第十四話 買い出し
その時だった。ポケットのスマホがブルブルと振動した。同時にテーブルの上に置いてあった景織子さんのスマホもビービーと高い振動音を立てている。この振動はメールだ。二人に同時に着信。ということは共通の知り合いから送信されているのかもしれない。
ちなみに研究室にスマホ持ち込み禁止令をすっかり忘れていた。みな実や岩倉さんがちゃんと守っているのに、僕だけ例外ってのも示しがつかない。後でちゃんと皆に事情を話しておこう。景織子さんの方を見たら、「仕方がないな」みたいな表情をして肩を竦めていた。
「みな実からかもしれません」
岩倉さんはまだカフェにいる。涼華さんや涼音さんも学術棟の中にいるはず。みな実だけは外だ。何かあったのかもしれない。あのハンチング帽の高橋とかいうジャーナリストの事もある。心配だ。
急いでメールを開く。するとそこには、人の心配をよそに能天気なみな実のメッセージがあった。
『やっほー、景織子さん、まさひこ君、まだお話中ですか? そろそろ研究室の親睦を深めるイベントをしたいと思います。でも岩倉さんは飲み会とか嫌いみたいなので、学内でBBQはどぉかな?』
直ぐに返信すべきか迷っていたら、景織子さんの方が行動が速かった。メールどころか直ぐに電話をしていた。
「みな実か? 私だ」
どうやらみな実に繋がったようだ。
「うむ、わかった。そうだな。有紀の方は私が説得しておく。食材はこちらで揃えておこう。楽しみにしている。では明日」
あっさりと景織子さんは電話を切っていた。話はまとまった、みたいな感じの終わり方だったけど。
「というわけで明日は研究室でBBQ大会だ。強制参加だから覚悟しておくように」
「え?! 学内で、ですか?」
「そうだ。場所ならある。学術棟の屋上を使えばいい。見晴らしもいいし周囲の目を気にする必要もない。明日は天気もイイらしいから絶好のBBQ日和だよ」
そう言って景織子さんは笑っていた。すごく嬉しそうだった。まさかこんなイベントが好きだったなんて意外だ。みんなでワイワイやりながら肉をつついて食べる―――景織子さんの静謐な佇まいからは、想像もできないんだけど。
「そこでだ、キミにお願いがある」
「は、はい、何でしょう?」
「BBQの材料だが……あいにく肉を切らしてしまってな。買い出しに行ってきてくれ」
「それならお安い御用です!」
「涼音を一緒に行かせよう。大学の近所に常盤井行きつけの肉屋がある。そこで常陸牛を選んできてくれ」
ひ、常陸牛! 今や茨城県を代表するブランド牛になってすっかり全国区になっているけど、あれは本当に美味しい。他の牛肉にはあまり感じられない甘味とコクがある。味には特にうるさくもない僕だけど、あの肉の美味しさはさすがにわかってしまう。家じゃ高くてあまり食べられないけどね。常陸牛でBBQか。この研究室に入ってよかった、なんて食い意地の張ったことを考えていた。けど、お金はやっぱり割り勘ってことなんだろうか?
「肉屋には貸しがある。常盤井家のツケで通じる」
やはり名家は違う。さすがだ。
「ではよろしく頼む。涼音は今、エントランスにいるからそのまま連れ出してくれればいい」
「わかりました。美味しい肉を選んできますよ」
景織子さんはフフフと自然な笑みを浮かべた。作り笑いじゃない、愛想笑いでもない。とっても綺麗な笑顔だった。
会議室から出て、ドアをパタンと閉めようとした時、涼華さんが廊下に立っていたのに気が付いた。もしかしてこの人、ずっと景織子さんのことを待っていたのかな?
