最終話 鳥太の答え
フィルシーさんは俺の手の甲に唇を落とした。ほんの一瞬の出来事だった。
手を離し、顔を上げ、長い睫毛をふわりと持ち上げる。クリーム色の瞳に映ったのは、共に戦う意思だ。
これまでフィルシーさんは一人でルッフィランテを支えてきた。経営の手腕は完璧だったが、トラブルを解決するための戦力が不足していた為、メイドさん達が働く先で辛い目に遭ったこともあった。そのたびに、傷ついていたのだろう。偶然転がりこんだ俺がルッフィランテの矛となり、喜んでくれていたのだと思う。
そして今、フィルシーさんはようやく、俺をルッフィランテの一員として認めてくれた。雇い主と雇い人という上下関係ではなく、共に支え合う仲間として。
フィルシーさんとメイド達、俺、すべての歯車が揃い、回り始めた。
誰にも負けない。俺は今から、女神から得た力ではなく、メイドさん達と築いた絆で戦おう。
胸の中に、新たな火が灯った。熱はじんわりと広がり胸中を満たし、トマト、ココナ、チズ、トイプから得たスキルの熱を、優しく包み込んでいく。これまで得たどのスキルとも違う優しい火だ。
直感した。
このスキルはおそらく、世界に一つしか存在しない。
元メイドで、ずば抜けた才覚を持っていたフィルシーさん。先代のオーナーからルッフィランテを引き継ぎ、メイドさん達を育て、世界でつまはじきにされていたメイドさん達を受け入れ、彼女達をルッフィランテという大きな輪の中に繋いできた。
かつて幼かった少女が紡いできた、メイドさん達の希望の光。それはきっと世界を変える力だ。
このスキルに名前をつけるなら、
『絆』
スキルの熱を右手に移動させ、俺自身に付与した。熱は胸の中に深く染み渡っていく。
これまで得た四つのスキル、防御壁、操作、加速、打突すべてが絆の熱に包まれ、大きな炎の輪となった。
その効果は説明されずとも、自然とスキルの熱が教えてくれる。
絆は、スキルの制限時間・制限回数を、自在に分配するスキルだ。
俺が今持っているスキルは五つ。
防御壁:三分間
操作:十五分間
加速:二秒間
打突:一回
絆:十五回(十四回)
これらを再分配した。
防御壁:二秒間
操作:三分間
加速:十五分間
打突:十五回
絆:一回(消費済)
ディークの攻撃スキルは直接脳に響くような衝撃だったので、おそらく防御壁では防げない。防御を捨て、最大火力の加速と、決定打となる可能性のある操作の制限時間を増やした。また、絆を残せば分配をやり直せるが、その選択は消極的だ。絆の制限回数も、攻撃スキルの打突に回す。
「新たなスキルを得たか、葉風」
ディークは冷気のような声で囁くと、それ以上は何も言わず、口を噤んだ。瞳に宿る冷たい炎は警戒の色を強めているが、少しも揺らいではいない。やや大きな手をダラリと持ち上げて、戦闘の構えを取る。
英雄マックはやや距離を取った場所で、拳を握った右手をまっすぐに伸ばし、ディークへと向けた。正拳突きを放った直後のような構えだ。おそらくこれは英雄がディークとの闘いで温存していた攻撃スキルの構えなのだろう。この一撃にかけるという英雄の表情から、威力の高さがうかがえる。
「無駄だ、英雄。貴様のスキルは私の反射壁と相性が悪い。貴様自身へと跳ね返るだけだ」
「前回と同じようにはいかん。私は自らのプライドを捨てでも、世界を守る為に拳を振う。若造、貴様が葉風との闘いで隙を見せたとき、幼稚な企みは幕を閉じる」
「好きにすればいい。葉風が私を追い詰めることなどないがな」
ディークは目を見開き、十メートルほどの距離から俺を捉えた。英雄に背後を向けているが、全視で見ているのだろう。英雄が放とうとしているスキルは、おそらくそれ単体では当たらない。俺がディークを硬直させる必要がある。
