第三十七話 喫茶ジルヴェス
執事喫茶ジルヴェスはルッフィランテから徒歩で行ける距離にあった。
大通り沿いではなく、これまで通ったことのない脇道を深く突き進んだ場所にあり、その佇まいもどこか隠れ家を思わせた。
門の左右に立つ大木は威圧感があり、柵の隙間から見える草木もどこか攻撃的に見える。華やかさとは程遠く、何かを誇示しているような印象すら感じる。
思わず立ち止まっていると、隣のトマトがごくりとわかりやすく唾を飲みこんだ。
「鳥太様、訪問の許可はいただいているので堂々と入って大丈夫です」
「ああ、わかってる」
どう見ても大丈夫だとは思っていない表情のトマトだが、あんなことを聞いた後では無理もない。アイス・クリムーの契約料は六百万ティクレ、俺の給料の百倍以上……という基準はどうでもいいが、問題なのはそれが明らかにメイドさんに払う金額ではないということだ。
メイドさんにそんな額を払うのは、将来金持ちになった俺くらいだろう。
「鳥太様、さすが堂々としていますね。私はこのお庭の雰囲気だけで少し怖くなっています。アイスをすんなり返してくれると思いますか……?」
「さあな。けど、返してくれなければ取り返すだけだ」
門の扉に手をかける。
俺はこれまで無敗の戦闘経験を積んできて、調子は常に上を向いている。いざとなればここにいる執事全員を敵に回す覚悟もある。
「何か御用でしょうか」
突然、年季の入った声がどこからともなく響いた。
門がしゃべった…………。
とファンタジーな発想が頭を過るほど、声の主は完全に姿を隠していた。
木の陰から現れたのは一人の男。ごわごわとした黒髪に皴の多い顔、その目は開いているかどうかもよくわからないほど彫りの奥に埋もれ、前髪に覆われている。あちこちに擦り傷のある執事服は一見貧相そうな印象を抱かせるが、目を凝らすと生地の頑丈さが尋常ではないことがわかる。
男は肩にかけていた木製の鎌らしき物を片手でぎゅるりと回し、地面に突き立てた。
「なにか御用でしょうか」
再び同じ質問が繰り返される。
「……あぁ、俺はルッフィランテの葉風鳥太だ。アイス・クリムーを迎えに来た。中に入っていいか?」
身分を示すカードを内ポケットから取り出して提示すると、男は「ほう」と低い声を漏らした。
「例のメイド喫茶ですか。何やら手違いがあったそうで? あの日はペネルス様の怒鳴り声がここまで響いてきましたな」
「詳しく知ってるのか?」
オーナーが激怒したというのが本当なら、手違いという説が濃厚になる。
希望を持ってたずねたが、男は太い首をゆったりと振った。
「私を何だと思ってらっしゃる?」
男は両手を広げ、右手で木製の鎌を示す。どこか欧米っぽい仕草だ。執事じゃなくてただのアメリカ人……なわけないよな。
「ガードナー、お庭の整備をするお仕事ですよね」
俺が無知を晒す前にトマトが答えた。
さりげなく“庭整備”と教えてくれたのは俺に対する気遣いだろう。言われていなければ俺は間違いなくガードナーはガードマンのことだと勘違いしてた。
男は誇らしげに仕事道具の鎌に手を置き、俺に視線を戻した。
「園丁――ガードナーは普通の執事とはちと違いましてね。基本的に屋敷に入ることはなく、お客様に顔を合わせることもありません。昔は門番を兼ねていた時期もありましたがね、今はもっぱらこっちの腕だけで食ってます。中で何が起こっているかなどほとんど把握しておりません」
なんとなく誇らしげだ。風貌はもっさりした熊だが、どこか清々しさを感じる。
「まあ、話は直接聞くからいいさ。案内してくれるか?」
「はははっ、来客の対応など久しぶりですわ」
子供なら泣いて逃げ出しそうな迫力のある笑い声を上げて、男は歩き出した。
そして意外にも、門にたどり着くまで男の熱弁は留まることを知らなかった。
