第六十二話 オルクス
ディークの瞳から恐怖は感じ取れない。精密な機械のように、俺の拳ただ一点に視線を集中させている。
視操の為に攻撃から目を逸らさない。理屈はわかるが、加速で繰り出された俺の拳を見て、ここまで冷静でいられるものか。
やはり、スキルの性能だけで英雄を倒したわけじゃない。戦闘経験に裏打ちされた隙のない強さを持っている。
けど、英雄すら超えられなかったその壁を、俺は越えなければならないんだ。
身に纏った金色のエネルギーを拳に纏わせ、氷壁を貫くイメージを思い描く。肉体の力はイメージの妨げになるので不要だ。加速の性能を活かす為にはこのスキルを信じ、チズを信じ、強固なイメージを固めるのみ。
体を覆う熱は既に薄皮一枚の厚みしかない。けど、
「―――――――――ッ!」
熱が霧散したのと、拳が視操を突き抜けたのはほぼ同時だった。
ディークの頬に拳が触れ、そこからは自分の筋力で振り抜く。
骨がぶつかり合う感触。ディークは上体をよろめかせた。
ようやく、一発入れた。
ルッフィランテのみんなを連れ去り、彼女達を不安にさせた代償を、少しは与えられたかもしれない。けど、まだ勝利には届かない。
ここで勢いに乗り、闇雲にラッシュをかけることもできる。
野生的な攻撃を力の限り叩き込み、相手が倒れるまで、体力が続くまで、思考を放棄して攻撃し続ける。それはそれなりに有効な手かもしれない。
けど、視界はクリアだ。
最善の一手は別にある。
ディークは接近された状態で有効なスキルを持っている可能性もある。
こいつを仕留めるには、今ここで切り札を切るべきだ。
触れるだけで確実に敵を仕留められる『打突』はすでに付与している。
ディークの次の反応を読み切り、これを当てることができれば、十中八九勝てる。
ディークが次に起こす行動は――――
脳内の電気信号は言語化されなかったが、勝利のヴィジョンはハッキリと網膜に映った。それを実行に移す。
振り抜いた拳を脱力させ、空中で静止。全身の筋肉を柔らかく保ったまま、右足に体重を乗せる。左足で地面を擦り、右踵の一点を軸に――――反転しながら、ディークの背後に移動。
殴られた衝撃で真横を向いていたディークは、未知のスキルで回転し、一瞬前に俺がいた方向へ向き直る。
けど、俺は既にそこにはいない。背後で構えている。
この無防備な背中を見るのは三度目だ。
タイミングは完璧。今度こそ意表を突いた。
ここで切るのは最大火力の切り札――――打突!
右手のひらを突き出し、黒マントに触れた。同時にディークは素早い反応を見せる。
背中を見せたまま体をねじり、マントをヒラリと揺らす。
そして、
渾身の一撃はまたしても空を切った。
ディークは最小限の動きで俺の右手を躱していた。背後が見えているとしか思えない。
先ほども同じように背後を向けたまま動いていた。やはりあれは勘や予測で動いたわけじゃない。ここに来る前俺が纏っていた香辛のような、相手の動きを探るスキルを使用している。
相手の動きを探るだけのスキルなら、それほど強力ではないはずだが、五つしか選べないスキルの中にそれを組み込んでいるのか……。
ディークは滑るように距離を取り、反転した。
青い瞳が俺の右手を捉える。
「やはりこうなっただろう。葉風鳥太。君はまだ、届かない」
瞳がスライドし、手を引かれる。
体が浮き上がり、成すすべなく吹っ飛ばされる。
「くっっ!」
壁に衝突した。手を封じられていた為、受け身を取れなかった。
左手で肩に触れ、脱臼していないことを確認。
「鳥太様っ……!」
斜め後ろでトマトが小さく叫んだ。
視界の隅では俺と入れ替わりでバテラロがディークへ飛びかかる。スキルの握破を放つ。が、視操に軌道を逸らされ、空中に爆風を撒き散らす。
その戦いに視線を向けたままトマトは囁いた。
「鳥太様、大丈夫ですか⁉」
「ああ、まだやれる。怪我は問題ない。突破口さえつかめれば……」
トマトはゴクリと喉を動かし、口を開いた。
「ディークのスキル、二つわかりました」
「マ、マジか……⁉」