いや、どちらにしても俺が一対一でディークと対等に戦うことが勝利の最低条件だ。不確定の英雄のスキルを当てにせず、俺自身で勝つつもりで挑まなければ、ディークには勝てない。
――――加速。
ディークの瞳から視操発動の雰囲気を感じ取った俺は、切り札を自らに付与し、五メートルほど斜めに高速移動した。
これまでたったの二秒間しか使えなかった加速の制限時間が、十五分間に伸びた。このアドバンテージは凄まじい。この十五分間攻め続けることができれば、完全無欠なディークの布陣から綻びを見つけられるはずだ。
夜空に散る星々を思い浮かべ、金色の線でそれらを繋いでいく。脳内のイメージが加速発動のトリガーだ。思い描くのは、部屋中を飛び回る自由な軌道。一筆書きの線が開始点から終了点までを結んだ瞬間、体は稲妻のようにその軌道を辿った。
視界が一瞬で何度も切り替わる。天井、ディーク、英雄とディーク、床、フィルシーさんとトマト、部屋の角、リリアと白。
眩暈がするほどの高速移動を終えた後、ディークの背後で停止。――捉えた。
「……射程範囲内だ、葉風」
ディークはテーブル上のボタンでも叩くように、手首をスナップさせた。
衝撃を頭上に降らせる攻撃と直感した俺は、瞬間的に飛び退き、回避する。が、ディークは超絶技巧で鍵盤を叩くかのように、両手の指を空中で躍らせた。
一見でたらめにも見える動きだが、指先一つ一つが意図をもって動かされている。俺の頭上、攻撃を回避する先、攻め込むときに通るべき箇所、的確に狙いを定め、衝撃を降らせているのだ。
「くっ……そっ…………」
指先のわずかな上下運動が、殴るような威力の衝撃へと変わり、頭上から俺を襲う。十本の指で乱打されるそれらは、流星群のようだ。加速を使ってもすべてを避けることはできない。人間は頭上が死角になっている為、上からの攻撃は対応しづらいのだ。
それもディークの正確かつ高速な手の動きがあってこそだが…………。
永でほとんど体を動かせないディークにとって、指先のわずかな動きで攻撃できるというのは大きなメリットだったのだろう。だからわざわざ、この“使いにくいスキル”を熟練しているのだ。仮に俺がこのスキルを持っていたとしても、戦闘の主軸には据えない。なぜなら上から下への攻撃は、相手にとって“躱しにくい”が、自分にとっては“当てづらい”からだ。上から人間を見たときの面積は、頭二つから三つ分。水平方向の攻撃に比べると、的の大きさは四分の一程度だろう。普通なら動く相手に当てるだけでも至難の業だ。
けれど、全視により俯瞰で戦場を見ているディークは、正確無比に指を躍らせ、その衝撃を降らせている。ただスキルを組み合わせているだけではない、永を軸とした完全無欠の戦闘スタイル。“王”になる為に器を磨いてきたという話はおそらく本当だ。戦闘経験は年単位、俺の比ではない。
それでも、俺は残された十五分間で、ディークのスキルをすべて突破しなければメイドさん達を救えない。
ディークの指先の動きを見ながら小さなステップで躱し、呼吸のリズムを整える。
このスキルによる攻撃方法は二つ。手首をスナップさせる“強打”。そして、指先を躍らせる“軽打”。強打の方はギリギリ一発耐えられるくらいの重さだが、一発食らえば動きが鈍り、もう一発食らえば戦闘不能になる。
それに対し、軽打の威力は十分の一か、それ以下だろう。何発も食らうのは危険だが、数発なら耐えられる。
瞬時に戦術を考え、実行に移す。まずは両手で頭を覆うようにガードし、頭上からの攻撃を軽減。ディークへと続く金色の線を思い浮かべる。
