第六十一話 氷壁
現時点で俺のスキルは四つ、ディークは八十以上、それに加えて戦闘経験の差もある。戦力差は明らかだ。
けれど、そんなことはここに来る前から覚悟していた。
俺はメイドさんを守る為、格上の敵を倒すつもりでここに立っている。引くつもりも、負けるつもりもない。
青い瞳と視線が交差し、周囲が再び戦闘の雰囲気に包まれる。この空気を共有する者に、開戦の合図は必要ない。
青い瞳が動くのと同時に床を真横に蹴った。
低姿勢で三メートルほどダッシュし、急ターンで進路を変更。転がるように前進。
トリッキーな動きで視操を搔い潜る。
ディークの眼球はハイテクな監視カメラのように俺を追従する。が、遅い。
あっという間にディークまであと四メートルへ迫った。
さらに踏み込み、斜め前方へ駆け出した。その瞬間、
不意に右腕が重くなった。
鉄枷でも嵌められたかのように、ビクともしない。これは、
――――『視操』
物体をドラッグ&ドロップするその視線が、右腕の上部に突き刺さっている。
ディークが瞳を逸らすと、腕が同方向へ引っ張られる。透明なワイヤーで振り回されるかのように、弧を描きながら体が横に飛ぶ。
足を伸ばし、地面に摩擦を起こしながらブレーキをかけた。
視操はディークの“手足”となる器用なスキルだ。射程範囲はディークの見える範囲全てに及ぶ。が、威力は素手と大差ない。操作を纏った状態なら掴まれても対抗できる。
瞳が目の縁まで移動すると、ディークは一度瞬きをした。
腕を引かれる感触が消える。その隙に、姿勢低くダッシュし、さらに間合いを詰める。
再び瞼が持ち上がる。青い瞳は、コンマ一秒前に俺がいた場所に向けられている。
ディークはすぐさま視野を広く保つような目つきになり、直後――――瞳がグリンとこちらを向き、微かに収縮した。
踏み出した足が固定され、体勢が崩れ、空中でもがきそうになる。が、あえてそのまま倒れ込み、地面についた手で跳ね上がる。
あと三メートル。
再びディークの視線がこちらへ向けられた。
青い瞳が微かに収縮する。
おそらくマウスの左クリックと同じように、対象物に合わせたカーソルを固定する動作だ。完了すれば、瞳を動かすことで物体のドラッグ操作が可能になる。
言い換えれば、物体にピントを合わせるまでにはわずかなタイムラグが発生する。
仮に、ピントを合わせる直前で対象物が見えなくなったら、ターゲットを切り替えるのだろうか。
「一か八か……」
左手を突き出し、ディークの視線から、狙われていた腹部を隠した。
ディークの瞳が再びわずかに膨張し、元のサイズに戻る。
腹部を掴まれた感覚は無い。
完璧なタイミングで視線を遮断すれば、視操のターゲットを外すことができるようだ。
難易度は高い。もう二度と成功しないかもしれないが、成功したこの一度目はまだ生きている。
体を急回転させながらしゃがみ込み、姿勢低く真横へ飛ぶ。
青い視線はすぐに迫ってくる。が、着地と同時に反対方向へ飛ぶフェイントをかけ、その場に急停止。一直線でディークへ飛びかかる。
距離は一メートル。攻撃が届くにはあと一歩足りない。けど、視操の性能を大まかに把握できた。
視操の効果は、対象がディークの視野に収まっているだけでは発揮されない。ディーク自身が対象に視点を合わせ、認識し、おそらく力をイメージする必要がある。イメージがスキル発動のトリガーになるのは多くのスキルに共通する。俺の操作や加速も同じだ。
さらに、視操の威力は対象と接近するほど強まり、遠ざかるほど弱くなる。操作を纏った俺が成すすべなく弾き飛ばされるほどの威力になるのは、ディークの半径四メートル以内。その外側なら掴まれても振りほどける。ただし、動き出しの瞬間など、無防備な状態を狙われるとその限りではない。
操作が切れるまでなら、視操に対抗できる。残された時間は十分程度。
青い瞳が剣閃を描くように、素早く斜め上から対角へと振り下ろされる。
左足が釘で床に打ち付けられたように動かなくなる。
が、この時点で距離は一メートル。攻撃は届く。
威力よりも速度を重視し、最小限の動きで掌底を放つ。
ディークは攻撃の手を見てはいない。視操の性能によほどの自信があるのか、こちらの左足を“視線で掴んだ”まま、部屋の隅へと視線を揺らす。
――その選択が命取りだ。
視線だけで攻撃も防御も行うことができる視操の性能は、ディークの持つスキルの上位五つに入るのだろう。
けど、一見万能なこのスキルは、“相手の攻撃を止める目”と“相手の動きを把握する目”を両立できない。
つまり、接近戦に弱い。
視操を使用するなら、相手を近づけさせるべきではないのだ。敵と接近すれば視操の威力は増すが、それ以上の危険を冒すことになる。
ここで切り札を切られたら、ディークはどうするのか。
いや、ここで“突然背後を取られたら”、右隅に視線を向けたディークは反応できるのか。
瞬間移動とも呼べるスキルを持つ俺になら、それができる。
掌底を放とうとしているこの右手はフェイク、本命は太ももに触れている左手だ。
体の中心にある炎の中で、一滴垂らせば地底まで届きそうな高温の火種を呼び起こす。
熱は瞬時に全身を覆った。
――――――加速!
