別れ話の証明問題
「別れて欲しい」
なにを言い出すかと思えば、別れ話だった。
河野先輩が突拍子のないことを言い出すのはいつものことだけど、別れ話は初めてだ。
あまりの事に驚いて私は盛大にむせた。気管に入ったコーヒーの苦い香りが、脳を支配する。咳き込む私の背中をさする先輩の表情が心配気で、少し安心した。よかった、嫌われてはないみたいだ。
どうにか落ち着いた私は涙目で言及する。
「なんでですか」
先輩は、はっとしたように私から離れて部屋の隅で膝を抱えた。「いや、その、えっと」をもごもごと繰り返す。高校生にもなって、相変わらず面倒くさい男だ。
「小谷はいつか俺と別れるだろ? 嫌いになるとかそういうのもそうだけど、不可抗力で、どうしようもない事があって、いつか別れる。じゃあ今のうちに、別れたいんだ」
沈んだ声色はいつものこと。丸められた小さな背中も、いつものこと。でも、いつになく真剣だった。
よくまあ、こんな発想になるなあ。彼は私に嫌われたくないと人一倍思っているくせに、こういう事ばかり言う。いや、嫌われるのが怖いからなのかな。私はそんな繊細さを持ち合わせていないから、今ひとつよくわからない。
「そうですね、私の方が先に死ぬ可能性だってありますし。でも、今別れる必要ありますか? 少なくとも私は、別れたくないです」
先輩はやっと顔を上げた。
俯いて下ばかり見ている彼が、私の言葉で上を向く。おっかなびっくりに、まず目線を先に向けて、それからゆっくり面を上げる。私はこの瞬間が、たまらなく好きだ。
くまのぬいぐるみをじっと見つめながら、彼は呟くように話し出した。
「足し算なら2+1も1+2も3だけど、引き算にしたら2-1はプラス1だけど、1-2は、マイナス1になるだろ?」
「……えらく突然ですねえ。数学の話ですか?」
「ううん、別れ話」
また変わった別れ話だ。
私が怪訝な顔をするのも気にせず、先輩は続ける。
「――俺が小谷を100好きだとしたら、小谷はたぶん俺を20くらい好きだろ? つまり、今俺たちが別れても小谷は80のプラスなんだ。でも俺には80のマイナス」
……どうしよう、理解出来ない。けど、つまり先輩は今私と別れたら損するって事っぽい。
「はぁ。じゃあ、むしろ別れない方がいいじゃないですか」
私はこめかみを押さえながら言う。
すると先輩は、もっと未来のこともふまえなきゃいけないんだ、と首を横に振った。
「俺は半年もしたら120くらい好きになってる。けど、小谷は10くらいに下がってるかもしれない。となると、半年後に別れたら、俺はマイナス110なんだよ。110も失うより80で済ませた方がいい。――よって、俺は今別れたいんだ」
証明終了、とでも言うように彼は黙り込んだ。残念ながら、私の苦手科目は数学である。私も揃って口をつぐむ。
結局彼の主張はなんだったのか。
100が120になったら更に損をするから、今のうちに別れたい? 傷を少なく済ませたい、という事か。
ていうか、これってさ。……私のことを、もっと好きになるかも、って事じゃないの?
先輩がそっと私の方を見て、目を瞬かせた。
「どうしたの? 顔真っ赤だけど」
指摘されてよけいに顔に熱が集まる。
私は目に角を立ててわめき立てた。
「先輩のせいじゃないですか! この女たらし! 卑怯者!」
「ひ、卑怯者……?」
「いっときますけど、私だって100です。100-100は0でしょ? 半年後も、120-120で0です! つまり、今別れようが半年後別れようが、おなじです」
「……小谷はなんの話をしてるんだよ」
それはこっちの台詞である。なんだか力が抜けた。
「だから、別れ話ですよ」