――――加速
小刻みな移動を何度も繰り返し、少しずつディークとの距離を縮める。ディークの指の動きを読み、できるだけ安全なルートを選ぶ。
一瞬一瞬が判断の連続。一度でも失敗すれば視操につかまり、頭上からの衝撃が、流星群のように降り注ぐだろう。だからこそ、すべてを受け入れる覚悟で飛び込む。心は池の水面のように穏やかに、失敗も成功も考えない。ただ前を見て走り続けるように、進むべき一歩を、ひたすら繰り返す。
気付けばディークの背後を捉えていた。背中を覆う漆黒のマントが視界に入る。その黒布は、ディークの肩甲骨に当たる部分が微かに浮き出ている。
俺は途中で弱打を五発ほど受けたが、大きなダメージはない。第一関門は突破した。ここが、いわばスタート地点だ。ディークが振り向くのか、反射壁を使ってくるのか、指先の攻撃を放ってくるのか、さまざまな選択肢があり、ここからは駆け引きの勝負となる。
ディークの選択は“攻撃”だった。手首をスナップさせ、停止した状態から、さらにもう一度振り下ろした。二段階の攻撃だ。
俺は頭上から降る一つ目の攻撃を横移動で躱した。が、二つ目の衝撃を躱すことはできなかった。右足を打ち付けられ、踏み出そうとした動きが止まる。
そうして一瞬生じた隙に、ディークは反転し、俺へと向き直る。
冷たい瞳が銃口のような不気味さで俺に向けられた。
「――――鍵弾」
再び猛烈な勢いで動き出したディークの指先は、ドーナツ型のピアノでも弾いているかのように、ディークの周囲三百六十度を走った。
全方向に降り注ぐ無数の衝撃と、俺の動きを鈍らせる視操のコンビネーション技。この攻撃をすべて躱すことは不可能に近い。雨粒を避けるようなものだ。
この鍵弾を大量に浴びれば、体の動きが鈍り、視操に掴まる。そうなるとさらに動きが鈍り、鍵弾を浴びる。不のループの末には、敗北が待ち受けているだろう。これだけは避けなければいけない。
本来ならば『後退』の二文字が頭に浮かぶ場面だ。けれど、『自ら後退する』のと『後退させられる』のとでは意味が違う。相手の思惑通りに下がれば、さらなる追撃に襲われる可能性もある。
息を吐き、恐怖を振りほどき、冷静に状況を見つめ直す。
ディークが降らせている豪雨のような衝撃の粒が、硬質な床を叩き、高く鋭い音を響かせている。実際の威力以上に迫力があり、思わず気圧されそうになる。
けれど、俺の戦闘経験による直感は、紙一重でこの攻撃を耐えられると告げている。
メイドさん達を救う為に、フィルシーさんが育ててきた希望の光は、立ちはだかる闇に小さな穴を穿った。その一筋の光を辿っていければ、きっと未来を変えられる。
俺はその光を信じた。
鍵弾を躱すことは考えず、ディークへと攻め込む。金色のチーターは敵の牙が触れる寸前で、その喉元に食らいつくはずだ。
――――加速。
ディークの瞳が収縮し、俺の腹部を捉えた。視操のロックが完了する。
同時に、俺の右手がディークのみぞおちに触れる。
どちらが速いのか、俺自身も、おそらくディークすらもわかっていない。剣士同士であれば、全力で振り抜いた二つの刃が交差する瞬間だ。紙一重の差を決めるのは、長年培ってきた戦闘経験の差だけではない。思いの強さ。運の強さ。刀を抜いた本人たちにすらわからない何かがそこには存在する。
そして勝利の女神は、俺に微笑んだかのように見えた。
――――打突
その瞬間、ディークの右手がいびつな形の拳を握っているのが見えた。あらゆる攻撃を反射する防御スキル――反射壁。ディークは俺よりも一瞬早く鍵弾を解除し、防御に備えていたのだ。
バヂッッッッッッッッッッッッ!
