2章 ここ最近で一番皮肉な日 7
――暗転。
いや、正確には、視界の一部が急激に色濃くなった。
黒だ。人型の形をした黒い塊のようなものが五つ、地面から生えるようにして立っている。顔と口と思わしき部分が窪んでいる。
真優はそれがなんなのか理解が及ばなかったが、先程まで立っていた誘拐犯が立っていた位置に取って代わってその場に現れたことと、目の前で僅かながらも動いている巨大な漆黒の人型の動きが、あの男が少年を蹴ろうとしていた動きと一致することから、影のような黒い人型の正体は誘拐犯であると真優は判断した。
これがどういう現象かは、この際どうでもいい。
「――――」
真優は視界の隅に鈍いひかりを捉えた。優しい色をした光だ。心が惹かれる。
察するにあれは今真優の元に向かおうとしている少年なのだろう。誘拐犯たちが黒く染まったのに対して、目に映る少年の色は印象と違わず淀みがない。
その光が汚されようとしている。
圧倒的な力によって呑み込まれようとしている。
許せる話ではなかった。
本来の自分とはかけ離れた思考の帰結。出自不明の底冷えするような力の奔流が、この停滞した空間の中で真優の体を動かすことを可能にした。気づけば体の痛みが霧散していた。
まず最初に目下一番の脅威と思われものに狙いを絞る。
手を伸ばして黒い塊の足と思わしき部分を掴むと、それを支点にして一気に立ち上がった。どうやら脱臼まではしていなかったようだ。
(――遅い)
動けるとは言ったものの、その動きは随分と緩慢としたもので苛立ちすら覚えるほどだった。真優の感覚で2、3秒をかけて立ち上がる。同時に支点に残した手に現在考えられる全神経をそこに注いだ。軸がぶれた。影の体勢が大きく逸れる。必中だったはずの蹴りは、明後日の方向へと矛先を変えた。
(よし、これで)
大丈夫。そう思った瞬間だった。
音、気配、動作、活性。塞き止められていたかのように感じられた全ての物体に流れが戻ろうとしている。そんな直感がよぎった。刹那、動揺が走る。フラッシュバックしたのは真優が初めてこの感覚を知った直後に起きた、意識を焼き切るような脳への痛みだ。あれが今起きてしまえば折角回避した脅威をただ先延ばしにしただけに終わってしまう。
――それはダメだ。
思い至った真優の次の行動は早かった。
まだ勢いを残している体を倒すように前進させる。ひとまず体勢を崩した影もどきは放置。それ以外の影に身を踊りかからせた。
六メートルほどの距離を一歩半で踏破。流れが戻りつつある今、体を動かす速度が先程とは段違いだった。最後の半歩で影に向かって拳を突き出す。今のところ他のどの影もぼんやりと突っ立っているだけで何ら動きも見えない。争いごとにおいて全くの素人の真優でも動かない大きな的に拳を当てるのは簡単だった。
影に拳が直撃する。影がくの字に折れ曲がり後方へと吹き飛んだ。それを確認するまでもなく真優は次の目標へ。今度は一歩でたどり着く。ここにきてようやく影に動きらしき動きが見られた。真優の姿を捉えたのか、それとも事態の動きをようやく認めることが出来たのか、真優に目の前まで迫られた影が仰け反るように後ずさった。その他の影も言葉とも取れない音波を発しながら真優に向かって迫ろうとしている。
アドバンテージが失われつつあった。
後ずさった影を掴んで手繰り寄せる。そのまま力任せの投げ。迫ろうと動き出す影へ投げた。みちり、と軋むような音が肩から聞こえる。不思議と痛みはなかった。それをいいことに吹き飛ぶ影に隠れるようにして接近、肉薄する。目の前に飛んできた『仲間』に影の足が完全に止まる。おろか死に体近い体勢だった。そこに好機を見た真優が後ろから飛び出し、影の頭部を鷲掴みにして勢いのまま後方に押し倒した。
掴んだ影の後頭部が地面に打ち付けられる音と、初めに吹き飛ばした影が四人目の影を巻き込むようにして倒れこむ音はほぼ同時だった。
(残るは――)
怪物。一言でいえばそんな印象すら受けるドの付く黒い塊の影一人。否、一体。
