我が娘に捧ぐ 第一話
ウェーデルのお話です。
生まれてすぐに、城に幽閉されてしまったアイリス。
母。ウェーデルはアイリスに会えない悲しみを抱えて生きることになります。
そんなウェーデルサイドから見たお話です。
安らかに己の腕の中で眠る我が子。長い間待ち続けた念願の子供だった。
緊迫した空気の中、赤子の周りだけが、なんとも穏やかで心地いい雰囲気を纏っていた。
私の顔も思わず緩み、先程受けた衝撃を忘れたかのように心穏やかだ。
柔らかい頬を指で優しくなぞっていると、遠慮がちに手が差し出される。それがクロアのものであることはすぐに分かった。私はそれを拒むかのように、我が子・アイリスを己の胸に抱き寄せる。
「ウェーデル。」
その声で自身が大きく震えたのが分かった。この国で誰よりも強い権限を持つ、国王・クリフォードの言葉だ。
「……分かっています。」
この国の未来の為、国民の為、そして愛しき子・アイリスの為に。
ゆっくり名残惜しむかのように、私はクロアにアイリスを差し出す。それをクロアが丁寧に優しく受け取る。
腕からぬくもりが、消えた。
やっと授かった、誰よりも大切な我が子。
私は今日、アイリスを手放した。
「お母様、今日ペトロと馬に乗るんです。お母様も見てください。」
「そうなの。でもごめんね。お母様まだ仕事が残ってるの。終わったら見に行くわね。」
アトラスは少し落ち込んだような表情を見せるが、すぐに笑顔を見せた。
アトラスはアイリスが生まれた3年後に授かった子供だ。
皇子だとわかったときは、心の底から安堵したことを覚えている。
「分かりました。約束ですよ。」
「えぇ、約束。ペトロ、アトラスを頼むわね。」
「かしこましました。アトラス様、参りましょう。」
ペトロに連れられ、アトラスは部屋を出ていく。大きなドアが閉じる音がした瞬間、私は窓の向こうの屋敷を見つめた。
今日は月に一度の、アイリスに会いに行く日なのだ。部屋にはアイリスに渡すプレゼントが数多くあり、その準備で忙しい。
私は再び使用人に指示し、プレゼントの包装を急いだ。
あれから6年。アイリスを屋敷に閉じ込め月日は6年経った。
アイリスは美しく育った。まだ幼いとはいえ、あと10年もすれば、誰もを魅了するような女性になることは間違いなかった。私から受け継いだ栗色の艶やかな髪が、丸めの輪郭と愛らしい表情を優しく包む。
ピンクの包みを開けると、そこには新しいドレスが入っていた。アイリスの表情が明るくなる。
「素敵なドレス。ありがとうお母様。」
私はそれに笑顔で返す。ドレスを胸に抱きしめ、アイリスはその場でくるりと回る。
この6年間、アイリスの事を思わなかった日はない。
同じ城の敷地で生活し、すぐに行ける距離にいるのにも関わらず、会いたい時に会えない我が子。
アイリスは初めどんな言葉を発したのだろう。ハイハイを、立てるようになった時期はいつ?
きっと夜泣きもひどかったんでしょうね。それともあまり泣かないいい子だったのかしら。
クロアの口からしか、アイリスの日々を知ることができない日常。親が楽しみにする我が子の成長を、私は感じることができなかった。自らの母乳を与えることも叶わず、アイリスと私は引き裂かれた。
しかし、これしか方法はなかったのだ。毎日は会えなくても、アイリスが生きてくれただけでいい。
きっとこれが、最善の策だったのだ。
「ウェーデル様、お耳に入れていただきたいことがございます。」
書斎で書類を読んでいた私は、顔を上げペトロの真剣な顔を見つめた。
「何かしら。」
「実は昨晩、城への侵入者を見つけましてございます。」
「まあ、それは大変ね。すぐに国王に知らせないと。」
立ち上がろうとした私を、ペトロは手でやんわりと制す。
「それば、どうも普通の侵入者ではないようなのです。その者は例の屋敷の傍におりまして。」
それを聞いて私は目を見開いた。
「それは非常にいけないことじゃないの。まさか、あの子の存在を知られて…・」
「はい、私もそう思いましてすぐに捕えようと思ったのですが、その者は幼い少年でして、しかもイバラの君と何か話しているようなのです。」
誰が聞いているのか分からないので、ペトロはアイリスの事を『イバラの君』と呼ぶのだ。
「あの子と?」
「はい。それも随分親しい様子でした。一日二日の仲ではないようで、何を話しているかは分からなかったのですが、イバラの君の声は随分楽しげなご様子でした。念のため町の様子を窺ったところ、そのような噂も流れておりませんでした。」
「…それは本当なの?」
「はい。嘘は申しません。」
ペトロは私に長年仕えるもっとも信頼の置ける従者だ。彼が言うのだから間違いはないだろう。
「…ペトロ、しばらくはあなたが屋敷の見回りをしてくれないかしら。そしてまたその少年が現れた時私に教えてほしいの。」
「かしこましました。」
ペトロは軽く会釈する。
それから私は書類の文字が頭に入らなかった。早々に仕事を切り上げ、アイリスの事を考えながら眠りについた。
それから半月もしない頃だった。
ペトロから例の少年が現れたと聞き、私はすぐに質素な服に身を包み、そっとバラ園に出た。
物陰を伝うように屋敷に近付く。すると、なにやら話し声が耳に届いた。まだ声変りが始まっていない、高い男の子の声だった。
しばらく耳を傾けていると、聞きなれた違う高い声がした。くぐもって小さかったが、間違いなくアイリスの声だ。
嬉しそうな声音だった。私と会った時の声の感じとてもよく似ている。それが私にとって衝撃だった。
笑っている。アイリスが。私以外の者に。
そう思うと、私は小さく肩を震わせた。ペトロがそれに気付き、、そっと背中に手を添える。
嬉しかった。アイリスが新たな喜びを感じていたことに。
私と会うこと以外の楽しさを知っていたことに。
「…戻りましょう。」
小さくそう言うと、私は城の方へ体を向けた。
「よろしいのですか。」
「えぇ、せめて、これくらい…。」
自由を知らないあの子の、唯一の友達との時間。
それを壊すような親が一体どこにいるというのか。
「ペトロ、またしばらく頼むわね。」
ペトロは珍しく頬を上げて頭を下げた。それを見て、私は穏やかな表情を向けた。
せめて、せめてこの時間だけは。
どうか、どうかあの子が笑顔でいられますように。
私が与えることができなかった世界を。
あの男の子が、見せてくれますように。
どうか、どうかあの子が。
笑顔を絶やさぬようにいられますように。
閉じきった部屋の闇に呑まれることなく。
己の人生を悔いることなく。
笑える日々を送れますように。
ひらすらに、私は願う。