打突が見えない壁に弾かれ、俺の体は背後に向かって吹っ飛んだ。跳ね返った衝撃で右腕の関節が悲鳴を上げる。
ダメージは計り知れない。打突は一撃で敵を戦闘不能にさせる威力のスキルだ。反射壁に弾かれた場合は、六割ほど威力で跳ね返ってくる。
けど、俺の攻撃はこれで終わりではない。俺は反射壁に弾かれるのを覚悟したうえで、打突を放っていたのだ。ダメージを負うのも仕方がない。どれだけ犠牲を払っても、完全無欠の防御――反射壁を突破しなければ、勝利は掴めないのだから。
体が宙を舞っている途中、加速で瞬時に立て直し、ディークの背後へ金色の線を走らせる。
壁に衝突寸前だった俺の体は、しかしぶつかることなく、ディークの背後へ瞬間移動した。
ディークの反応は素早い。体が反転し、青い瞳が俺を捉えようと、白目の中を横切る。瞳が収縮し焦点を絞る。視操のロックオンの挙動だ。
けれど、遅い。
俺はもう一度手のひらを突き出し、ディークの腹部に押し当てた。二発目の打突。
ディークに過った表情は、『なぜ無意味な攻撃を二度も行うのか』といういぶかしさだった。けれど、そのポーカーフェイスの下に隠された本心を俺は見抜いている。
特定の動きをトリガーとして発動するスキルは、どれも“回数制限”だ。手刀により斬撃・正拳突きにより打撃を繰り出す――透剣。指を鳴らすことで、音を聞いた人間の動きを止める――指鳴。俺は以前この二つと戦ったことがある。
反射壁も“回数制限”だとすれば、おそらく永による永続効果を受けない。永続効果が適用されるのは“時間制限”のスキルだけだ。この推測が正しければ、反射壁は十回~二十回で制限回数が尽きる。
再び打突を撃ち込み、反射壁に弾かれる。右腕のダメージが加算され、弾かれた体は壁に衝突しそうになる。
すかさず加速で接近し、間髪入れずディークの背に打突を撃ち込む。
勝利へ向かっている確信がある。だから、痛みは気にならない。繰り返す度に右腕の動きは鈍っているが、確実にディークの反射壁は一枚ずつ剥がれている。おそらくあと十二回か十七回。
徐々に思考速度が上昇し、加速の動きはスムーズになっていく。瞬き一つで進むべき道が見え、体は瞬時にその軌道を辿る。
十発、十一発、十二発…………。
ついに右腕が上がらなくなり、左手の攻撃に切り替える。打突は残りたったの三発、限界に近い。
けれど、捨て身の乱打はじわじわとディークを追い詰めていた。
ディークは俺の速さに対応できず、攻撃も防御も中途半端になっている。右手で放っている鍵弾は、両手を使用していたときの半分の威力だ。加速状態の俺はそのほとんどを避けることができる。ディークの瞳による攻撃スキル視操も、加速の力で振り切れる為、決定打にはなっていない。
つまり、今ディークに残されているのは、左手で発動している反射壁のみ。冷たい表情にも焦りが見え始めている。
十三発、十四発、十五発…………。
本来なら打突のスキルの使用制限が切れるところだ。けれど、俺はこの間、ディークの体に“触れるだけ”のフェイントを混ぜていた為、スキルはまだ五発残っている。計算通りだ。反射壁の制限回数が予想通り『二十回』なら、残りの五発で突破できる。勝利は目前。
十六発、十七発、十八発、十九発…………。
あと一発。
ニヤリ、とディークが口元を吊り上げた。目は大きく見開かれ、その笑みに不気味なニュアンスを添えている。
青い瞳が俺の腹部を捉え、収縮した。
「かかったな、葉風」
嵌められていたと直感したときには遅かった。
体が視操の視線に掴まれ、固定された。加速を使用しても身動きがとれない。
窮地に陥り、ようやく事態を察した。
ディークはこの土壇場で防御を捨て、全視を攻撃に使用していたのだ。動きが鈍ったように見えたのは、ディーク自身が体を動かすことを放棄していたからだ。
おそらく、あと一発で反射壁を剥がせるはずだった。もしここで戦闘が途切れたら、ディークは反射壁の代わりに別のスキルを付与するだろう。
そうなれば、俺に勝ち目はなくなる。俺が右腕を負傷し打突を失っているのに対し、ディークはまだ無傷だ。
ディークの目が一瞬、憐れむように細められた。その楕円の中で、青い瞳は高速で移動する。
捨て身の猛攻を紙一重で破られ、ディークの勝利で幕を閉じるのか。
メイドさん達の希望の光は、ここで途絶えるのか。
その問いに自ら首を振る。ハイリスクだが、まだ、わずかに可能性は残されている。
「くっ…………ぁあああっ!」
体が吹っ飛ぶ瞬間、左手を自分の太ももに押し当てた。
一歩間違えれば死ぬ。リスクにリスクを重ねる究極の選択だ。成功しても勝てる確率は限りなくゼロに近い。それでも、少しでも勝つ可能性があるなら、メイドさんを救う為なら、この体が再起不能になっても構わない。
「鳥太様っっっ!」
トマトの声が響いた。見なくても、顔面蒼白で叫んでいるのがわかる。俺はこの子に何度も心配をかけている。けど、これは最後の戦いだ。希望の光は、必ず繋げてみせる。
“自分の左足”に、最大級の攻撃スキル――打突を叩き込んだ。
バヂッッッッッッッッッッッッッッッ!
