第5話 扉の向こうで
ノアールと最後にマンションで過ごした夜の話です。
ブランシュはすぐには答えなかった。
閉じたアルバムに視線を落としたまま、少しだけ間を置く。
それから、静かに口を開いた。
「ノアールと最後にマンションで過ごした夜のことよ」
ルミエールは黙ったまま、その続きを待っていた。
「学校から帰ってきた時点で、ノアールの様子はよくなかったわ。顔色も悪かったし、返事も短かった」
ブランシュの声は静かだった。
「ショコラもすぐに気づいていたの。
放っておけないタイプだから、そのまま声をかけたのよ」
「今日、学校どうだったのって」
少しの間が落ちる。
「それだけだったのに、あの夜のノアールには重かったのね」
ルミエールは何も言わずに聞いていた。
「私は少し離れたところから、様子を見ていたの」
閉じたアルバムの上に置かれたブランシュの指先が、わずかに動く。
「ショコラの言葉が悪かったわけじゃないの。
あの時は、どんな言葉もノアールの心に刺さっていたのよ」
そこで、ブランシュの口元が少しかたくなった。
「ノアールは泣きながら、大きな声でもう放っておいてって言って、そのまま部屋に閉じこもったわ。
その時、照明が点滅して、近くで雷が落ちて停電したの。
窓の外では、雹が降っていたわ」
ルミエールは小さく息をのんだ。
「私がリビングに行った時には、ショコラがひとりで立っていたの。
真っ暗な中で、まだノアールの部屋のほうを見ていたわ」
「また怒らせちゃった、って言っていたのよ」
その一言だけで、その場の空気が伝わってくる気がした。
「少し踏み込みすぎたと、自分でも思っていたんでしょうね。でも、見ていられなかったのよ。苦しんでいるのがわかっていて、何もしないではいられなかったんだと思うわ」
ルミエールは小さくうなずいた。
「私は、ノアールを刺激しないでって言ったわ」
短い沈黙が落ちる。
「前から感じていたの。ノアールの中にあるものは、苦しみや怒りに引っぱられて大きくなるって」
「はっきりとは言い切れなかったわ。
でも、その時にはもう、ただごとじゃないって感じていたの」
保管室は静かなのに、その夜の雹の音だけが、まだどこかに残っているみたいだった。
「それでもショコラは、助けなきゃって言ったの。
壊れちゃうって」
ブランシュは少し目を伏せる。
「その気持ちは、私も同じだったわ」
長くはない沈黙が落ちる。
「その時だったの。ノアールの部屋のほうから、ゴォォ……って、低く重たい音が響いたのよ」
ルミエールの表情がわずかにこわばる。
「床まで、ゆっくり震えていたわ。
ショコラと私は顔を見合わせて、それからノアールの部屋の前まで行ったの」
「扉の向こうからは、まだノアールの泣き声が聞こえていた。
でも、それだけじゃなかったわ。部屋の前に立った時、空気が違っていたのよ」
「重かったわ。押し返されるほどじゃない。でも、そこに立っているだけで胸がざわつくような感じだった」
ルミエールは黙ったまま、ブランシュを見ていた。
「気になって、部屋のドアを少しだけ開けてみたのよ」
短い沈黙。
「中で、ノアールは泣きながらうつむいていた。
あの子のまわりには、黒い物質みたいなものが揺れていたの」
ルミエールの表情がわずかにこわばる。
「煙みたいでもあったし、影がそのまま溶け出したみたいでもあったわ。
形ははっきりしないのに、そこにあるのはわかった」
「そして足元には、闇色の魔法陣が浮かんでいたの。
前よりも濃くて、前よりも禍々しくて、前よりも大きかったわ」
保管室の静けさが、少し深くなる。
「ノアール自身も気づかないまま、涙と一緒に闇が大きくなっていたのよ」
「それを見た時、私は思ったわ。
もう、ただの体調不良では済ませられないって」
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、何も言わなかった。
「でもね」
ブランシュはそこで少し目を伏せた。
「今でも思うの。あの日、すぐにドアを開けて部屋に入って、ノアールを抱きしめるべきだったんじゃないかって」
保管室の空気が静かに沈む。
「踏み込んで悪化することを恐れて、様子を見て、見守ることしかできなかったの。
でも、それでよかったのかは、今でもわからないわ」
短い沈黙のあと、ブランシュは静かに続けた。
「何かできたんじゃないかって、今でも思うことがあるの」
その声は静かだった。
けれど、押し込めていたものが少しだけにじんでいた。
「見守ることしかできなかった自分を、思い出すたびに苦しくなるのよ」
ルミエールは何も言えなかった。
「その夜は、私も落ち着かなかったわ。何かしていないと、心が崩れそうだったの。だから、ずっとピアノを弾いていた」
ブランシュは少しだけ目を伏せる。
「いつも通りに弾こうとしても、うまくいかなかった。音に、隠したかったものがそのまま出てしまって」
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、黙っていた。
「ショコラも自分の部屋にこもっていたみたいで、苦しくて大学のレポートが書けなかったと後で聞いたの」
「助けたいのに、何もできなかったのは、ショコラも同じだったわ」
長い沈黙が落ちた。
「その夜で、放っておいていい段階じゃないって、はっきり思ったわ。
でも、どうしたらいいかはわからなかった」
言い切る声だった。
「ひとりにしないようにする。様子を見る。できることはしていたつもりよ。
でも、ノアールの苦しさは、それだけでは止められなかった」
「ルミエール」
「なに」
「ノアールは、あの夜、自分から何かを壊そうとしたわけじゃないの」
ルミエールはまっすぐブランシュを見る。
「うん」
「追いつめられて、苦しくて、それであふれてしまっただけよ」
責めるためではなく、守るための言葉だった。
それがわかるから、ルミエールは何も返せなかった。
ルミエールは閉じたアルバムを見つめたまま、何も言えなかった。
もし自分がその場にいたら、ノアールを助けられただろうか。
それとも、ブランシュと同じように、何もできずに見守ることしかできなかったのだろうか。
答えは出なかった。
読んでいただきありがとうございます。