「あ、昨日はどうもありがとうございました」
「いいえ。それよりも妹の件、申し伝えることを忘れてしまい、すみませんでした」
「なかなか個性的な妹さんですね」
「ご迷惑でなければよいのですが……」
「滅相もない。楽しく過ごさせてもらってます。ボディガードですもんね、僕の」
「妹がお役に立てないようなら直ぐにおっしゃってください。他の者に直ぐ代えますので」
あいにくだけど、代えてもらうつもりは毛頭ない。涼音さんの料理は素晴らしいからね。常盤井家の料理を陰で支えているのは涼音さんだという話も聞いている。あの名家の料理を毎日味わえるなんて、誰が一体手離すっていうんだ。手間暇かけられた手料理の美味しさを今さらながら感じている。実の母親じゃなくて会ったばかりのメイドさんに感じるっていうのも、ちょっと悲しいものがあるけど。
涼華さんは話し終えるとそのまま会議室の中へ入って行った。ドアをパタンと静かに閉めると、ゴシック様式の豪華絢爛な廊下に僕は一人取り残された。
と、直ぐに会議室から声が聞こえてきた。立ち聞きするつもりなんてなかったけれど、聞こえてきてしまったものはしょうがない。いったん聞き始めると最後まで聞きたくなるのが人情だ。
「涼華、彼の事をどう思う?」
「異常です、普通ではありません」
「……やっぱりそう思うか」
「はい。あまりにも原理原則に適応し過ぎています。まさに原理原則の申し子といってよろしいかと」
「だろうな。説明を一度聞いただけで、火球を出してテーブルに穴をあけるほどだ」
「あの火球を出せるようになるまで、わたくしは一年かかりました」
「そうだったな」
「おそらく三ヶ月で学士、一年未満で修士になられる素質をお持ちです。天才とは瑞流様のような方の事をいうのでしょう」
へっ!? ……「平凡の権化」、「歩く平均点」のこの僕が天才だって?! うそだろ?
涼華さんと景織子さんの話は衝撃的だった。立ち聞きを止めて直ぐに涼音さんのところへ行こうと思っていたけれど、これじゃ無理だ。申し訳ないと思いつつ、最後まで聞くことにする。
「やはり危険性はあるでしょう」
「そう、だな……あまりにも修得が早いと原理原則の力に飲まれてしまうかもしれない。彼の人柄や価値観を見ればそれはないと信じたいが」
「ええ。ですが人は脆いもの。力を得ればそれを誇示したくなるのが自然な心理です」
「その辺りも含めて彼には協力を願うしかない」
「はい。わたくしも瑞流様を信じております。」
「もう一つの危険性もある……扉を開いてしまわないか、だな」
「はい。全力で瑞流様をサポートさせていただきます」
「マリヤの二の舞はもう絶対にごめんだ」
「はい」
危険性? いったいどんな危険があるっていうだろうか? それにマリヤって一体誰のことだ? 扉を開くってどういうことだろう?
二人の口調がどんどん苦しいものに変わっていったので、傍耳を立てている僕も気まずさと罪悪感が好奇心を上回ってきていた。そろそろ退散することにする。
長い長い廊下を抜けてカフェに戻る。岩倉さんが背筋をピンと伸ばして珈琲を飲んでいた。もちろん論文片手にだ。この人は休むってことを知らない。
「もう話は終わったのかしら? 途中であの赤縁メガネが出てったから直ぐに終わると思ったけど、随分と長かったのね」
「うん、まぁちょっとね」
「常盤井先生は?」
「今涼華さんと話してるみたい」
「あっそう。じゃまた今度にしようかしら」
「でも景織子さんは岩倉さんに何か話があるって言ってたよ」
「あたしに話? ふーん……わかった、ありがとう」
この後、景織子さんが岩倉さんに明日のBBQのことを告げるはずだ。
岩倉さんは直ぐに僕から目線を論文の紙面へ向けた。彼女の研究熱心さにはいつも頭が下がる。考えてみれば講師を打ち負かすほどの博学ぶりだ。まぁ、それもこうして毎日勉強してるから、ってことか。やっぱり努力し続ける天才にはどう逆立ちしたって敵いっこない。
「じゃ、僕はちょっと用事があるから、また後で」
論文から僕の方へチラリと目線を移しただけで、彼女は返事をすることはなかった。
学術棟のエントランスに行くと金髪の蛍光ピンクがいた。渋谷の雑踏の中でも絶対に間違いようのない人。涼音さんだ。
「ヤッホー、和彦ちゃん! 景織子ちゃんのレクチャーは終わったかな?」
「え、ええ……」
「じゃ、お肉買いに行こうか」
そういえば涼音さん、今まで何処にいたんだろう? そして既に情報が伝わっている。景織子さんとずっと一緒にいたけれど、彼女が涼音さんに電話をしたりメールをしたりする姿を見ていない。みな実に一度電話したっきりだ。青沼さん以外とは接触もしていない。
「あっ! なんでボクが買い出しのこと知ってるのかって顔してるぅ」
図星だ。鋭い。
「景織子ちゃんと和彦ちゃんが話してた隣の部屋にボクいたんだもん。でね、あの部屋って実は隣の会議室に声が全部筒抜けなんだよ、アハハ」
「は、はぁ……どうして筒抜けなんですか? 壁が薄いんですか?」
「和彦ちゃんには壁があるように見えたんだ~」
何を言ってるんだこの人は。あの部屋は全面が無機質な壁だったはずだ。いやもしかして原理原則で壁を出現させたとか?
