ。人間として、一人の女性としてってことだよ」
「……でも、守ってくれる人がもういるみたいじゃないですか」
「あっ! なになに?! まだ気にしてるの?」
「そ、そりゃあ気にしますよ!」
「別にいいじゃん、景織子ちゃんに思う人がいたって。和彦ちゃんの心は変わらないんでしょ?」
「……」
涼音さんに言われて、改めて気が付かされた。自分が景織子さんに憧れる気持ち。そればかり突出してしまっていた。だけど僕の思いは一つ。景織子さんやみんなの期待に応える。原理原則を早く覚えて、今日みたいなことにならないようにするってことだ。それを目指してひたすら突き進んでいく。覚悟はもう決めたんだ。迷うことはない。
「ありがとうございます、涼音さん」
「なぁに? 改まって」
「自分の迷いが涼音さんの言葉で晴れました」
「うん、よろしいよろしい、アハハハ」
そう笑うと、いつもの涼音さんに戻っていた。ちょっと僕に遠慮がちになっていたよそよそしい涼音さんはやりにくい。僕をいじってくれるよきお姉さん。そのキャラでいてもらわなきゃ困る。見た目は妹だけど。
「んー、でもね、涼華お姉ちゃんじゃないけど、ボクも景織子ちゃんに聞いてみるよ」
「何をですか?」
「その思い人ってのが誰か」
「いいですよ、そこまでしてもらわなくても」
「ええ~、でもやっぱり気になるよ!」
「そ、そりゃあそうですけど。でも景織子さんが誰を好きでも僕は変わりませんから」
「よく言ったね! その男っぷりに免じてボクが今聞いてみるよ」
へ? 今聞くって……
涼音さんはメイド服のポケットからスマホを出すと、躊躇うことなく景織子さんに電話していた。まさかここで本人に電話するとは思わなかった……ど、どうなってしまうんだろうか。
「あっ、景織子ちゃん?」
『涼音か。何かあったのか?』
「ずばり聞くよ」
『何だ?』
「景織子ちゃんの思い人って誰?」
『なっ……』
スマホの向こうから景織子さんの焦る声が聞こえてきた。いつもクールで冷静な彼女の取り乱す声を、僕は初めて聞いた。完璧超人の景織子さんが焦る声はちょっぴり可愛かった。だけどやっぱり思う人の事は秘密だったのかな。涼音さんや涼華さんに話したのはまずかったかもしれない。
「早く言っちゃいなよぉ、ほらぁ! 左手薬指の指は誰に対しての決意なの?」
容赦ない押しの一手。僕に対してもいつも遠慮がないけれど、それは景織子さんに向かっても同じなんだな。あの景織子さんに向かってここまで……ハッキリいって凄い。彼女をたじろがせることができる唯一の存在なのかもしれない。
『……そ、それは』
「うん……それは?」
『き、今日はもう遅い。私は寝るぞ。学生君の警護をしっかりな』
逃げるようにスマホが切れていた。
「あー! 逃げたな景織子ちゃん。明日、絶対に白状させてやるぅ」
「ま、まぁいいじゃないですか……」
「よくないよ! このままじゃモヤモヤして眠れないじゃない」
そういう問題じゃないと思うけどな。
その後、涼音さんと他愛のない雑談で盛り上がった。こういうさりげない会話も涼音さんはリードするのが上手い。話し上手でもあり、盛り上げ上手でもあり……。景織子さんがついつい押し切られてしまうのもわかる気がする。
「しっかし……和彦ちゃん、大学でボクのことどうして親戚って言ったの?」
「いや、なんか面倒なことになりそうだなって思ったんで。でも涼音さん、“性奴隷”はないでしょ!」
「いや、ボクはもっと面白くなりそうだなって思ったんで……エヘヘ、ゴメン。調子に乗り過ぎた。あのみな実って子、結構勘が鋭いからバレちゃうかもって思ったんでしょ?」
確かにそれもある。だけど理由はそれだけじゃない。みな実は“歩く拡声器”でもあるから、彼女に勘繰られるとウワサに尾ひれがついて大変なことになる。サークルをたくさん掛け持ちしてるし、いくつかのアルバイトやらで、顔もかなり広い。そして秘密を守ることが苦手でゴシップ好き。一番ばらしちゃいけない相手だよ。
にしても……岩倉さんとみな実、もう少し仲良くできないものかな。あの二人、完全に水と油だもんなぁ。間に挟まる僕の身にもなって欲しい。
珈琲を飲み終わると深夜二時を過ぎていた。夜更かしし過ぎだ。自分のベッドに横になると、今日の出来事を思い出す間もなく、直ぐに眠りに落ちていた。