打突が俺の左足の骨を一瞬で粉砕する。同時に、その衝撃で体は真横の壁に向かって吹き飛び、視操による拘束から逃れた。
状況は先ほどまでと限りなく似ているが、俺の体が自由になっていることがポイントだ。この状態なら、加速を使うことができる。
ディークへ急接近。新たなスキルを付与される前に、最後の切り札を叩き込まなければならない。左手を突き出す。
「クッ!」
ディークは憎々しそうな息を漏らした。
けれど、その表情は瞬時に冷えきり、揺るがない冷静さを醸し出す。
おそらく、次の一手を考えている。けれど、ここでディークにできることなどない……はずだ。
しかし次の瞬間、俺の予想を超えた事態が起きた。
ディークが自らの足で地面を蹴り、五メートルほど横に飛びながら、俺の左手を躱したのだ。
ディークは永の制限で動けないはずだった。
事実、これまでずっと一箇所で戦っていた。全視は攻撃に使用している為、ディークの体を動かすことはできない。いや、それ以前に、この動きは全視の滑るような横移動とは異なる。
脳内の混乱が収束し、一つの答えが出た。
ディークは最大の武器である永を“解除”していたのだ。
冷静に考えれば、その選択は正しい。永を解除すればスキルの持続時間はカウントダウンされていくが、勝負はもう終盤で、戦況はディークに有利だ。俺は負傷し、スキルを使い切っている。それに対し、ディークは視操・鍵弾・全視・そして反射壁の代わりとなる新たなスキルを使用できる。
再び戦況はひっくり返った。ディークが新たなスキルを付与すれば、俺は敗北し、ルッフィランテの戦いが幕を閉じる。
「鳥太様っっっっっっ!」
トマトの声が再び耳に届いた。それは悲痛な叫びではなく、『がんばれ』と続きそうな熱が込められていた。いつだって俺の側にはトマトがいる。メイドさん達とフィルシーさんがいる。まだ、勝機はある。
目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。
周囲の音を頼りに、目を閉じたまま、ディークへの道筋を思い描く。余計な視覚情報をシャットアウトすることで、想像の中にいる金色のチーターはわずかに速度を上げるはずだ。その代償として、ディークの位置を正確に把握することは難しくなっているため、少しでも失敗すれば、まるで見当違いな場所へ飛んでしまうだろう。
目を閉じた暗闇の中には、金色のチーターとともに、トマトが浮かんでいた。
金色のチーターを手なずけ、手招きしながら進むべき道を示してくれている。
そうか。さっきトマトの声が位置を示してくれていたんだ。
トマトにそんな意図はなかったかもしれないが、偶然、あの声の反響がヒントになり、ディークの位置がぼんやりと脳裏に浮かび上がっている。
正真正銘、最後の一撃――――加速。
「馬鹿なっ…………」
俺の右手はディークの背中に触れていた。ディークは右手でいびつな拳を握り、最後の反射壁を発動した。しかし、それに意味はない。なぜなら、俺が最後に使用するスキルは、打突ではなく、操作だからだ。
相手の体の自由を奪う特殊スキル――操作。付与すれば対象は戦闘不能になる。唯一の欠点は、上限の五つスキルを付与されている敵に付与できない点だが、ディークはさきほど永を解除していたので、今付与しているスキルは四つだ。操作を付与する余地がある。
改めて状況を把握し、目を開いた。
勝利を目前とした高揚のせいか、部屋の景色は鮮やかに飛び込んでくる。
英雄がディークに向かって右手を突き出す。炎によって威力が倍増された最大火力の切り札だ。俺とディークが攻防を繰り広げている間、英雄はディークに隙が生じるタイミングをしたたかに待ち続けていた。この攻撃が決まれば、ようやく戦いが終わる。俺が操作でディークの動きを止め、英雄がトドメを刺す。再度確認しても懸念材料はない。この攻撃は確実に通る。
メイドさんを救うのは、俺だ。
――――付与。
ディークは敗北を悟ったように、ぼんやりと英雄の右手に視線を移した。やや長身の体から力が抜け、両手はダラリと垂れさがる。青い瞳に後悔はなさそうに見えた。信念を突き通した末の敗北だからだろう。こいつのした事は間違っていたけれど、この敗北により、ディークはようやく過ちを認めたようにも見えた。