スキルを消耗してしまった俺にとって、何よりも心強い言葉だ。この子が側にいてくれる限り俺は戦える。そして何より、俺の勝利を信じている声が、勇気をくれる。
トマトは勢いよく言う。
「一つ目のスキルは視操。視線で対象を特定の方向へ動かすスキルです。眼球の動きだけで操る為、高度な技術を必要としますが、ディークは完全に使いこなしています。鳥太様も気付いていらっしゃるかもしれませんが……」
そして、とトマトは区切り、息を吸い込む。
「二つ目のスキルは全視。全方向を見ることができるスキルです。視覚情報が増える為、脳の処理能力が求められますが、その代わりに死角が消え、背後からの攻撃にも対応できるようになります」
「後ろ向きで俺の攻撃を躱したのは……」
「はい。全視で見えていたのでしょう」
三度も背後を取ったが、それらは全て無駄だったわけだ。
いや、ポジティブに考えるなら、あの失敗からトマトが全視を特定してくれたとも言えるか。このスキルを知れたのは大きい。
「それと、全視は視操と相性がいいのだと思います」
「まさかそれは…………」
「はい。全視によって生じた二つ目の視点でも、視操を使うことが出来るのだと思います。つまり」
「攻撃と防御はディーク自身の目で、ディークの体を動かすのは全視の目で、ってことか」
「はい、永によってほとんど動けないというデメリットを、全視と視操の合わせ技で補っているのでしょう」
「なるほどな……」
さすがに八十以上のスキルから選び抜いているだけのことはある。単純に強力なスキルを組み合わせているだけではなく、スキルの相乗効果を考え、リスクを打ち消し、隙のない戦闘スタイルを確立しているようだ。
「今ディークが使ったスキルは、永・全視・視操。あと二つってことか」
「はい。今判明した二つは“特殊スキル”に分類されるものなので、残りは攻撃スキルと防御スキルが一つずつかもしれません」
「わかった。ありがとな。そろそろ向こうがヤバそうだ」
「はい! お願いします!」
トマトに背を向けて、屈伸運動を一度行う。
大きく息を吸い込み、体に戦場の空気を馴染ませる。
視界の隅で俺を確認したバテラロが、満身創痍の様子で三歩バックステップし、叫んだ。
「任せる!」
ここに来る前、お前もディークを倒すって言ってなかったか……? と思ったが、無理もない。さすがに握破のみでディークを倒すのは無謀だ。けど、こうして協力して戦うことが、間接的にディークを倒すことになるのかもしれない。
青い瞳はバテラロを追おうとはせず、再び俺へ向いた。
「葉風鳥太。君のスキルはメイドから授かったにしては強い。それでも、やはりメイドの力を証明するには及ばない。私が執事から得たスキル、そしてミラナードから得た永を破らない限りはな」
「打ち砕いて見せるさ」
やっぱり、オリジナルスキルを与えた従者はミラナードか。
メイドや執事に限らず、忠誠心のある従者なら、主人にスキルを与えることができる。中でも優れた従者が極稀に与えるスキルが、世界に一つしか存在しないオリジナルスキルだ。
ミラナードの戦闘力や、意思の強さ、彼女が抱えている何かを思えば、他の従者とは一線を画すことは分かる。
けれど、それを突破できれば、メイドさんの強さを証明できる。
いや……
俺が本当に伝えたいメイドさんの魅力は、強さではなく、もっと温かい何かだ。
けど、それをディークに伝えることは、今の俺には難しい。
だからせめて、この忠誠心を背負ってディークを倒して見せる。
残されたスキルは打突のみ。たった一発。このスキルを撃ちこむことができれば勝利を掴むことができる。
問題はどう間合いを詰め、ディークの体に触れるか。
ディークまでの距離は六メートル。慎重に一歩ずつ、間合いを詰める。
接近しすぎれば視操の力に対抗できない。離れ過ぎればこちらの攻撃は届かない。狙うべきは四メートルのライン。
ディークは棒立ちのまま。間合いを取ろうとはしない。
その為、あっさりと目的の位置に到達し、立ち止まった。
ディークが積極的に攻めてはこないのは、こちらのスキルを警戒しているからか、それとも…………。