重力・空気抵抗・慣性、あらゆる物理法則から解放されたこの体は、思考力をタイムラグゼロで実現する速度を誇る。そして地球と同様にこの世界でも、速度に比例してエネルギーは増す。
視操の威力はディークの瞳と対象物の距離が近づくほどに増すけれど、俺はたとえこの至近距離でも加速の性能が上だと確信している。
熱の膜は全身を包み込んだ直後から急速に厚みを失っていく。制限時間はわずか二秒間。
金色のチーターが視界に浮かび上がり、最短距離で勝利への道筋を示す。
このスキルによって移動するときは、風を切る感覚も、体重を移す感覚もない。静止した空間の中で視界だけが一瞬で切り替わる。
先ほどまで正面を向いていたディークが後ろ向きになる。
黒マントには縦一直線の縫い目。無防備な背中だ。
と、攻撃に転じようとした瞬間、ディークの体が回転し、再び正面に向き直った。
足を軸に機械で半回転するような動作。しかも、加速状態の俺についてくるほど速い。
この動きは先ほども見た。
ディークは走る・殴る・蹴るなどの動作を行えないが、不自然なほど高速で体の向きを変えることができるようだ。
何のスキルかはわからないが、高性能だとは思えない。コマのように回るだけだ。もしも自由自在に動けるなら、もっと立ち位置を小まめに変えながら戦うだろう。
あえて加速の速度を落とした。
金色のチーターはしなやかに、草原を駆けるような速度で、ディークの背後にピタリとついていく。
ディークの動きが止まると同時に、チーターは四肢を折りたたみ、疾走していた勢いを吸収した。
今度こそ、完全に背後を捉えた。
金色のチーターから牙を借り、拳は闇を切り開く剣となる。
漆黒の背に、突きを放つ。
――――――――!
ひらひらと揺れる黒布に拳大の穴が空いた。その向こう側には赤茶色の床板が見える。
つまり、ディークはわずかに立ち位置をズラし、加速による渾身の一撃を躱していた。まるで背後が見えていたかのように。
ディークがここまで対応してくるのは想定外だった。
今俺が行った一連の攻撃にミスはない。最善を出し尽くし、破れた。最高速度の攻撃が当たらないのなら、他のスキルも当たらない。
どうすればいい…………。
加速の制限時間は残りコンマ四秒。
黒マントが再び反転――青い瞳が合間見える。
氷のように透き通る青色は無感情にこちらを見つめた。
足元の氷河が崩れ落ち、冷たい海に落ちるような感覚。
敗北のイメージ。
不安、後悔、焦燥、ネガティブな感情が噴き出しそうになる。
が、全身に纏う熱が、冷えた血液を瞬時に正常へと戻した。
俺はメイドさん達を救う為に戦っている。目の前にいる男は絶対に倒さなければならない敵だ。
金色のチーターは肩越しで牙を剥き、その冷たい氷を睨んでいる。
まだ、やれる。
金色の筋が交差し、滑らかな軌道を描いた。それは幾度となく繰り返してきた、基本技の動作だ。
右手を引き、左手は防御に備えてゆったりと前に出す。自然に腰を落とし、足の親指で地面を掴み、体重を均等に分散。いつでも全方向へ動ける状態で、上体を捻り、下半身から腹・背・肩・胸・腕・手首・指先、すべての動きを連動させ――――放つ。
馴染んだ技を媒介に、金色のチーターと一つになった気がした。
このスキルをくれたのはチズ。俺に本気で勝とうと立ち向かってきた唯一のメイドさん。
あの子が俺の弱さを指摘してくれて、俺は戦い方を変えた。そしてトマトや他のメイドさんと協力することで、前よりも強くなれた。
チズはいつだって一直線に突き進んでいる。強敵に挑み続け、着実に強くなっていく。
彼女はいつかきっと、最強のメイドさんになるだろう。
だから、彼女と共に戦っている俺は、英雄よりも、ディークよりも、この世界の誰よりも、強い。
右拳を押し出す。
収縮した青い瞳はその一点をロックし、正中線への侵入を阻む。
金色のチーターは氷壁に食らいつき、突き進む。
どんな敵にでも、挑み続けることで強くなってきた。
それは俺とチズが持つ唯一の共通点であり、忠誠と信頼を繋ぐ絆だ。
――――――――穿て