英雄は突き出した拳を硬く握りしめ、歯を食いしばる。この動作だけで、スキルの威力が尋常ではないとわかる。世界の頂点に立っていた英雄の切り札。おそらく俺の打突さえも比較にならない威力だろう。確実に仕留められる。
「ご苦労だった。葉風殿…………」
英雄は突き出していた拳を鋭く引いた。通常の殴る動作とは正反対の動きだった。
正面からではなく、背後から衝撃が飛んでくるため、防御はほぼ不可能だろう。
英雄の拳が脇に収まったと同時に、大口径の銃を撃ったようなような音が、バンッッッッ! と部屋に反響した。
トマト、リリア、フィルシーさんが、息を飲む音が聞こえた。英雄が放ったスキルの音は、人を殺すに十分すぎるように聞こえたからだ。
その無慈悲な音が消えると、部屋は静寂に包まれた。
ドサッ…………。
スローモーションのようにディークの体が床に崩れ落ちると、人一人分の重みのある音が響いた。一瞬、その場にいる誰もが口をつぐみ、床に伏した黒服の男に視線を落としていた。
数時間前までは絶対に許せないと思っていた男だ。しかし、こうして戦いが幕を閉じると、誰も怒りを見せることはなく、悲痛な沈黙が漂う。
「すまない、加減をすることはできなかった。だが決闘と同じく、神聖な戦いで命を落とすことは名誉なことだ。ディークよ、安らかに眠れ……」
英雄は重苦しい表情で呟き、膝を折った。頭に拳を当て、祈るように目を閉じる。
世界を変える戦いは、いつだって多くの犠牲が生まれる。地球の戦争は、何千人、何万人の命が失われることも珍しくない。平和に暮らしていた人々や子供たちを巻き込み、多くの血が流れる。戦いに『革命』と名前をつけるなら、それが当たり前なのだろう。だから、たった一人が命を落としただけで世界が変わるのなら、犠牲は少なかったと言えるのかもしれない。
けど、この戦いでは、誰一人として命を落としていない。
世界のために戦った者は全員、明日を生きることができる。それが俺の選んだ道だ。メイドさん達のいる明るい世界に、誰かの死は似合わない。
「…………葉風……何をした……」
うつ伏せになっていたディークが、呟きながら、右手を床についた。雪溶けた冷水のように、その声はサラサラと耳に流れる。
ゆっくりと体を起こしたディークは、何が起きたのかわからないという表情で俺の顔を凝視した。
その場にいる誰もが驚いていた。死者に祈りを捧げていたマックは、膝立ちのまま、ポカンと口を開け、威厳のある顔を陽気なおじさんのように見せている。フィルシーさんとリリアは互いに知り合いではないはずだが、なぜか無言で疑問を交わすかのように、顔を見合わせている。白は顎と口元を右手で覆いながら首を捻り、トマトは『まさか……』という表情で俺を見つめた。
そう。俺が最後に使ったスキルは、『操作』ではなく、『防御壁』だった。
「正直、どっちを使おうか、一瞬迷ったんだけどな…………」
頭を掻きながら、どう説明すべきかと言葉を探す。そしてふと、戦闘開始前に交わした会話が蘇り、それを口にした。
「それが、俺の“答え”だよ。ディーク」
メイドさんの価値は何なのかと、ディークは俺に問い続けていた。おそらくディーク自身も薄々、自分の政策に懸念があったのだと思う。だからメイドをよく知る俺に、答えを求めていたのだろう。俺はすぐに答えを出すことができなかったため、こんな回り道をしてしまった。俺が伝えたいメイドさんの魅力は、言葉にできるものではなくて、ディークとぶつかり合うことで、ようやく示すことができたのだ。今、ディークは生きている。メイドさんのすばらしさは、命のすばらしさに匹敵する。ディークが納得してくれるとは思えないが、単純な言葉で言ってしまえば、そういうことなのだろう。
「ディーク、メイドはいつだって、誰だって、助けてくれるんだ。俺はメイド達に何度も助けられて、これまで戦ってこれた。出会ったばかりのメイドに助けられたことも、何度もある。執事が他人に冷たいとは言わないけどさ、俺が出会ったメイドはみんな、誰に対しても分け隔てなく優しかった。最後にスキルを付与する瞬間、考える前にそのスキルを付与したのは、そんなメイドのやさしさに触れてきたからだ。お前を救ったそのスキルは、そこにいるトマトから貰ったスキルだ」
