第二十九話 最長の二秒間
操作の効力は切れていた。俺が意識を失ったことか、対象者のヴィーヴァが気を失ったことがきっかけとなったのだろう。
再び接続を試みるが、体外にあった第二の神経はやはり消失している。
蹲っているチズに手を添え、ゆっくりと起こす。
この子は俺を庇い、強化されたヴィーヴァの拳を直撃で受けた。幸い防御壁が効いていた為外傷はないが、脳震盪や体の内部へのダメージを負っているかもしれない。
桃色の唇が薄く開かれた。
「鳥太様……逃げるしかありません…………」
「…………」
ここで勝負を放棄しても逃げることは難しい。それに、俺は彼女の身を背負って戦うと決めた。
ライムとチズを救う為には、この勝負に勝つしかない。
幸い、残っている敵は長髪の執事――クリフィアだけだ。こいつは何らかのスキルを付与されているが、俺はこれまでスキルを使用した執事相手に素手で戦ってきた。
そう言い聞かせて見上げる。
「二対一、でしょうか? 怖いですねぇ」
瀕死のチズと俺を見ながらクリフィアは皮肉に呟いた。その言葉の意味を推し量ることはできない。
数の上では二対一だが、実質的に戦えるのは俺一人だ。
にも関わらず、クリフィアは攻めに転じず、妙に角度のついたポーズで立ち竦んだまま、床に転がった大柄な相棒を見やった。
「ヴィーヴァ、やれますか」
巨体は見るからに力なく、動力を失った廃車のようにピクリともしない。
しかしクリフィアは淡々と冷たい視線を投げ続けた。
答えたのはくぐもったうめき声。
「ああ……切れた…………」
切れた。こいつの戦闘力はすでに尽きた、たぶん、そういう意味だろう。
クリフィアは片手でヴィーヴァの腕を取り、部屋の隅に引きずった。
チズをそっと床に下ろし、立ち上がる。膝は嗤うこともなく、体重をしっかりと支えた。
この世界で受けたダメージは内部と外部に分類されるが、内部に受けたダメージは疲労に似た気だるさに変わる。さきほど俺が意識を失いかけたのは、内部ダメージに対する耐性が低かったからだろう。
それでも一度取り戻した意識はクリアに周囲を認識し、粉砕を覚悟した体はまだ十分に動くことができる。
「戦うのは一人ですか。まあそのメイ奴はどちらにしろ戦力にはならないでしょうが」
クリフィアの茶色がかった瞳がこちらへ向けられた。
「防御スキル、物理無効とは驚きましたが、殺傷力がなければ話になりません。所詮メイドはメイド。元々あなたが私達二人を倒すつもりだったのでしょう?」
「チズがそこの執事を戦闘不能にしたようなもんだろ」
チズはヴィーヴァの自爆技を防いでくれた。だから俺達にはまだ勝機が残っている。クリフィアと俺の一対一という状況はギリギリだが、最悪ではない。
クリフィアは勝利を確信しているかのように白い歯を見せているが、勝負はまだ五分五分だ。
ふと、視界の隅で、クッセンが床に座るヴィーヴァの肩に手を置いた。
ライムに対しては酷い主人でも、執事を労わる気持ちはあるのか……。
と、悠長な思考が浮かんだが、瞬時にそれは間違いだと悟り、全力で床を蹴った。
クッセンの手に優しさや労りなどない。あの手はこいつらの切り札――第三のスキルをヴィーヴァに付与しようとしている。
復活系……いや、そもそもヴィーヴァはダメージを負ったわけじゃない。スキルのリスクで倒れただけだ。
あの強化スキルのリスクが何だったのかはわからない。体力の消耗だけなら、微弱なスキルで完全復活することも可能だ。
「クソッ」
さっきヴィーヴァが呟いた『切れた』という言葉は、俺の操作の効力が切れた――つまり、まだ戦えるという意味だったんだ。
ここで二対一の状況を作られたら完全に詰む。スキルを付与される前にクッセンかヴィーヴァを倒すしかない。
クリフィアが俺の前に立ち塞がった。
棒立ちのまま、攻撃をする素振りはない。
俺は右手を引き、殴るようなフェイントをかけた後、進行方向と直角に地面を蹴った。こいつとの戦闘は避ける。