真優は直様反転すると体を捻った勢いを腰へ、腰から左足へと載せる。載せた足が地面に接地するとそこを回転軸とし、今だ余る余剰な遠心力を右足へ移す。バックスピンキック。空手における後ろ回し蹴りが無意識に再現されようとしていた。
足と共に真優の目が暗黒の影を捉える。影はすでに体制を立て直しており、真優の蹴りに対して防御姿勢をとっていた。さしもの怪物も真優の常識の垣根を軽く飛び越えたような動きに面を食らったのか、真優の繰り出した不用意とも言える大技を潰しに掛かる余裕はなかったようだ。
足刀が盾と見紛うばかりの腕にぶつかる。
――均衡は一瞬だった。
めごり、と奇っ怪な振動が真優の足に伝わった。得体の知れない力を宿した真優の足刀は容易く盾を切り裂いた。黒い怪物の腕ごと真優の足が横薙ぐ。しかし真優も着地は失敗しうつ伏せに地面に放り出される。もう、あの超常的な感覚はなくなろうとしているようだ。真優は歯を食いしばると倒れた背中越しに怪物をみやった。
果たして、その影は――
「笑って――」
影の怪物の口角はつり上がっていた。
狂気のような笑みに鳥肌が立つのを感じる。
やがて怪物が地面に倒れ伏す。
ギュウウウウ
表記するとするならそんな音と共に倉庫内部は完全に動きの流れを取り戻していた。真優の荒い息だけが静寂に対抗するように虚空に響く。腕に残ったなけなしの力を入れてなんとか立ち上がる。
(終わった、のか――)
視界に入った五つの黒塊を目にして、この嘘じみた現実をどう呑み込むか頭を押さえようとしたところだ。
異変が起きていた。
「――――」
絶句するほかない。
それは悪意であり、貪欲であり、同時に亡霊のように浮いていた。
想像を絶する恐怖が真優の全てを行動不能に陥らせる。
虚空には黒い塊が浮遊していた。それがあの影の正体であることに真優が気づいたときにはすでに謎の浮遊物は次の行動を始めていた。
黒い亡霊が吸い込まれるように真優に向かってきている。
再び真優の思考が凍結する。
為す術もなかった。やがて迫りきた浮遊物は真優の視界を黒く染め上げと、筆舌しがたい不快感と言いようのない恐怖が背筋を撫でて息をつまらせた。
こんな体験を味わうのであれば、一緒に意識も刈り取ってくれればどんなに楽になるだろうかと本気で願ったがそう都合もよくもいかず、真優はただ耐えることのみを強要された。
悪夢が去り、やがて視界が晴れる。
倉庫には静けさが戻っていて、周りには倒れ伏す男=誘拐犯と呆然とする少年を残すのみで、換気扇の回る音だけが延々と空虚に響くのみとなっていた。
(一体、今何が――)
思い出すのも躊躇うような体験だったが、真優の意思とは裏腹にある仮定が脳裏をよぎった。
自分の視界を黒に塗りつぶした影は去った。そこはいい。問題はどこに去ったのか。
あの影が自分に迫った時の光景を思い出すと、いやでも連想せざるを得ない。例えるならそう、風呂釜の線を抜いたときに起きるあの現象。あの音。流れ込むイメージ。
置き換えて、影が流れ込む水だとするなら、排水口になぞらえるものは――
「う……」
思い当たった時はじめに出たのは吐き気の混じった呻きだった。
腐敗した水を口から大量に流されたような怖気が走る。例えがしっくりとこないのであればゴキブリを服の中に何匹も入れられたに変えてもいい。
考えうる最悪の精神的嫌悪が真優の全身を駆け巡った。
「うあああああああああああああああああああああああああああ」
絶叫。悲鳴。
雷に打たれたように真優は遮二無二走り出した。絡みついた不快感を振り下ろすかのように体をねじりこすりながらの不自然で不格好極まる走りだった。
今の真優に当初の目的はすでにない。
今はただ不快なもの一刻も早く取り除きたい。その一心だった。
そして真優がその当初の目的を思い出すのは倉庫から走り去ってからたっぷりと数時間後。自宅ソファーの上で飛び起きるように意識を覚醒させてから数分後のことだった。
しかし、記憶に新しいあの超常的な力を行使した代償だったのか、まもなく全身から歩くのも困難な苦痛に苛まれ、ソファーの上でただ身を悶えるだけとなった。
結局苦痛から解放され真優がソファーの上から動けるようになったのは、翌日、日が傾き始めてようやくのこととだった。