防御壁はこの世界で俺が初めて得たスキルだ。俺が一番欲しかった、メイドさんを守るための防御スキル。けれど、そのスキルはメイドさんよりも、俺自身を何度も助けてくれた。そして、このスキルは一見上位互換のような反射壁より、優れているところがある。それは、メイドさんの魅力を表しているような利点だ。
「防御壁は周りの人間を傷つけない。たとえそれが敵であっても、同じ世界にいる人間を、むやみに傷つけたりはしないんだ」
フィルシーさんがトマトと目を合わせ、自分が育ててきたそのメイドさんの、赤茶色の髪を撫でた。トマトは照れくさそうにはにかみ、俺へ嬉しそうな目を向ける。これで少しは俺も、トマトから忠誠を誓われるに相応しい男になれた気がする。
トマトの隣ではリリアがふっと表情を緩め、静かに咲く桜のような笑顔を浮かべた。
「このような結末は我も予想していなかった。完敗であるな」
呟いた英雄が頬を緩め、厳格な表情を思いきり崩した。こうしてみるとハンバーガーショップの前に立っていても違和感のない、普通のオッサンに見える。この親しみやすさも市民からの人気の秘訣かもしれない。
つい数分前までの沈黙が嘘のように、穏やかな空気が漂っていた。
ディークは空色に透き通る青い瞳で、トマトを不思議そうに観察すると、晴れやかな顔を俺に向けた。
「葉風、こんな勝利の方法があるのだな。かつて戦いで敵を救った者など聞いたことがない。私には見えなかった世界がある。これからは、私の知らない価値観を探すことにしよう。……それと、メイドを排除しようとしていたのは間違いだった。メイドには執事とは異なる価値がある。こんな簡単なことに、メイドに命を救われるまで気付かないとはな」
「ああ、メイドの魅力を知らないなんて、世界の一%もわかってないのと同じだ。これから知ってけばいいさ」
ディークは前半の言葉に呆れた表情をしたが、ふっと息を吐き、頷いた。
「申し訳ない。メイド達には悪いことをした。改めて謝罪に窺わせてもらう」
「ああ、今度ルッフィランテに来い」
ディークは無言で振り返ると、背中越しに囁いた。
「ありがとう、葉風」
※※※※※ ※※※※※ ※※※※※
世界を変える戦いから二週間が経った。
ディークはメイドさんを執事補助にする政策を取り下げ、現在は、自治組織“ポリス”を作ろうと提案している。執事同士のトラブルや、メイドさんへの不当な扱いなど、様々な問題の仲裁に入る警察のような組織らしい。といっても、この世界には法律がない為、ポリスの活動内容は単純だ。逮捕状もなければ起訴状もなく、パトロールとトラブルシューティングが活動内容になりそうだ。志願者には、格闘家の多くが名を連ねている。これもディークの温めていた政策の一つだったらしい。
英雄マックはリリアとディークの推薦と、パルミーレの貴族達からの支持を得て、シルフェントに戻り、再び世界の頂点で政治を行うことになった。そのスタイルは相変わらず保守的で、ディークの掲げる“ポリス”にも苦言を呈し、日夜議論を重ねている。けれど、どうやら少しずつ、ポリスを採用する方向へ話が進んでいるそうだ。
英雄はあらゆる危険について考えている為、採用されるまでに数年かかりそうだが…………アクセルを踏むディークとブレーキを踏むマックでバランスが取れているのかもしれない。
ともあれ、市民からの英雄人気は健在で、しばらくは平和の象徴としてマック・ロナルフが居座ることになりそうだ。
リリアはいたって平和に、普段通り暮らしているらしい。シルフェントの会議には以前より積極的に参加しているつもりらしいが、ディークに言わせると相変わらず“気まぐれ”らしい。公の場で着るパーティドレスのカラーバリエーションを増やす政策を持ち込んできたり、ディークの発案した“ポリス”を一家に一人派遣しようと提案したり、マイペースっぷりは健在だ。
そんなリリアの大きな変化と言えば、今、屋敷にいる執事達の名前を覚えようと悪戦苦闘していることだ。教育係の白――本名ホルテシュ・ヴァリエンは、リリアの記憶力の悪さに絶望し、屋敷中の執事に呼びかけ、色の名前で呼び続けるよう説得したそうだが、リリアはかたくなに本名の暗記に取り組んでいる。俺の名前は憶えているようだけど、理由を尋ねてみたら、個性的な顔なら覚えらえると言われた。一応、褒め言葉として受け取っておいた。
