ボクのイシ 1
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ケタタタタ
胃のものが全てひっくり返るような吐き気と共に新堂真優は目を覚ました。
夢を見ていた気がする。とても苦々しい、嫌な夢だ。
真優はその内容を思い出そうと寝起きの頭を働かせてみたが、結局上手くいかずに断念した。
横目でチラリと古ぼけたデジタル時計を見ると、時刻は午前五時を少し回ったほどだ。部活に所属しているでもない真優が、学校に登校するのはまだ随分と早い。
妙に重たく感じる体をベッドから起こすと、寝汗で肌に寝巻がベタリと張り付いてる事に気がついた。何と言えない気持ちの悪さだ。四月も終わりを告げて、五月が目の前に迫っているこの時期、この時間帯としてこの寝汗の量は異常なものの様に思えた。夢見が悪かったせいだろう。そう溜息ながらにバスタオルを掴むと、そのまま部屋を出て浴室へと向かった。
傾斜の急すぎる階段を下る。浴室に入る前にチラリと奥の部屋を伺ったが、人のいる気配がしない。無論、他の部屋も同じだろう。
また、帰ってこなかったのか。
その見慣れた朝の風景に真優はすでに思うところはない。服を脱ぎ捨てカゴに放り込むとバタンと浴室のドアを閉めた。
蛇口をひねる。熱めのシャワーを頭から浴びながら、真優は深くため息をつくとおもむろに鏡に手を伸ばした。
貧相な体つき。顔を覆い隠すほどに伸びた前髪から覗く顔は、男とも女とも取れるあやふやな顔立ち。近所に住むおばさんはかわいいと褒めてくれたが、真優自身はいかにもひ弱という印象を受けて好きになれなかった。
僕には何の取り柄があるんだろうか。
最近の真優の悩みの種と言えばずっとそのことだ。自分の価値を探す。思春期によく見られる特徴の一つではあるが、真優のそれは少しばかり異なっていた。
焦燥のような感情が吐息と一緒になって漏れて出る。
「早く、なんとか、しないと……。このままじゃダメだ」
感情が言葉になって現れる。真優の表情は明らかに穏やかなものではなかった。
やはり頭から下へと滴る湯は、汗を落とすことは出来ても、真優の気分を払拭することはないようだった。
ーー今日から学校だ。
○
世の中には選ばれた人間という存在が必ずいる、と真優は考えていた。
それが悪いわけではない。人から選ばれた人物は選ばれたなりの理由があるわけで、選ばれなかった人間がそれを非難するのはただの僻みというものだ。しかし、選ばれるというのは、それだけではない。
MVPや代表などの期待を向けられる人間がいるなら、失敗の原因、怒りの矛先として選ばれる戦犯者のような『選ばれてしまった』人間もいる。それは純粋な非難もあるだろうが、中には責任という二文字を何らかの形で軽減しようとした結果として、という意味も含まれている。失態を晒した者を挙げることで、自身の犯した細かなミスや、中庸さを棚に上げる為に槍玉に使う。灰色は黒で塗りつぶす。よく見かける光景だ。しかし、真優はそれも否定をするつもりはなかった。
ミスをした人には相応の責任があるし、他人のミスを騒いだ所で自分のミスが消えてなくなるわけではない。結局は自分がどう受け止めるかの違いでしかないのだ。
ただ。人の意思を介さずして選ばれた人間。これに対しては真優はどうしようもない無力さを感じてしまう。生まれながらにして持ち合わせた才覚は、時に周りの人間を巻き込み、それらを圧倒する。
「……自分にも」
そんな才能があったとしたら、また別の景色を見ることができたのだろうか。
喉まででかかったつぶやきは、急に勢いをなくして再び胸へと落ちていく。
本当の意味で選ばれるということを、真優は望んでいたのかもしれない。
ガラリと教室の扉を開けると既にクラスメイトの面々は着席していて、教卓に立った先生が出席を取ろうとしている所だった。
確か数学担当の山下先生だったかとぼんやり思い出してると、その山下が真優に言葉に棘を巻き付けて投げかけてきた。
「ああ、新堂だったか。遅いぞ、何をしてたんだ。せめてチャイムがなるまでに席についておけ。常識だぞ」
「すみません。……少し事情が」
「言い訳をするな言い訳を。どうせお前のことだ、探し物か何かだろう? 管理がなってないからそうなるんだ。遅刻は遅刻だからな」
「……はい。以降気をつけます」
