我が娘に捧ぐ 第二話
あの夜から早10年が過ぎた。
あの男の子が来たときの話をペトロから聞くたび、心が浮足立っているのを感じていた。
アイリスにとっての初めての友達なのだ。嬉しくない訳がない。
長きに渡ってアイリスに会いに来てくれていることにも感謝していた。
アイリスにも目に見える変化があった。以前より口数が多くなり、笑いかけてくれることが多くなった。前は笑っていてもどこか影を落としていたが、それも消え失せている。
だがアイリスの中で、外への憧れが大きくなっていることに、私は気付いていた。
口では決して言わないが、アイリスは外に出てみたいのだ。だがあの子はとても優しい子。私を気にかけて決して我儘を言わない。
母である私にはそれが手に取るように分かってしまうので、それが心苦しく感じる。
「ウェーデル様、国王がお呼びです。」
屋敷を見ていた私は、しばらくして重い腰を上げた。
クリフォードは一度もアイリスに会っていない。
まるでアイリスの存在を恐れているように、アイリスの話を避ける。
王の座を守ることに必死なのだ。我が娘を閉じ込めてしまうほどに。
「何の御用かしら。わざわざ私を呼びつけるなんて珍しい…。」
そしてクリフォードの口から、信じられないアイリスの婚約話を聞くことになるのだ。
部屋の明かりを点けずに、私はロッキングチェアに揺られながらあの屋敷を眺めていた。
あの子が、結婚して遠くに行ってしまう。それは遠からず覚悟していた未来だったので、それだけなら悲しみを募らせるだけだっただろう。だがしかし、あのハリソン王国への嫁入りとなれば話は別だった。
ただでさえ、あの子には不自由で自分の権利を奪うような毎日を送らせているのだ。私にはそれに生涯寄り添い見守っていく責任があると覚悟していた。自らそう決めていたのだ。
母親として、そして父親として、クリフォードも同じ気持ちだと信じていたが、それは違っていたようだ。今までこれほどにクリフォードに失念したことはない。
あの子の為に、どうしたらいい。どうしたら、このままでいられるのだ。
「……このまま?」
浮かんだ言葉に、私は疑問詞を付けた。
このまま、どうするというのだ。このままずっと一緒に…。
私は、アイリスがこのままあの屋敷にいることを、望んでいる…?
私はそれを拒絶するかのように頭を勢いよく振った。
そんなはずはない。だって私は誰よりもアイリスの事を想い、考えてきたのだ。月に一度は欠かさず会いに行って、手土産もたくさん用意して、いろんな話をして…。
抱えていた頭をふと上げ、私は目を見開いた。
否、それは言い訳に過ぎない。
さまざまな口実を作り、私はアイリスを愛しているのだと、己を言い聞かせてきただけではないだろうか。
私は誰よりもアイリスの事を想っている。見捨てたりなどしていない。だって、私はあの子の母親なのだから。
私は、子供を不幸にするような、ひどい母親ではないのだから。
今になって気付いてしまった。全てアイリスの為と思っていたことが、本当は自分の醜い理想を形作る為でしかなかったことに。
認めたくなかったのだ。私はこの国の王妃。国民を幸せを願い、見守る立場にある私が、一番近い存在である娘に何一つしてやれていないことが許せなかったのだ。
瞬きを忘れた目に涙が溜まる。
あぁ、私もクリフォードと同じ。アイリスの存在に怯えていたのだ。あの子を閉じ込めているという事実から逃れたかったのだ。だからあの子の事を考えることで、罪の意識から遠ざかろうとしていたのだ。
あの子から見れば、私とクリフォードの存在は同じだというのに。
クリフォードを卑下する資格などないのだと、私は痛感した。
しんと静まり返った部屋に、小さな叫びが木霊する。そのしゃがれた声が自分のものであることが信じられなかった。
16年という月日を嘆くのには充分だ。
月明かりが私の顔を照らし、涙に反射して宝石のように輝く。
あぁ、そうだ。今日は満月だ。アイリスがあの青年と会っているのだ。
私には見せないそれはそれは美しい笑顔を向けているの違いない。
私は泣いた。声が枯れての喉が潰れそうになっても構わなかった。
見回りを終えたペトロが異変を感じ部屋に入ってくるまで、私の涙は枯れることはなかった。
予告では2話で終わると言っていましたが、もう1話だけ続きます。
次でウェーデル編は終了です。