何十年も前に野心家のオーナーが経営を始めたことや、自分が若い頃腕っぷしの強さを認められて引き抜かれた話など、それなりに喫茶ジルヴェスの生い立ちを教えてくれた。どうやら話好きらしい。
そして門までたどり着くと、一度扉にかけた手を離し、もったいぶった様子で口を開いた。
「実はここだけの話なのですが」
言いたくてたまらないという様子で口元は笑みが零れている。
こちらとしても情報はありがたいので、無言で先を促した。
「オーナーのペネルス様は、最近急激に力をつけておられます。温厚なお方ですから多少の無礼は許してくれますが、敵に回すようなことはくれぐれも避けた方がよろしいですよ」
「急激に力をつけた……?」
「私も詳しい事は存じませんがね、最近、長年うちをいびっていた執事喫茶を倒したんですわ」
「……決闘ですか?」
トマトが囁くように尋ねた。
男――さきほど聞いたが“ドグダン”というらしい――は、名前のイメージ通りの太眉をピクリと動かした。
「互いの権威を賭けて決闘を行いました。相手は喫茶クレトアルマのボモロッコ、伯爵の中でも裕福な家庭の出身でした。正直に申してペネルス様の勝ち目は薄いと思いましたがね、お出かけになるときのペネルス様は自信に満ちておられました」
ドグダンは独特の語り口調で話すので、思わずこちらも前傾姿勢になる。気付くと俺達は三人で顔を寄せ合っていた。
「お出かけしたときと同じ綺麗な服装でお帰りになったペネルス様に、私は『決闘は延期になったのですか』とお尋ねしたんですわ。引き連れていた若造の執事の一人は全くの無傷でしたからな。しかしペネルス様はただ一言『勝利した』と満足げにおっしゃり、後日ウェムというSクラス執事を一人購入されたんですわ。決闘で相当な額を賭けていたんですな」
「Sクラス執事を購入・維持したということは、自由に回せるお金を全て決闘に賭けたのかもしれませんね」
トマトは普段外で無口だが、今回は俺に情報を伝えるため積極的に話しているようだ。それだけ危機感があるということでもあるのだろう。
喫茶ジルヴェスの屋敷はルッフィランテの五分の一未満の規模だが、今の話を聴いた限り資金力も戦力も十分。正面戦闘で勝てる可能性は低いかもしれない。
「というわけですから、くれぐれもお気を付けください」
ドグダンは扉を開き、一歩下がった。
トマトと中に入ると、屋敷内は戦闘の匂いが充満していた。
廊下を通り過ぎる執事達は給仕の者も含め、全員戦闘服を着ている。格闘執事しかいないということはないだろうから、これは何らかの目的があるのだろう。単に用心深いだけかもしれない。
屋敷の壁には武器の装飾品が掛けられている。来客者に力を誇示しているようにも思える。
「ルッフィランテの使いですね。今回はこちらの不手際でご迷惑をおかけして申し訳ない」
どこか太々しい態度で言ったのはここのオーナー――ペネルス・ワトスキフだった。
見た目はまだ三十歳前後、オールバックの髪が小奇麗な印象だが、鋭い目鼻を強調している。
客室のソファに腰かけて、特に内容のない天気の話などをペラペラと語るペネルスは、いかにも胡散臭かった。表面的な人の好さを演じているせいで、内側の黒さを余計に滲ませている。ちらりとトマトを見ると、やはりその雰囲気に警戒心を強めているようだった。
「失礼します。アイス・クリムーをお連れしました」
一人の執事が部屋の入り口で礼をした。
背後にいるのがアイスだろう。
中肉中背でトマトよりはやや年上。これまで外に出たことがないような色白の肌と、ピクリとも動かない無表情が、冷たい印象を抱かせる。
ここまでは何の問題もなく進んでいるが、まだペネルスが何かを企んでいる可能性は否定できない。
出された飲み物は左手で飲み、常に右手を自由にしておく。
スキルの発動はどちらの手でも可能だが、利き手の方が約一秒速い。突発的な戦闘ではこの差が勝敗を分けることもあるだろう。
