第六十五話 メイドさんと共に歩む道
白い雲の中を、両手を広げて飛んでいた。風が頬を叩くと、ふわふわとしたタオルのような感触が撫でていく。子供の頃に夢見た、飛行機のコックピットから見える景色がこんな感じだ。白い厚みが光を遮って、昼の明るさと、夜の落ち着きを合わせた時間を提供してくれる。フリルのメイドさん達が癒してくれる空間、メイド喫茶『ほーむ☆メイド』を思い出す。
ふと、雲の切れ間が見えた。
水色の空。本物の世界が広がっている。見下ろせばファンシーな街並み。点在する緑は巨大な森で、幾重にも枝分かれしている茶色の線は道路、色の粒一つ一つは建物だ。その中で生活している人々の息づかいまで感じ取れる。
コーヒーショップ、服屋、レストラン、中でも輝いているのは……。
引き寄せられるように、優しい茶色の粒へ急下降した。風のトンネルを潜り抜け、不思議な浮遊感に包まれる。近づくほどにその建物は光を増し、見慣れた「Luffi-Lante」の金字が目に飛び込んでくる。こげ茶色の髪のメイドさんがお辞儀をしながら扉を開いた。その中へ入ると――――――――――。
「…………君……鳥太君、目覚めましたか?」
「ん、はい、おはようございます……」
「おはようございます。無事目覚めてくれましたね。こちらはそろそろ限界ですよ」
フィルシーさんが俺を覗き込みながら呟いた。袖のないシャツに、細身でグレーのパンツ。いつも夜に着ている、外行きにも見える寝間着姿だ。
体にかけられた薄い布団を折りながら、メイドさん達の声がする方へ顔を向け、自分の置かれていた状況を思い出した。
メイドさん達が戦っている。大きな円のように並んでディークを囲み、ディークが移動すると円を崩さず一定の距離を保つ。珍しい戦法だ。
円の中ではチズがディークに飛びかかり、何もない空中を蹴り、ディークに飛びかかる。空中を蹴るスキルを使い、蹴り技主体で戦っているらしい。ディークが視操でチズを掴み、壁に放り投げると、円になっているメイドさんが数人がかりでキャッチする。
クシィはディークにつかず離れず、隙を見れば攻撃に転じ、攻撃を誘っては逃げる。さすが戦い方が上手い。決して無理はせず、撹乱に専念しているようだ。
他の戦闘メイドさん達はディークの周囲を飛び回りながら、隙を見ては閃光を発し、遠距離攻撃を放ち、見えない力でディークの腕を引く。ヒット&アウェイ中心で戦っているようだ。けれど、ディークはそれ以上の力で跳ね返している。
白はメイドさん達の間を縫うようにして果敢に攻め込むが、こちらも視操を突破するには至らない。
円の外側では、軽い怪我をしていたり、ぐったりとしているメイドさんもいる。明らかに、こちらの消耗が激しい。リリアはスキルのストックが切れつつあるのか、立ち尽くしたままゆく末を眺めている。それに対してディークはノーダメージで、疲労も見られない。
ほとんど声を出さず、視線の合図だけで連携を取っているメイドさん達の戦いは静かだった。崩れない円の陣形やはためくメイド服は、ダンスのように美しい。けれど、体力的にも人数的にも削られ、徐々にその統率は崩れつつある。
ふと、トマトが俺に気付いた。
「みんなっ! 下がってください! 鳥太様が目を覚まされました!」
輪を作っていたメイドさん達は安堵の表情を浮かべて、一斉に部屋の外へ逃げていく。戦闘メイド達はディークに正面を向けたままじわじわと下がり、最後にやり切った表情を俺に向けた。
「あとはよろしくお願いします、鳥太様」
クシィが呟くと、
「倒せませんでしたが、ディークの体力を九十九%削りましたので、とどめをお願いします」
チズがわかりにくい冗談を言って、シニカルな笑みを浮かべた。
「それは助かるよ。二人共、ありがとな」
「「はい!」」
二人が去ると、部屋に残っているメイドさんはトマトだけになった。他はフィルシーさんとリリア、白、ディーク、バテラロ……はいない。たぶん、瀕死状態だったから治癒メイドに運ばれたんだろう。
