表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/8

第6話 夜明けの重さと、教室の針

ノアールが学校へ向かった朝の話です。

 ブランシュは、閉じたアルバムの上に指先を置いたまま、しばらく黙っていた。


 ルミエールも急かさず、その沈黙がほどけるのを待つ。


 やがて、ブランシュが静かに口を開いた。


「次の日の朝のことは、私もショコラも、たぶんずっと忘れられないわ」


 ルミエールは小さくうなずいた。


「私はこの日、撮影の仕事があって出かける準備をしていたの。ショコラも大学へ行く予定で、すぐに出られるように支度は終わっていたわ。ノアールも学校へ行くつもりでいた」


 短い沈黙が落ちる。


「でも、ノアールの顔色はよくなくて、とても学校に行けるようには見えなかったわ」


 ルミエールは何も言わずに聞いていた。


「前の夜、ノアールは晩ごはんを食べなかったの。朝になっても何も口にしようとしなかったわ」


 ブランシュの声は静かだった。


「ショコラは止めたのよ。今日は休んだほうがいいって。せめて何か食べてからにしなさいって」


 閉じたアルバムの上に置かれた指先が、わずかに動く。


「でも、ノアールは聞かなかった。行くって、そればかりだったみたい」


 ルミエールは小さく息をのんだ。


「心配されるのが、もうつらかったんでしょうね。前の夜のこともあったし、弱っているところを見せるのも嫌だったのかもしれない」


 ブランシュは少し目を伏せる。


「ショコラも引かなかったわ。昨夜のことがあったばかりだったから、余計に」


「言い合いになったの」


「ええ。大きな喧嘩ではなかったけれど、空気はよくなかった」


 短い返事だった。


「ノアールは機嫌の悪いまま、朝ごはんも食べずに家を出たわ」


 ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、黙っていた。


「ショコラはそのことを、ずっと引きずっていたのよ」


 保管室の静けさが少し深くなる。


「大学には行ったけれど、研究室でも落ち着かなかったみたい。私は撮影現場の控室にいたわ。メイクも済んで、呼ばれるのを待っていたの」


 ルミエールは顔を上げた。


「その時、何かあったの」


「すぐではなかったわ」


 ブランシュは静かに答える。


「でも、朝からずっと嫌な感じが消えなかったの。前の夜のことが、頭から離れなくて」


 少しの間が落ちる。


「昼が近づいた頃だったかしら。少し大きめの揺れが来たのよ」


 ルミエールの表情がこわばる。


「地震……」


「ええ。控室の鏡の前の道具が揺れて、壁のほうから鈍い音がしたわ。長くはなかったけれど、嫌な揺れ方だった」


 ブランシュはそこで少し言葉を切った。


「その瞬間、理由もなくノアールのことが浮かんだの」


 ルミエールは何も言えなかった。


「ショコラも同じだったみたい。あとで聞いたら、研究室で揺れを感じた瞬間に、ノアールって口にしていたそうよ」


 短い沈黙。


「そのあと、ショコラと私に、それぞれ学校から連絡が入ったの」


 その一言が、保管室の空気を冷たくした。


「ノアールが学校で倒れたって」


 ルミエールは小さく息を止めた。


「あとで聞いた話では、教室にいられなくなって飛び出したみたいだった。体育館で倒れているところを見つけられたのよ」


 ブランシュの声は静かだった。

 静かすぎるぶんだけ、その重さが響く。


「意識は、その時にはもうなかったそうよ」


 ルミエールは何も言えなかった。


「私は撮影現場の控室で、その電話を受けたわ」


 閉じたアルバムの表紙に、白い灯りが静かに落ちている。


「病院に着いた時には、ノアールはすぐに集中治療室に運ばれて、処置が始まっていたの」


 ブランシュは少し目を伏せる。


「だから、私たちはすぐには会えなかったわ。待つことしかできなかったの」


 短い沈黙が落ちる。


「ショコラは座れなかったわ。ずっと立っていたの。スマホを握ったまま、でも何を見るわけでもなくて、ただ手だけが震えていた」


 ブランシュは少し目を伏せた。


「その時は、何も言わなかったわ。ただ、何度もノアールの名前を呼んでいたの」


 短い沈黙が落ちる。


「あとで聞いたのよ。前の夜、ノアールが晩ごはんを食べなかったことも、朝ごはんを食べずに出ていったことも、止めきれなかったことも、ずっと頭から離れなかったって」


 ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、何も言わなかった。


「自分のせいかもしれないって、何度も思っていたんでしょうね」


 ブランシュの声は低かった。


「私は私で、昨夜のことばかり思い出していたわ。扉の前で止まったこと。もっと早く入るべきだったんじゃないかって思ったこと。朝、もっと強く引き止めるべきだったんじゃないかって思ったこと」


「待っている間に、いろんな記憶が戻ってきたのよ」


白い灯りの下で、ブランシュの横顔が少しだけ遠く見えた。


ルミエールは小さく息をのみ、閉じたアルバムを見つめた。


 長い沈黙が落ちる。


「それで……どうだったの」


 ようやく出たルミエールの声は小さかった。


 ブランシュはすぐには答えなかった。


「医師が出てきて、かなり厳しい状態だって言ったの。意識が戻らないままの可能性も高いって」


 ルミエールの表情が強ばる。


「ショコラは、その言葉を聞いても泣かなかったわ。泣けなかったのかもしれない。ただ、何度もノアールの名前を呼んでいた」


 保管室の空気が、また静かに沈む。


「その日のことは、まだここで終わらないの」


 ルミエールは顔を上げた。


「どうして」


「その先があるからよ」


 ブランシュの声は静かだった。


「倒れたことだけで終わらなかったもの」


 その言葉で十分だった。


 ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、何も言えなくなる。


 前の夜が終わらないまま朝が来て、朝が終わらないまま、昼にはもう病院にいた。


 何かひとつでも違っていたらと思うのに、もうその時間は過ぎてしまっている。


「ルミエール」


「なに」


「ノアールは、最後までひとりでいたかったわけじゃないの」


 その言葉に、ルミエールはゆっくり顔を上げた。


「うん」


「ただ、苦しみ方が、ひとりになるしかない形になってしまっていたのよ」


 ルミエールは何も返せなかった。


 もし自分がその朝にいたら、止められただろうか。

 学校へ行かせずにすんだだろうか。

 それとも、やっぱり何も変えられなかったのだろうか。


 答えは、まだ出なかった。

読んでいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