俺が用心していることに気付いたのか、トマトは目を丸くしてこちらを見ている。何か言いたそうな気がするけど気のせいだろう。口の中のコーヒーみたいな上品な液体を飲み込む。
「始めまして、葉風鳥太様。アイス・クリムーと申します。本日はわざわざお迎えいただきありがとうございます」
アイスは冷たい無表情のままだったが、その声はスッと耳の中で溶けるようだった。
「初めまして。それじゃもう用はないし、帰ろうか」
俺が腰を上げると、
「ええ、こちらとしても引き留める理由はございません。どうぞお引き取り下さい。それとフィルシー・オムライスによろしくお伝えください」
ペネルスは演技にも見えるような大袈裟な手振りで、俺達を出口の方へ案内した。
何も起こらない。
このオーナーの声や表情の一つ一つは胡散臭いが、俺達に対する敵意も感じられない。
「ではまた機会があればお会いしましょう。我々もそろそろ規模を拡大しますから、顔を合わせる場面もあるかもしれませんので」
「ああ、それじゃ……また」
釈然としない思いが解消されないまま、ドアが閉められた。
本当にトマトの言った通り二分で仕事が終わってしまった。
「ふぅー………………」
用事が終わったのかと寄って来たドグダンの長話を回避し、そのまま門を出たところで、俺とトマトは同時に長いため息を吐いた。
「何も起こりませんでしたね」
トマトはこっそり額の汗をハンカチで拭いた後、こちらを向いて言った。
「なんか拍子抜けだったけど、結果的にはよかったな」
「ええ、けど、鳥太様はいつからわかっていたのですか? 出された飲み物をあっさり飲んだときには、何も起こらないと知っていたんですよね」
「え……まあな? 何となくな」
うかつだった。
スキルを発動できるように気を付けていたけど、毒を盛られているという古典的な危険を失念していた。自分でも思ったより緊張していたらしい。
「アイスは無事帰ってきたし、とっとと帰ろう」
俺の言葉にトマトが頷きかけた瞬間、アイスがぴたりと立ち止まった。
「………………」
「え、どうしたんだ? 何か忘れ物でもしたか?」
アイスは無言でゆったりと瞬きしてから、屋敷の方を指さした。そして人形のような無表情のまま、淡い声で告げた。
「あの屋敷で私は最も敷居の高いお客様用の部屋に軟禁されていました。自分達とは関係のないお客様だから何かあっては困ると、部屋の外に出ないよう念を押されていたのです」
「それは……」
よかったんじゃないか、と喉元に出かかった言葉を飲み込んだ。
あのペネルスというオーナーがメイドさんを丁重に扱っていた。それは果たして善意からの行動なのか、それとも…………。
「屋敷に戻りましょう、鳥太様。ペネルスは何かを隠しています。私が案内された部屋はどう考えてもメイドに見合う場所ではありませんでした。つまり」
「隠すべき何かから遠ざけていた……?」
「はい」
アイスは確信している。
パーラーメイドは普段、客間で主人と客の様子を常に観察し、求められる行動を先読みしている。Dクラスで一人前のパーラーメイドとして経験を積み、Cクラスに昇格したアイスは、おそらく俺よりもずっと深くペネルスの様子を観察しているだろう。そのアイスが言うのなら、
「わかった、屋敷に戻ろう」
「ペネルスの秘密を探るのですね」
トマトも異論はないようだった。
「今のお話を考えると、アイスが軟禁されていた部屋から遠い場所が怪しいですね。四階の……」
「北です。私が庭のガードナーを引きつけておきますので、鳥太様とトマトのお二人で四階の北を目指してください。おそらくそこで、カギを握る人物とコンタクトを取れるはずです」
「カギを握る人物…………」
呟きながら、俺もその人物に思い至った。
この一連の出来事の発端。その人物は、きっと何かを知っている。
アイスは身をひるがえし、庭のドグダンをチラリと見ながら言った。
「ではお願いします、鳥太様。まずは“私を買った人物”を見つけ出してください」




