第6話 夜明けの重さと、教室の針
ノアールが学校へ向かった朝の話です。
ブランシュは、閉じたアルバムの上に指先を置いたまま、しばらく黙っていた。
ルミエールも急かさず、その沈黙がほどけるのを待つ。
やがて、ブランシュが静かに口を開いた。
「次の日の朝のことは、私もショコラも、たぶんずっと忘れられないわ」
ルミエールは小さくうなずいた。
「私はこの日、撮影の仕事があって出かける準備をしていたの。ショコラも大学へ行く予定で、すぐに出られるように支度は終わっていたわ。ノアールも学校へ行くつもりでいた」
短い沈黙が落ちる。
「でも、ノアールの顔色はよくなくて、とても学校に行けるようには見えなかったわ」
ルミエールは何も言わずに聞いていた。
「前の夜、ノアールは晩ごはんを食べなかったの。朝になっても何も口にしようとしなかったわ」
ブランシュの声は静かだった。
「ショコラは止めたのよ。今日は休んだほうがいいって。せめて何か食べてからにしなさいって」
閉じたアルバムの上に置かれた指先が、わずかに動く。
「でも、ノアールは聞かなかった。行くって、そればかりだったみたい」
ルミエールは小さく息をのんだ。
「心配されるのが、もうつらかったんでしょうね。前の夜のこともあったし、弱っているところを見せるのも嫌だったのかもしれない」
ブランシュは少し目を伏せる。
「ショコラも引かなかったわ。昨夜のことがあったばかりだったから、余計に」
「言い合いになったの」
「ええ。大きな喧嘩ではなかったけれど、空気はよくなかった」
短い返事だった。
「ノアールは機嫌の悪いまま、朝ごはんも食べずに家を出たわ」
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、黙っていた。
「ショコラはそのことを、ずっと引きずっていたのよ」
保管室の静けさが少し深くなる。
「大学には行ったけれど、研究室でも落ち着かなかったみたい。私は撮影現場の控室にいたわ。メイクも済んで、呼ばれるのを待っていたの」
ルミエールは顔を上げた。
「その時、何かあったの」
「すぐではなかったわ」
ブランシュは静かに答える。
「でも、朝からずっと嫌な感じが消えなかったの。前の夜のことが、頭から離れなくて」
少しの間が落ちる。
「昼が近づいた頃だったかしら。少し大きめの揺れが来たのよ」
ルミエールの表情がこわばる。
「地震……」
「ええ。控室の鏡の前の道具が揺れて、壁のほうから鈍い音がしたわ。長くはなかったけれど、嫌な揺れ方だった」
ブランシュはそこで少し言葉を切った。
「その瞬間、理由もなくノアールのことが浮かんだの」
ルミエールは何も言えなかった。
「ショコラも同じだったみたい。あとで聞いたら、研究室で揺れを感じた瞬間に、ノアールって口にしていたそうよ」
短い沈黙。
「そのあと、ショコラと私に、それぞれ学校から連絡が入ったの」
その一言が、保管室の空気を冷たくした。
「ノアールが学校で倒れたって」
ルミエールは小さく息を止めた。
「あとで聞いた話では、教室にいられなくなって飛び出したみたいだった。体育館で倒れているところを見つけられたのよ」
ブランシュの声は静かだった。
静かすぎるぶんだけ、その重さが響く。
「意識は、その時にはもうなかったそうよ」
ルミエールは何も言えなかった。
「私は撮影現場の控室で、その電話を受けたわ」
閉じたアルバムの表紙に、白い灯りが静かに落ちている。
「病院に着いた時には、ノアールはすぐに集中治療室に運ばれて、処置が始まっていたの」
ブランシュは少し目を伏せる。
「だから、私たちはすぐには会えなかったわ。待つことしかできなかったの」
短い沈黙が落ちる。
「ショコラは座れなかったわ。ずっと立っていたの。スマホを握ったまま、でも何を見るわけでもなくて、ただ手だけが震えていた」
ブランシュは少し目を伏せた。
「その時は、何も言わなかったわ。ただ、何度もノアールの名前を呼んでいたの」
短い沈黙が落ちる。
「あとで聞いたのよ。前の夜、ノアールが晩ごはんを食べなかったことも、朝ごはんを食べずに出ていったことも、止めきれなかったことも、ずっと頭から離れなかったって」
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、何も言わなかった。
「自分のせいかもしれないって、何度も思っていたんでしょうね」
ブランシュの声は低かった。
「私は私で、昨夜のことばかり思い出していたわ。扉の前で止まったこと。もっと早く入るべきだったんじゃないかって思ったこと。朝、もっと強く引き止めるべきだったんじゃないかって思ったこと」
「待っている間に、いろんな記憶が戻ってきたのよ」
白い灯りの下で、ブランシュの横顔が少しだけ遠く見えた。
ルミエールは小さく息をのみ、閉じたアルバムを見つめた。
長い沈黙が落ちる。
「それで……どうだったの」
ようやく出たルミエールの声は小さかった。
ブランシュはすぐには答えなかった。
「医師が出てきて、かなり厳しい状態だって言ったの。意識が戻らないままの可能性も高いって」
ルミエールの表情が強ばる。
「ショコラは、その言葉を聞いても泣かなかったわ。泣けなかったのかもしれない。ただ、何度もノアールの名前を呼んでいた」
保管室の空気が、また静かに沈む。
「その日のことは、まだここで終わらないの」
ルミエールは顔を上げた。
「どうして」
「その先があるからよ」
ブランシュの声は静かだった。
「倒れたことだけで終わらなかったもの」
その言葉で十分だった。
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、何も言えなくなる。
前の夜が終わらないまま朝が来て、朝が終わらないまま、昼にはもう病院にいた。
何かひとつでも違っていたらと思うのに、もうその時間は過ぎてしまっている。
「ルミエール」
「なに」
「ノアールは、最後までひとりでいたかったわけじゃないの」
その言葉に、ルミエールはゆっくり顔を上げた。
「うん」
「ただ、苦しみ方が、ひとりになるしかない形になってしまっていたのよ」
ルミエールは何も返せなかった。
もし自分がその朝にいたら、止められただろうか。
学校へ行かせずにすんだだろうか。
それとも、やっぱり何も変えられなかったのだろうか。
答えは、まだ出なかった。
読んでいただきありがとうございます。