そんな風に何気なく部屋の中を見渡すと、もう一人、大きな杖を地面に突き立てた男が、部屋の奥で佇んでいた。
足を怪我しているようだが、闘志が漲り、不思議な存在感を放っている。赤地の貴族服に、金色の刺繍。百獣の王を思わせる荒々しいブロンドヘアに、逞しい眉、力強い目、大きくて形の整った鼻。どこかで見たことがある顔だ。
ふと、パルミーレの庭で見た肖像画を思い出した。
「フィルシーさん、あの人は…………英雄?」
「はい、彼がマック・ロナルフです。リリア様がお呼びしていたそうで、先ほど到着し、ディークと再戦していたのです。三分間ほど一人で持ちこたえてくれました。正直、メイド達だけでは五分間も持たなかったと思います」
「……すみません……俺の判断ミスです…………」
「いいえ、謝ることはありません。私が鳥太君なら同じ判断をしていました。それに、おかげでこうして、希望が繋がりましたよ」
俺のスキルは全回復し、疲労も癒えた。眠による奇策が成功し、こちらの戦力は俺と英雄の二人に増えている。勝率は五分五分、今度こそ勝利を掴める。
「目覚めたか葉風鳥太。運が良かったな。死にぞこないと言えど、そこの英雄がいなければ、貴様はメイドもろとも死んでいた」
ディークは英雄を一瞥した。英雄は負傷した足を庇うように杖をついている。その目は鋭く俺へと向いた。
「葉風殿、私は君と共闘するわけではない。ただ、失ったものを取り返しに来たのだ」
威厳のある声でそう呟き、俺とディーク、リリアへと順番に視線を送る。
「私はシルフェントでただ一つ守り続けてきたことがある。それは『ルールを作らないこと』だ。世界の頂点に立っていようと、私はただの人間であった。世界をよりよくしようと手を加えれば、必ず誰かが傷つく。それを補おうとルールを加えれば、やがて人々の心から“紳士”、“淑女”としての誇りが失われるだろう。だから私は民に委ねてきた。若造、ディークよ、世界に王は必要ない。私は貴様から世界を取り戻させてもらう」
その言葉は不思議と、心臓の奥深くまで響いた。英雄が税も法律もない世界を作ったことは、正しかったのかどうかはわからない。けれど、彼が人生をかけて出した答えなのだろう。世界の頂点で何をすべきか、その命題に、“王”ではなく“一人の人間”として答えを出した。辛くても、苦しくても、この世界の人々には、自らの力で立ち向かう自由が残されている。もしも自らの力を過信していたら、こんな世界は作れない。彼が“英雄”と呼ばれる理由は、世界に自由を与えていたからなのかもしれない。
ディークの青い瞳は冷たさを増した。こいつは英雄とは対極の思想を持つ。自らが世界を導くことが正しいと考えている。
英雄へ、鋭い視線が送られる。
「王が必要なかったのではない。英雄、貴様が世界を正しく導く力を持たなかっただけだ。消耗の激しいスキル、パルミーレの稽古で磨いた戦闘。どちらも世界を知らない、紛い物の力だろう。私は世界を渡り歩き、“王“としての器を磨いてきた。葉風、リリア、英雄、貴様らを乗り越えることで、今夜、私の器を世界に証明しよう」
世界の頂点に立つ三人は揺るがない。この戦いは、それぞれが世界と向き合った末の、“答え合わせ”なのかもしれない。メイドさんを守るという俺の示す道も、絶対に譲るつもりはない。
ディークは部屋の中央へ移動し、戦闘の構えを取った。その瞳は俺へと向けられる。
「葉風。実質、まともに戦えるのは貴様だけだ。英雄は先ほどの戦闘ですでにスキルの大半を消耗している。戦力として期待しているなら無駄だ」
フィルシーさんが俺を見て、小さく頷いた。
わずか三分間でそこまで消耗させられていたのか。けど、無理もない。負傷した英雄がディークと対等に戦う為には、スキルを乱発しなければならなかっただろう。そして英雄といえど、戦闘に使える強力なスキルは、所持しているスキルのすべてではない。
「スキルの大半を消耗した英雄など、誤差の範囲だ。葉風、貴様は初めの状態から成長を遂げたわけでもなければ、大きな力を得たわけではない。私に成すすべなく破れた貴様は、これから再び、同じ運命を繰り返す」