「あそこはね、壁に見えてパーティションなんだ。本当は大きな一部屋を作るつもりだったんだけど、二部屋でも使いたいって後から無理につけたみたい。だからちょっと防音がイマイチなんだよね」
「な、なるほど」
オチがあまりに普通過ぎて、笑ってしまいそうになった。僕が景織子さんと訓練している間、涼音さんと涼華さんが護衛として隣の部屋でスタンバイしてくれてたってことか。ありがたい話だ。
僕と涼音さんはキャンパスを抜け、常陸太田市の旧市街地の方へ歩いて出かけた。自転車を使おうといったら、「和彦ちゃんは遅いからなぁ」と却下されてしまった。僕が遅いっていうか涼音さんが速すぎるんだけどね。それに両手に肉を抱えるなら自転車はちょっと不便だし、歩きの方がいいのかもしれない。
歩きながら話をする。涼華さんと話す時は緊張するけれど、涼音さんとなら完全に友達感覚。話はしやすい。ついつい調子に乗っていろいろ聞いてしまうけど、“扉を開く”とかマリヤって人のことは聞かない方がいいのかもしれない。理事長先生と会った時に聞いてみようかな。
「ねぇ、景織子ちゃんのどこに惚れてるの?」
「ブッ……」
僕はまた飲んでもいないエア珈琲を噴き出してしまった。歩き出しの開口一番がそれですか。
「ぼ、僕は景織子さんに憧れているだけです。そんな惚れてるとか畏れ多くて……」
「はぐらかさない方がいいよぉ。じゃ聞き方を変えよう。景織子ちゃんの事、好きか嫌いか、どっち?」
「好きか嫌いかで聞かれたらそりゃ好きに決まってますよ! それは涼音さんだって同じでしょ?」
「はいはい、ボクの話しにすり替えないでくださーい」
完全にいたずらっ子の顔だ。もう僕をからかう気満々で話してきている。だったらいいじゃないか、応じてあげよう。
「じゃあ、景織子ちゃんを愛してる? それとも愛してない?」
「あっ、あいして……。って二択なんですか!?」
「そう二択。保留とか他の答えはなしね~」
ちょっと照れるけど当然答えは決まっている。
「……愛してます」
「あー、やっぱり惚れてるんじゃん!」
「だって二択で聞かれたらそうなるに決まってるじゃないですか!」
「アハハ、ちょっとからかって見ただけじゃん。ん~、でもムキになるところはやっぱりまんざらでもないって感じなんだねぇ」
……涼音さんと話していると大体の発言はいじられてしまう。けど不思議とこのやり取りも心地いい。つい昨日知り合ったばかりなのにこの人懐っこさ。心の壁を壊してどんどん入り込んで来る割にすんなり受け入れられてしまう彼女のキャラクターは、両親が海外に行ってしまって少し寂しくなった僕にとってもありがたかった。
「じゃあ聞きますけど、景織子さんはどういうタイプの男性が好みなんですか?」
「そんなの自分で聞きなよ~」
「本人に聞きにくいから涼音さんに聞いてるんじゃないですか」
「ボクの好みならいくらでも教えてあげるよ」
「涼音さんのは要りません」
「なんで即答なのさ! ボク、ショックだわ~」
「アハハハハ」
こんな他愛のないやり取りが涼音さんとの楽しみだ。料理上手で会話の楽しい護衛さんなんて最高だよな。まぁ怖い目に遭うのはもう真っ平ご免だけどね。