壁を引っ掻くモノ
不愉快な音というものは、確かに存在するんだ。
大きな音というのはその最たるもので、
高架下の電車の走行音、工事現場の掘削音、飛行機の低空通過音。いわゆる騒音と呼ばれるモノは、人の精神を容易く、壊してしまうことだってある。
でも、案外人間の順応性ってのは高くて、大抵の場合は慣れてしまう。現に線路沿いや空港のそばで暮らしている人だっているだろう。
つまり私が何を言いたいかって言うと、大きな音は慣れてしまうんだ。
それに対して小さい音。小さくて不快な音。これに人間が慣れることはない。人間だけじゃない。動物全てがこれに当てはまる。
絶対に聞き逃すことのない大きな音より、小さな音の方が大切なんだろうね。
忍び寄る捕食者の足音、草むらに息を潜める被食者の呼吸音。聞き漏らした方が後手を取る。
だから、生き物が小さくて不快な音に、慣れるわけがないんだ。
聞こえるだろう。さっきからずっと。小さいけど響いてる。この部屋に響いてるんだ。
よく耳を澄ましてくれ。カリカリカリカリ……。四方の壁を引っ掻く音。
爪の先で壁面を削り取る音だ。
ああ、分かってるんだ。この音の正体が、私には分かっている。
あの夜、目の前を女が歩いていたんだ。
体にはりつくようなぴっちりとした短いスカート、誘うようにコツコツと地面を鳴らすハイヒール。
唾液が出て、ただひたすらそれを飲み込んでいた。
想像していた。あの柔らかそうな体に抱きついて、胸を揉みしだき、首筋を舐め、自分のものを押し付けるのを。
頭の中でなら、どんなことをしようとも誰にも罰せられないはずだ。それなのにあの女は、振り返ったんだ。まるでこちらの頭の中を覗いてみたように、獣でも見るような目をして、駆け足で立ち去った。
だから私は、弁明しようとしたんだ。何もする気は無い。何もしてはいないって。
追いかけて、肩口を掴むと、女が悲鳴をあげたから、その口を塞ごうとして、揉み合いになった。
そしたら女が、勝手に転んで、電柱に頭をぶつけて動かなくなった。
そう、だから私は殺していない。女が勝手に死んだんだ。でもきっと、誰も信じてくれない。
目の前に死体が一つ。そのそばに男が一人。誰がどう見たって俺が殺したように見えるじゃないか。
どこか手近に、死体を隠さなければならなかった。
それで、思い出したんだ。ワンブロック先に、しばらく工事が止まっている建築現場があったことを。
私は死体を担いで、その現場まで運んだ。
わずか数十メートルだったが、あんなに距離も時間も長く感じたことはなかったよ。
建築現場は基礎工事もほとんど終わってなくて、足場の組まれた土台部分には、簡単に入れた。
断熱材か何かだったか、壁枠に嵌め込まれた板は存外簡単に外れてね。私はそこに女を隠したんだ。
うまくいったよ。次の日になっても女の死体が発見されたなんてニュースは報道されなかった。
死体が腐り始める前に工事が再開されたも幸いだった。あっという間に基礎工事が終わり、半年後に小さなビルが一つ出来上がってた。
初めは、いつ死体が見つかって自分が殺人犯にされたしまうかと、怯えて暮らしていた。だが、その頃には、そもそも女を犯すだけじゃなくて、死体を隠すところまで全部私の妄想だったんじゃないか。そう考えるようになっていた。
それなのに、私の平穏な日々を脅かすように、この音が聞こえるようになったんだ。
カリカリカリカリ……。って壁を引っ掻く音が。
小さな音だ。だけど妙に不愉快で背中が粟立つような断続的な音。家の壁、会社のトイレの個室の壁、カフェの壁。壁があるところならどこからでもだ。
あの女が出たがってんだ。ああ、そうだよ。埋めたのはあのビルの壁だよ。でも聞こえるんだ。
どこへ行ったって聞こえるんだ。
だから、出してやることにした。
斧をもって、あのビルに入って、女を埋めたあたりをかち割ったんだ。でも、女の死体は出てこなかった。
出てこなかったんだ。
なぁ、なんで埋めたはずの死体がないんだ。なんでなんだ。
ああ、ちがう。ほんとそう。わかってる。
壁ってのは繋がってるんだ。
世界中どこでも、繋がってるんだよ。
壁の中を移動して私を追ってきてるんだ。
だって、今も聞こえるだろう。あんたにだって聞こえてるはずだ。
カリカリ……カリカリって!ああ、頭がおかしくなる。この部屋の壁から今も聞こえるんだ!
どうにかしてくれ!
なぁ、頼む。頼むよ。早くアイツを出してやってくれ!私を解放してくれ!!
※※※
「先輩。あの犯人どうなったんです?」
「んー?どの犯人よ」
「ほら、昼間に◯◯第二ビルに侵入して、手斧で壁を壊したっていう」
「ああ、あいつ。心神喪失で今は閉鎖病棟よ」
「まぁ、そうですね。取り調べのときからあきらかにオカシかったですもん。死体を埋めたとか供述も支離滅裂でしたし」
「でもな、それ。事実だったんだ。アイツは女を襲って壁に埋めていた」
「え、だってビルから死体は出てこなかったじゃないですか」
「そりゃあたりまえさ。被害者は死んでない。生きてたんだよ。アイツは殺したと思い込んで壁に埋めたみたいだが、実際はただの脳震盪。意識を取り戻したら、自分で壁を突き破って出てきたってよ。被害届も出てたぞ」
「はぁ、なるほどね……。でも目覚めたら壁に埋められてるなんてたまったもんじゃないですけど。それで、被害者が生きてるって犯人には伝えてないんですか?」
「伝えてるさ、伝えてるけど信じない。いや、他人の言葉は聞こえてないって感じらしい。医者の話じゃ、今でも壁を引っ掻く音が聞こえる、女が壁から出たがってるって喚いてるらしい」
「自業自得ですね」
「アイツに聞こえているのは自分の罪悪感の音なのかもしれないな」
fin