左の壁に片足を着き、もう一度蹴る。目標はスキルを付与しようとしているクッセンの右手。
しかし、先読みしていたかのような反応でクリフィアが視界を遮り、再びノーガードの姿勢で進行を阻害した。
こいつのスキルは不明。罠の可能性は高いが、やはり突破するしかない。
右拳を硬く握り、勢いそのまま殴りつける。
拳は微かにその頬に触れた。が、同時にクリフィアの体が視界から消えた。
直後、背に打撃が響く。
「がはっ……」
慌てて踏みとどまり、振り向くと、クリフィアは長髪の下で飄々とした表情を携え、再び防御なしの構えを取っていた。
情報を整理する。
瞬時に目の前から消え、背後に現れた。発動条件は不明だが、こちらの攻撃が触れた瞬間に移動が可能なのだろう。以前に戦った透明化や透剣ほど厄介ではないけれど、攻防を兼ね備えたスキルだ。瞬殺するのは不可能に近い。
思考が纏まりかけたとき、微笑を浮かべたクリフィアの背後で金色の髪が靡いた。
コの字型に固められた小さな手が振りかざされる。
――――待て、チズ。
触れた瞬間に移動するクリフィアのスキルに対して、奇襲は無意味かもしれない。
そう叫びたかったが、咄嗟に口を噤み、ターゲットの注意を引くよう攻撃に転じる。
挟み撃ちの形を作れば、チズのリスクを減らせるかもしれない。
しかし、そんな淡い期待にすがるような奇襲は、何の意味もなさなかった。
先に到達したのはチズ。指先がクリフィアの首筋に触れる。そして俺の懸念した通り、クリフィアは優雅な表情を浮かべたままその場から消えた。
チズの目が見開かれる。
トンッ、と首筋に軽い音。
幼さの残る瞳から鋭い眼光が失われ、一瞬灰がかった色に暗転した。膝が床につき、小柄な体は手で支えることもなく崩れ落ちる。その背後に佇むクリフィアはつまらなそうに、床に伏したチズを見下ろした。
目の前でメイドさんを物理的に傷つけられたやるせなさが、全身に虚脱感を齎した。
握った拳の爪が手の内側に食い込み、痛みからようやく怒りを自覚していく。
「うああああああああああああああああああああああああああああ!」
体中の不快感が声に変わり、溢れ出た。何の意味もないのはわかっている。それでも喉の震えは止まらない。
やがて唾液の粘膜が剥がれ掠れた声に変わったが、それでも叫び続けた。
チズは防御壁の切れた状態で首筋を叩かれ、床に顔を打ち付けた。小さな外傷だったとしても、それは本来なら俺が防ぐべきだった傷だ。
クリフィアは疎ましいとでも言うように軽く目を細める。
そのときチズの指がピクリと動き、俺はようやく咆哮を抑えることができた。
怒りが収まったわけではなかったが、チズの動きに注意し、目で語り掛ける。
『起き上がるな』
ここで起き上がってもクリフィアに再び殴られる。
チズは顔を上げたまま起き上がろうとはせず、俺の背後を見ていた。
背中越しに、膨らむ闘気のような気配。
ああ、失念していた。俺はこれを止めようとしていたんだ。
クッセンがヴィーヴァに第三のスキルを付与した。そして、あの巨体の戦闘執事が復活した。おそらく最初に付与されていた強化スキルの”制限回数”を残したまま。
最悪の状況だ。いよいよ突破口が見つからない。
手に握り込んだ汗がジワリと拳を伝う。この世界に来て初めて襲い掛かる危機感。
先ほど受けたヴィーヴァの攻撃を止める術はない。だとしたらチズとライムを連れて逃げるべきか。
しかし、戦闘部屋として作られたこの部屋に窓はなく、壁は破壊不能だ。二人を逃がせる可能性は限りなくゼロに近い。
かといって、この状態のヴィーヴァとクリフィアを素手で倒すのは不可能だ。
可能性があるとしたら、主人であるクッセンを人質に取ることだが、それもスキルを纏った執事二人を突破する必要がある。
今必要なのは夢物語ではなく現実的な突破口。何か……何かないのか?
俺は世界を救えるかもしれないと言われておいて、こんなところで終わるのか?
