第7話 祈りは空へ
集中治療室で過ぎていった数日の話です。
ブランシュは、すぐには続きを話さなかった。
閉じたアルバムの上に置かれた指先が、かすかに動く。
ルミエールも何も言わず、その沈黙の先を待っていた。
やがて、ブランシュが静かに口を開く。
「ノアールは、目を覚まさなかったわ」
その声は静かだった。
「集中治療室に入ってからも、ずっとそのままだったの。白い天井の下で、静かに横たわっていた」
短い沈黙が落ちる。
「機械の音だけが、途切れずに鳴っていたわ」
保管室は静かなのに、その無機質な音だけがどこかに残っている気がした。
「医師は、かなり厳しい状態だと言っていたの。すぐにどうこう言い切れる段階ではないけれど、楽観できる状態じゃないって」
ルミエールは小さく息をのんだ。
「その日が過ぎても、次の日になっても、ノアールは一度も目を覚まさなかったわ」
白い灯りの下で、ブランシュの横顔が少しだけ遠く見える。
「ショコラは、ほとんどノアールのそばを離れなかったの。椅子に座っていても、落ち着かなくなるとすぐ立ち上がって、またベッドのそばへ戻る。そんなことをずっと繰り返していたわ」
ブランシュは少し目を伏せた。
「何か食べたほうがいいと言っても、あまり口にしなかった。眠ったほうがいいと言っても、眠れなかったみたい」
ルミエールは何も言わなかった。
「それでも、ずっと病室の中にいられるわけじゃなかったのよ」
短い沈黙。
「夜の途中で、ショコラが少しだけ外に出ることがあったわ。病室の空気に耐えられなくなると、屋上へ行っていたの」
ルミエールが顔を上げる。
「屋上に?」
「ええ」
ブランシュは静かにうなずく。
「流れ星が流れたら願いが叶うかもしれない、なんて言っていたわ。そんなこと、本気で信じるような子じゃないのにね」
その一言に、ショコラの追いつめられた様子がにじんでいた。
「でも、あの時は、そうでも思わないと立っていられなかったんでしょうね」
保管室の静けさが少し深くなる。
「病院の上には、ずっと黒い雲があったわ」
ルミエールの表情がわずかにこわばる。
「前の夜から残っていたような、嫌な雲だったの。雨も降らないし、雷も鳴らない。ただ、消えないのよ」
ブランシュの声は静かだった。
「それどころか、日が変わるごとに、少しずつ大きくなっていったの」
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、黙っていた。
「ショコラが屋上へ祈りに行った時、黒い雲の中に大きな紫の魔法陣が浮かんでいたって言っていたわ」
ルミエールの表情が強ばる。
「紫の……魔法陣?」
「ええ。ノアールがよく出していた、あの闇の魔法陣よ」
短い沈黙が落ちる。
「ノアールが倒れて病院に運ばれる前の夜、あの子の部屋で見た、あの黒いものと闇の魔法陣よ」
ルミエールは小さくうなずいた。
「ショコラが見たのは、ノアールの部屋で見たあの黒いものと闇の魔法陣が、もっと大きくなって空に浮かんでいたものだったと聞いたわ」
白い灯りの下で、ブランシュの横顔は静かだった。
「だから私は、あの雲とノアールの魔法陣には関係があったんじゃないかって、ずっと思っていたの」
ルミエールは何も言えなかった。
偶然では片づけられないものが、またひとつ増えた気がした。
「二日目も、三日目も、ノアールは目を覚まさなかったわ」
その言葉だけで、時間の重さが伝わってくる。
「医師の説明も、だんだん厳しくなっていったの。このまま持ちこたえられるかどうか、わからないって」
ブランシュは小さく息をついた。
「ショコラは、その間ずっと泣いていたわ。声を殺して泣く時もあれば、ノアールの手を握ったまま、ただ涙をこぼしている時もあった」
ルミエールは息をひそめた。
「それでも、名前だけは呼び続けていたの。返事なんてないのに、ずっと」
「ママは?」
ルミエールの声は少しだけ震えていた。
「私は……祈ることしかできなかったわ」
その返事は、ひどく静かだった。
「もっと早く止めていればとか、もっと違うやり方があったんじゃないかとか、そんなことばかり考えていた。でも、もうその時には、何を考えても遅かったのよ」
ブランシュはそこで少し目を伏せた。
「黒い雲は、その日も消えなかった」
短い沈黙。
「窓の向こうにずっとあったわ。広がって、重たく垂れこめたまま」
ルミエールは息をのむ。
「まるで、あの子を包み込むみたいに見えたの」
ブランシュの声はわずかに低くなった。
「そして、その日の夜だったわ」
ルミエールの指先が、そっと強くなる。
「機械の音が変わったの。看護師さんが来て、医師も呼ばれて、病室の空気が急に慌ただしくなった」
ルミエールは何も言えなかった。
「ショコラは、その時、とうとう泣き崩れたわ」
その一言が、保管室の空気を静かに裂いた。
「いやだって言っていた。何度も、何度も」
ブランシュの目は伏せられたままだった。
「私も、その時はじめて泣いたのよ」
短い沈黙が落ちる。
「名前を呼んでも、もう届かなかった」
長い沈黙が落ちる。
「でも、ノアールは戻ってこなかった」
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、何も言えなかった。
「ショコラと私が見守る中で、静かに息を引き取ったのよ」
その言葉は、驚くほど静かだった。
静かすぎるぶんだけ、重かった。
「病室の中は、急に音が少なくなったわ。さっきまで鳴っていた機械の音が遠くなって、時間だけが止まったみたいだった」
ブランシュは少しだけ唇を閉じる。
「ショコラはノアールの手を離せなかった。私も動けなかったわ」
ルミエールは何も言えなかった。
何を言っても足りないと、もうわかってしまったからだ。
「ノアールが亡くなったあとも、黒い雲は消えなかったわ」
ルミエールは顔を上げた。
「消えなかったの?」
「ええ」
ブランシュはゆっくりうなずく。
「それが原因だったのかは、今でもわからない。けれど、そのあと世界は少しずつおかしくなっていったのよ」
保管室の空気が、また静かに冷えていく。
「地震が増えて、台風も大きくなって、竜巻も、火山の噴火も、大雨も、洪水も、世界中で起こるようになったわ」
ルミエールは何も言えなかった。
「ひとつひとつは別の災害だったのかもしれない。偶然が重なっただけなのかもしれない。
でも、私たちには、そうは思えなかったの」
ブランシュの声は低かった。
「地球は少しずつ、住める場所じゃなくなっていったわ」
短い沈黙が落ちる。
「それで、私たちは月へ移住したの」
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、黙っていた。
「ノアールを失って、それでも終われなかった。
世界まで壊れていくのを見ながら、生き延びるために月へ行って……そのあと、あなたが生まれたのよ」
白い灯りの下で、ブランシュの横顔は静かだった。
けれど、その静けさの奥には、長い時間をくぐってきた人だけが持つ痛みが残っていた。
ルミエールは何も言えなかった。
ノアールの死だけでも重いのに、そのあと世界まで壊れていった。
ママは、その全部を知っていて、自分はその先に生まれたのだ。
もし、あの時何かひとつでも変えられていたら。
ノアールが死ななければ。
黒い雲が広がらなければ。
地球が壊れていかなければ。
いま目の前にいるママの人生も、ショコラの人生も、自分の生まれた世界さえ、違っていたのかもしれない。
この話を聞いてしまった以上、もう何もせずにはいられなかった。
どうにかしたいという気持ちが、ルミエールの中で静かに、でもはっきりと形になりはじめていた。
読んでいただきありがとうございます。