俺を正面から叩き潰すことで、メイドさんの存在を完全否定し、自らが正しいことを確認するつもりなのか。
フッと息を吐き出し、ネガティブな思考を振り切る。
胸にこみ上げた靄は緊張感に変えればいい。高鳴る鼓動や速まる血流が、思考を研ぎ澄ませる。
この足元にはおそらく、俺とディークだけに見える境界線がある。
安易にこのラインを踏み越えても、ディークに到達することはできない。
かといってディークが有利かと言えば、そうではない。ディークが距離を詰めてきたなら、こちらが踏み込むことで、間合いに到達する可能性が出てくる。
ここで必要なのは駆け引きだ。
呼吸に合わせて右足のつま先を揺らす。
こうしている間にも選択肢は無数にあり、小さな攻撃のチャンスが生まれては消えている。その流れを読み取り規則性を見い出すことができれば、いわゆる『先読み』が可能なのだろう。
けれど、武道の達人でもない俺は、何となく、薄っすらとそれを感じ取れるだけだ。
曇りガラスの向こう側で、勝利の女神が微笑んでいるのか、敗北の死神が鎌を振り下ろそうとしているのか、見極めるようなもの。
つまり、いま必要なのは技術でもなければ神頼みでもない、それらしき答えが出た瞬間に踏み込む勇気だ。
自分を信じられなくなったら勝利は掴めない。
メイドさんの力を信じられなくなったらここにいる意味はない。
考えるな。
失敗も成功も、この先へ進めばわかる。
ふと、ディークを纏う空気が色を変えた気がした。
呼吸のリズムが変わった。普通に考えれば攻撃に転じる合図だが、この直感がフェイクだと告げている。俺が察するかどうかギリギリのモーションで攻撃を仄めかし、間合いに入らせようとしている。
ここだ。
硬質な床板を蹴り、一直線でディークに向かってダッシュを切る。
ディークの瞳が瞬時に俺を捉える。瞳が収縮するまでコンマ二秒程度。そのタイミングを見計らい、ターン。視点のロックを逃れる。
やはりディークはその場から動いていない。小まめに動くことはできないのだろう。一度動いたら次に動くまでにタイムラグが発生する。だから、こちらが攻撃を放つ瞬間まで、安易に後退することはできない。
あと二メートルまで迫った。ディークはまだ平然としている。接近すればするほど視操の威力は増す為、ディークにとって、近接戦闘はもはや恐怖ではないのかもしれない。
瞳はゆったりとスライドし、俺の腹部を捉えようとした。
それを躱す為、渾身の力を籠め、その場で大きくジャンプし、一度ディークを飛び越える。
着地した瞬間、通常ではあり得ない“切り返し”でディークに迫る。
操作の効果がまだ生きている為、俺の身体能力は二十%ほど上乗せされている。
さらに、操作によって生じたその二十%の余力は、いわゆる“念力”のような、身体能力と分離した力だ。その力全てを着地した足に籠めることもできる。
ディークの背後を取った。
ディークは“振り向かざるを得ない”。
振り向く為に全視を使えば、次に体を動かすまでには一瞬のタイムラグが生じる。
反転し、冷たい表情がこちらへ向けられる。そのタイミングを見計らい、接近する。距離は五十センチ。今度こそ……
両手を開き、攻撃のモーションに入る。
ディークは視線を動かさない。ゆらりと手を体の横に持ち上げ、拳を握りしめる。中指が一番上に来るような、殴るには不向きな形。何のスキルだ……?
一瞬疑念が走った。けど、攻撃を止める選択肢はない。相手のスキルがわからないのはお互い様だ。打突の攻撃モーションに入る。
触れるだけで発動する為、力は籠めず、リラックスした状態を保つ。
大事なのは威力よりも速度。
右手を震わせる。
その“フェイント”を見せた直後、左手を繰り出した。
普段は打突を利き手の右手で使用しているが、スキルの熱を左手に移すこともできる。これまで二度右手での攻撃モーションを見せた為、先ほど左に切り替えていた。
左手がディークの腹部に触れ、完全に鳩尾を捉えた。
ディークは避けようとしなかった。
視界の隅で、歪な形の拳が、ピクリと強く握りしめられた。