ディークの冷たい視線が俺を射抜いた。たしかに今、俺に勝利のヴィジョンはない。ディークのスキルは判明したが、同時に俺のスキルもディークに知られた。防御壁を使えるようになったことと、英雄が参戦したことが、最初の状態とは異なる微かなアドバンテージか。けど、ディークにほぼダメージを与えずに負けた状態を、覆すほどの要素は無い。俺は今、何かが変わるかもしれない“可能性”に身を任せようとしている。戦闘能力の差はいぜん圧倒的。せめて何か一つでも、俺自身に変化があれば……。
「運命は、変わりますよ」
ディークを真っすぐ見つめ返していたのは、フィルシーさんだった。ゆったりと歩きながら俺に近づいてくる。その表情はいつもルッフィランテで仕事をしていたときの張りつめた緊張感はなく、穏やかで、力強い。
「鳥太君は、最初から、メイドを大切に扱う人でした。メイドがただ側にいるだけで、幸せそうにしていました。それは裏を返せば、彼女達のことを認めていなかったのかもしれません。ディーク、あなたが鳥太君と自分を似ていると言ったのは、メイドの存在価値を、認めていなかったという意味だったのでしょう」
フィルシーさんは最初から俺達の会話を聞いていたようだ。あのとき俺は、ディークに反論できず、感情的に叫んだだけだった。
フィルシーさんは俺に向き直り、両手で俺の右手を取った。細長く、傷一つない指が、大切なものに触れるかのように。
「鳥太君、あなたはもう答えを出しています。きっと、メイドを救ってくれるはずです。メイドと歩む道を、世界に示してください」
そうか。俺は、自分でも知らない間に、答えを出していたのか。
メイドさんと主人は支え合うべき関係だ。メイドさんは主人に尽くし、主人はメイドさんに衣食住を提供する。互いに信頼し合うからこそ、ただの“お手伝い”ではなく、生活を共にすることができる。
俺はこれから何度もつまづくだろう。それでもメイドさんが側にいれば、きっと歩んでいける。メイドさん達がいるこの世界を、彼女達と共に歩む世界に変えていきたい。
トマトはいつも俺を信じてくれていた。そして誰よりも、メイドさんが一生懸命働いている姿を俺に見せてくれた。だから俺は、彼女達の存在価値を、認めることができた。この世界に来る前の俺とは違う。今の俺は誰よりも、メイドさんのすばらしさを知っている。
フィルシーさんの目には、薄っすらと涙が見えた。
ずっと、メイドさん達と共に、ルッフィランテを支え続けてきた。メイド喫茶を通じて、メイドさん達の魅力をこの世界に伝えようとしていた。他のどのメイド喫茶にも負けないくらい優秀なメイドさん達を育てて、彼女達が活躍できる仕事場を探して、世界の冷たい偏見と戦ってきた。
元オーナーが他界してから、フィルシーさんは一人でメイドさん達の先頭に立ち、心細いときもあっただろう。泣いた時もあっただろう。けどきっとフィルシーさんは、メイドさん達を不安にさせないよう、弱い姿を見せずに乗り越えてきたのだと思う。
形の良い唇がふと緩んだ。初めて見せる、子供のような表情。フィルシーさんは、俺の手をゆっくりと引き寄せ、口元まで持ち上げた。
「鳥太君、いつも体を張る役を任せてしまっていますね。けれど、本当は、ルッフィランテのメイド達も、あなたと一緒に戦う気持ちを持っているのですよ」
俺は小刻みに頷いた。いつからか、俺はメイドさん達と一緒に戦うことを意識していた。大きな転機はチズに叱咤されたときかもしれない。今はいつだって、トマトがいて、ココナがいて、チズがいて、トイプがいる。彼女達がくれた忠誠心を、いつだって胸の中に感じている。それに、いつも一緒に過ごしているルッフィランテのみんながいる。俺は目を逸らさず、この世界と向き合っていける。
「鳥太君、あなたの側には、いつでもメイドがいます。そして、私も」
フィルシーさんは小さく微笑み、透き通るような声で、宣言した。
「私、フィルシー・オムライスは、葉風鳥太君に忠誠を誓います」