大切なものも守れず、こんなところで…………。
――――――。
その時、床に倒れていたチズが俺を見つめていた。
辛うじて顔を上げる力しか残っていなかったチズが、これまで通りの強気な表情を携え、何かを見据えている。
暗闇を照らす粒のような光、絶望を打開する突破口。
「鳥太様、勝ってください。私チズ・バーガは、不本意ながら、あなたに忠誠を誓います」
息絶え絶えに言い終えると、その口元は勝気な笑みを浮かべ、小さな頭は再び床に伏せた。
起死回生の一手は、すぐ側にあった。
一人で戦っていたわけじゃなかった。
フィルシーさんが指摘した俺の弱さは、こういうことだったんだ。俺は守るべき彼女達の盾になることしか考えず、一番大切な”信頼”を忘れていたんだろう……。
トマトと組んでいたとき彼女と共に戦えたのは、彼女が何倍もの信頼を託してくれていたからだ。
俺はそれにほんの少し答えていただけに過ぎない。
メイドさんと共に戦い、メイドさんを守る。ようやくこの世界で進むべき道が見えた。
うつ伏せたチズに視線を向け、瞬き一つで承諾の意を示す。
体の奥に一点、熱い熱源が灯った。
『不本意ながら』と告げたチズは、俺の弱さを見抜いていたのかもしれない。
それでも、忠誠を誓う心に偽りはないと、この熱が語っている。
溶けた鉄のような熱源に呼びかけ、それを手のひらに移した。
ヴィーヴァは段階的に闘気を上げ、ようやく攻撃を振りかぶったところだ。背後にいるにも関わらず、パワー馬鹿は不意打ちなど考えていない。殺気を垂れ流しながら自らの力を誇示している。そして、こいつの纏うエネルギーは、俺とチズを一撃で仕留めた威力に達しようとしている。
それでも、心に灯った勝利への確信は揺るがない。
熱を帯びた手のひらを太ももに近づけた。
皮膚の表面を覆う薄い熱は、これまでのどのスキルとも感触が異なる。
今気づいたが、熱の深さはスキルの持続時間に比例する。薄皮一枚しかないこのスキルはおそらく数秒で途絶える。
同時に気付いたのは、”熱の温度”が”スキルの威力”に比例していることだ。
このスキルの特性はおそらく速度の上昇だが、どれだけ速く動けるのか想像もつかない。
それどころか、俺についてこれるのかと挑んでくるような気配すらある。
――持ち主に似てるな。
ふと湧き上がった感想が妙にしっくりときた。
手のひらが太ももに触れる。熱は服をすり抜けて皮膚に到達し、一瞬で体表を覆った。
熱源そのものになったような感覚。エネルギーを、全身に感じる。
振り返る。
まずは攻撃モーションに入っているヴィーヴァを瞬殺する。
そう思ったときにはすでに、ヴィーヴァと向かい合っていた。
体を反転させるのに要した力は、指先を曲げる力よりも小さかった。
あまりの感触の薄さに唖然とするが、同時に、勝利への確信が強まる。
初見でこのスキルをコントロールすることができれば、間違いなく勝てる。そう思えるほどこの速度はずば抜けている。
油を塗った氷の急斜面を滑るイメージ。
逆らう必要はない。滑るなら足を浮かす必要も、重心を移動する必要も、体重を足で支える必要もない。
このスキルの発動中、俺の体は自分の物であり、自分の物でないんだ。ゲームのアバターを指先一つで動かすような感覚。勝負を分けるのは操作技術と、数秒間で勝利への筋道を組み立てる思考力。
冷えた脳はどこか深い場所へ沈み、目の前の巨大な執事だけを視野に捉えていた。
ヴィーヴァはすでに拳を撃ち出している。その動きは驚くほどはっきりと見え、周辺視野の情報も同時に処理される。
剥き出しの白い歯。百獣の王を彷彿とさせる。
ライオンとチーターならライオンに軍配が上がる。だが、時速百二十キロメートルを優に超えるチーターは、何もさせずその太い首を食いちぎるだろう。
小柄な金色のチーター。それが俺のイメージする最高速度だった。
メイド好き以外に取り柄の無い俺は、この力を、不本意と言ったチズの忠誠を、馬鹿みたいに信じることしかできない。それが女神に見出された俺の価値だ。
金色のチーターがライオンの背後を取るイメージを思い浮かべた。
映画の一フレームが切り替わるかのように、一瞬で目の前にヴィーヴァの背中が現れる。
ここまでおよそ一秒。