にべもなく告げる先生に真優は内心でため息をついて従う。周りクラスメイトからクスクスと笑い声がうっすらと耳に届く。とても居心地が悪い。真優は頭を下げると顔を前髪の奥へと引っ込めた。自分の席に足を向ける。席はちょうど教室の中央に位置していて、本来なら一番目立ちにくい位置取りであるはずの場所だった。
真優においては、あくまでの話でしかなかったが。
一人の生徒が手を挙げた。
「せんせーい、新堂君がまた目立とうとして、自分の席にお花添えてまーす」
真優の席には花瓶が置かれ、そこに花が生けてあった。
「てか、何お前。死人なの? ゾンビじゃん。どうりで血色悪いし臭うと思ったわ」
打ち合わせた様に茶髪の男子生徒が立ち上がり真優の横で鼻をつまむ。
他のクラスメイトの口々からは笑いが漏れて出ていた。
「はいはい、ふざけるのもそこまでにしろ。行き過ぎはいじめだぞ? それと、新堂。お前まさか遅刻の原因はそれ何じゃないだろうな?」
そこで「うわっばれたわー」と先程の茶髪の男子生徒が答えて、先生が「お前は新堂だったのか」と突っ込むとクラスメイトから再び笑いが飛び出した。「ありえねー」らしいようだ。
これは楽しい『ネタ』であって、それ以外の何物でもない。そう告げているような雰囲気だった。
一方真優はこの茶番じみた一連のやり取りをただ傍観していた。
そして、最終的に安堵する。
ーー何だ。今日は随分とまともじゃないか。
足元の『不自然』に汚れた上履きに目を落とすと、口角を釣り上げて笑って見せた。
「嫌だな、ほんの冗談じゃないですか」
その言葉で一連に定形が完成し、ここでのやりとりはイジりに変換され今日も今日とて平和なクラスの時間が流れていく。
人の意思がある限り、平和というのは誰かの妥協や諦念の上でしか成り立たない。完璧な折衷案など最初からあるはずもなく、そこに『選ばれてしまった』人物はただその流れにみを任せるより他はない。仮に抗う術を持つ者がいるとするのなら、きっとその人物も何らかの選ばれる要素を持っている人物なのだろう。しかし、そのような人間が埋もれてしまうことはほぼ皆無ということは、真優自身が残酷なまでに理解していた。
平和の上には必ず何らかの犠牲が伴っている。真優はその犠牲に『選ばれた』のだと思うことで、自身に残ったなけなしのプライドを守ることにしていた。
何時限目の授業だっただろうか。もう長いことノートをとる必要性がない真優にとって、学校での授業とはつまらないラジオ放送を延々と聞かされている様なもので、もはやじっと大人しく座っていること以外することがなかった。板書した所でその書き留めたもノートの『日持ち』がよくないのだから、真優にとっては当然の帰結といえた。
シャーペンが擦れる音をただぼんやりと聞いていると、それを裂くようにガラリと教室の扉が開いた。
廊下から一人の女子生徒が入ってくる。
スカートから伸びるスラリと長い脚。ブレザーの上からでも隠しきれないしなやかな曲線を描く体。髪は肩口で切り揃えられている。整った顔立ちの中でもその瞳は刃物を連想させる程に鋭く、油断が一部もない雰囲気を醸し出していた。
竜胆奏。彼女が登場した途端にクラスの空気は一変した。ある生徒は見とれるように。ある生徒は畏怖じみた念を馳せて。教師でさえ彼女の扱いに困った様子で声を出しあぐねいている。
クラス中の視線を絡みつかせながらも、竜胆は気にかけた風もなく席に向かう。勿論そんな彼女が遅刻したことを詫びる素振りも見せるはずもなく、それを教師が咎めることはない。
――ああ、今日もか。
真優は自分に近づいてくる竜胆を目にして気が遠くなるような感覚を覚える。
彼女の席は真優の斜め後ろと近いのだ。だから彼女がこちらに歩いてくるのは不思議な事ではない。今、竜胆は真優の横を通り抜ける。
すぐ後ろで竜胆が椅子を引く音がすると、凍結されていた授業が解凍され始めた。だが真優だけは凍ったまま動こうとはしない。動かない。
実はこのようなことが起きるのは今日だけのことではないのだ。
真優がどの席にいようが、視線を意識的に合わせないようにしていようが関係などない。彼女、竜胆奏が新堂真優に送る視線はいつだって同じ。
――今日も同じように。
凍てついたままの真優を置き去りに授業は残酷に進んでいく。
それは刻一刻と放課後が迫っていることを示していた。真優にとって授業とは勉強するための時間でも、暇を潰すための時間でもない。
――今日も僕は竜胆さんに、殴られる。
授業とは、体を少しでも休め時間。ただそれだけだった。
そして、今でも忘れることは出来ない。
彼女の刺し殺すようなあの瞳の色を――