一番大きな変化があったのはミラナードだ。
彼女は何やら複雑な事情で幼少期から格闘家として生きる道しかなかったらしいが、俺に敗れたあの日をきっかけに、戦闘メイドへと転職した。
本人曰く、「葉風鳥太の強さを知るには、メイドの強さを知らなければならない」らしい。
あまりの家事スキルの低さに、今はまだ、チョコちゃんと同じFランクメイドとしてフィルシーさんの猛特訓をうけているところだけど、根性のある彼女なら、きっといつかメイドさんとして、彼女が望む強さを得られるだろう。
メイドスキルに関してはまだヒヨコのミラナードだが、当然、戦闘力は戦闘メイドの中でもトップに限りなく近い。
突然強力なライバルが現れたことで、チズはこれまで以上に闘志を漲らせている。最初の戦闘訓練では、先輩として指導するはずだったチズがミラナードに一本取られてしまったらしいが……。
ともあれ、チズは「自分に足りないのは頭脳です。頭脳が同じならクシィにもミラナードにも負けません」と宣言し、座学も集中してこなすようになった。戦闘力で負けていると認めない、負けず嫌いな性格がプラスに働いたようだ。
クシィ、ココナ、トイプ、オレン、シュガー、チョコちゃん、マカロ、他のメイドさん達は相変わらず、元気にルッフィランテで過ごしている。
フィルシーさんはいままで通りメイドさん達に慕われ、ルッフィランテでその優れた経営手腕をふるっている。けれど、表情は以前より少し柔らかくなり、無言でいるときも、キツい印象はなくなった。そして、トマトが直談判した『あるお願い』も返事一つで受け入れてくれた。あれはルッフィランテの中ではここ一番の事件だ。
俺はというと…………
リリア、ディーク、マックの三人がシルフェントに推薦すると言ってくれたが、ルッフィランテの仕事を優先したいので断った。相変わらずメインの仕事はルッフィランテのメイディアンだ。いずれ八人のメイドさんから忠誠を誓われ、相応しい男になれば、正規の手順でシルフェントに入るだろう。今日は簡単な仕事を終え、一人で帰宅したところだ。
見慣れた茶色の階段を上り、ルッフィランテの三階へ上がる。
俺の部屋は今まで通り、廊下の隅っこだ。大きくも小さくもないこの部屋で、メイドさん達に囲まれて暮らしている。
けれど、一つだけ、変わったことがある。
扉を開けると、トマトが手のひらサイズの箒を持ち、部屋の窓枠を掃除していた。
赤茶色の髪は窓から入る日差しを受けて、光の輪を作っている。その髪はサラリと揺れ、トマトは俺を振り返った。
俺達の唯一の変化。トマトは自らフィルシーさんに頼み、俺の“専属メイド”になったのだ。
トマトは薄っすらと赤いほっぺたを緩ませた。
たとえいつか引退する日が来ても、この子と一緒にいられる。俺にとってはそれだけで十分だ。
けれど、トマトはいたずらっぽい表情で、“あの台詞”を言おうとしている。専属メイドになってからできた俺とトマトの内輪ネタだ。
俺は何気ない風を装いながら、「ただいま」と声をかけた。
ごっこ遊びをしているような、むずかゆい空気を吹き飛ばすように、トマトは明るい声を響かせた。
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
異世界メイド、完結です!
ゆる~いスタンスで始めた連載でしたが、おかげさまで、当初考えていたラストまで書き切ることができました。
大幅な修正を何度も重ねてきたので、初期に読んだ方は、文章がガタガタに見えることもあったと思います(汗)
それでも最新話を追いかけてくださった方々がいたことは、みなさんの”メイド愛”が起こした奇跡だと思います!
鳥太とトマト達の物語はプロローグへとつながり、まだまだ続いていきますが、異世界メイドはここで終わりですので、ブクマは外してくださっても大丈夫です。
代わりに、もしも気が向いたら、感想評価レビューのどれか一つ気軽に書いていただけると、非常に励みになります。
(全話読んでくださった方の反応は、とても気になりますので)
次回作については活動報告へ書いておきますので、よろしければどうぞ!
最後まで見届けてくれた方々、本当にありがとうございました!