背後を取ったら何も考えることはない。
思考が言語化・映像化するよりも速く、壁のような背にたった一発だけ、異次元の速度の拳を撃ち抜いた。
ズドッッ
右手に鋭い痛み。
予想はしていたが、拳が速度に耐え切れず、悲鳴をあげた。
けれど、巨体の背骨を砕いた感覚もあった。これでヴィーヴァは戦闘不能だ。
残るは瞬間移動らしきスキルを纏っているクリフィア。
ヴィーヴァほどのヤバさは感じなかったが、こいつは頭が切れる。同等の脅威だ。チズのスキルが切れたらどうなるかわからない。この熱が消える前に倒さなければ。
ここまでおよそ一・五秒。
全身を覆う熱の膜は、すでにセロファンより薄くなっている。
それでも、体をマグマに浸したような熱は冷めることを知らない。
金色のチーターは形を失い、金色の筋となってクリフィアへの道筋を描いた。
このわずかな時間でも、脳はスキルを使いこなし始めている。
クリフィアは目を見開き、ポーカーフェイスを崩していた。
つまり、俺がヴィーヴァを瞬殺したことは認識している。もしもこいつが意識するだけで瞬間移動できるなら、思考速度で動く俺についてくる可能性もある。
まだ砕けていない左拳で、試しに三発の打撃を放った。
しかし半ば予想通り、拳には皮膚を撫でる程度の感触しかなかった。
目の前にクリフィアはいない。
やはり、クリフィアの移動スキルは瞬間移動だ。
しかし、移動はクリフィアのコントロール下ではなく、おそらく自動的に“飛ぶ”。
これまで二度見せた動きは、どちらも対象の背後に飛んでいた。
奥歯に力を入れ、砕けた右拳を強く握った。
脳内で描ける最高速度のイメージは、どうしても無駄のない動きに限る。だから、空を切った拳ではなく、後方に引いていた満身創痍の拳を次の武器として選んだ。
砕けている右拳を振り回し、背後へ放つ。すると予想通り、皮膚に触れた程度の感触を残して、拳は空振りした。
クリフィアが正面に瞬間移動してくる。
これでこいつのスキルは”触れた相手の背後に飛ぶ”と判明した。それなら殴る必要はない。
左拳で前方を、砕けた右拳で後方を、交互に攻撃する。
合計十六回、クリフィアは飛んだ。そして、十七発目でようやく拳がその体に当たる感触があった。
瞬間移動の制限回数は二十回だったらしい。
悠長な戦いぶりからして制限時間ではないと踏んでいたが、予想通りだ。ここまで俺の動きにミスはない。
加速の残り時間はコンマ一秒未満。そして、今クリフィアに触れているのは、不運にも崩れかけた右拳だ。
これを突き出しても殺傷力に乏しく、かといって左拳を繰り出す時間もない。
いつかスキルを使いこなせば左拳で攻撃できそうだが、今の俺の最高速度は、どうしても”無駄のない動き”になる。
それなら。
左右どちらの拳でもなく、”足”を最後の武器として選んだ。
あらゆる格闘技の基本姿勢がそうであるように、今俺の膝は適度に曲がっている。
つまり、この瞬間に動ける。
全力で地面を蹴った。
その瞬間、体中の熱が霧散した。
スキルの持続時間はたったの二秒間で切れた。けれど、脳内で描いたチーターは金色のまま、慣性の法則にしたがって、この体を異次元の速度で運んでくれる。
宙を舞いながら、右肘をクリフィアの腹に押し当てた。
左手で右手首を掴み、押し込む。体に残っているエネルギーをすべて肘に伝える。
両足の感覚はない。ここで決めなければ負ける。
前腕、上腕、肩、胸部、腹部、背、使えるものをすべて使い、その重みを押し上げた。
俺が背負っているのは、こんな薄っぺらい執事とは比べものにならない、大きなものだ。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
傷つけられたチズを、助けるべきライムを、これからまた共に戦うトマトを、思い浮かべた。
クリフィアはクッセンに向かって一直線で飛んでいく。
力尽きた俺は床に崩れながら、目だけを動かし、その結末を見届けた。
勝利。
思わず笑いが零れる。
荒れた室内には、四人の男と一人のメイドさんが床に這いつくばり、ライム一人が立っていた。
小麦色の肌をしたメイドさんは俺と目を合わせて、ポカンと口を開けたまま、笑って見せた。
「すごい…………です!」




