第3話 七歳の春
ノアールの最初の違和感に触れる回です。
この時点では、まだ誰にもその意味はわかっていません。
アルバムのページの中で、桜は静かに咲いていた。
少し幼いノアールが、その木の下で笑っている。
肩にかかった花びらにも気づいていないような、無防備な笑顔だった。
ルミエールは、その写真から目を離せなかった。
「今思えば、最初の違和感はあの春だったのかもしれないわ」
ブランシュの指先が、写真の端にそっと触れる。
「ノアールが七歳くらいの頃よ」
保管室の空気は静かだった。
遠くで機械が低く鳴っている。
それだけが、ここが現実だと教えていた。
「桜が咲く頃だったわ。あの子、その日、外から帰ってきて……少し様子がおかしかったの」
「様子が?」
「はっきり変だったわけじゃないの。ただ、ぼんやりしていたというか……呼んでも返事が遅かったり、何でもないところを見ていたりして」
ルミエールは写真の中のノアールを見る。
そこに写っているのは、何も知らない顔だった。
「その日の夜に、熱が出たの」
「熱」
「ええ。急に高くなってね。ママも心配していたわ」
ブランシュの声は淡々としている。
けれど、その奥には、あとから思い返している重さがあった。
「私はお水を持って部屋に入ったの。その時に……」
少しだけ言葉が止まる。
ルミエールは何も言わずに待った。
「黒いものが見えた気がしたのよ」
その一言は、小さかった。
「でも、本当に見えたのかどうかはわからないわ。ほんの一瞬だったし、熱で部屋が暗く見えただけかもしれない」
すぐにそう付け加える。
「ノアールは?」
「眠っていたわ。苦しそうではあったけど、何かを話したりはしなかった」
少しの間が落ちる。
「次の日には熱も下がっていたの。それで、あの時はそれで終わったのよ」
終わった。
その言葉に、ルミエールはわずかに引っかかった。
「今思えば、終わってはいなかったのかもしれないけど」
ブランシュはそう言って、小さく息をついた。
「その頃は、まだわからなかったの。私たちには」
ルミエールは何も言わなかった。
「病院にも行ったわ。でも、原因ははっきりしなかった。風邪かもしれない、疲れかもしれないって」
曖昧な言葉だけが残る。
「そのあとも、年に何回か同じように熱を出すことがあったの」
「続いてたんだ」
「ええ。でも、いつも数日で元気になったわ。だから……日常は続いていたのよ」
ルミエールは小さく息を吐く。
それなら、見過ごしてしまうのも無理はない。
「普段は元気だったの?」
「元気だったわ」
ブランシュの口元が少しやわらぐ。
「よく笑っていたし、よく食べて、よく怒っていた」
「怒ってたんだ」
「負けず嫌いだったもの」
その言葉に、ルミエールは少しだけ笑った。
「ショコラおばさんは、そのこと知ってた?」
「知っていたわ」
「気にしてた?」
「ええ。たぶん、私よりずっと」
ブランシュはアルバムを見たまま答える。
「ショコラはね、あまり表には出さないけど、気になることはずっと気にしているタイプなの。」
ルミエールは黙って聞いていた。
「ノアールがまた熱を出すたびに、顔色を見ていたし、薬もちゃんと飲んだか確認していた」
少しの間。
「……それで医者を目指したのかもしれないわね」
ルミエールはゆっくり頷いた。
「その頃は、まだ普通に暮らしていたのよ」
ブランシュの声は静かだった。
「芸能の仕事も続けていたし、舞台に立てばちゃんと輝いていた」
“輝いていた”という言葉が、ルミエールの中に残る。
「だから、あの時はまだ大丈夫だと思っていたの」
その言い方は、少しだけ遠かった。
「少し身体が弱いだけかもしれない。気をつけていれば、このまま普通にいられるかもしれないって」
保管室の空気が、わずかに沈む。
ルミエールはそれを感じ取った。
「でも、高校に入る頃からね」
ブランシュの視線が、遠くへ向く。
「だんだん、普通ではいられなくなっていったの」
ルミエールは息をつめる。
「友達とうまくいかないのか、ひとりでいることが増えていった。体調もよく崩すようになって、泣きやすくなったり、怒りっぽくなったりして」
「思春期……?」
「ええ。最初はそう思っていたの」
でも、とブランシュは続ける。
「それだけじゃ済まなくなっていったの」
ルミエールの指先に、少しだけ力が入る。
「七歳の頃に、熱を出した時に見えた気がしていた黒いものが……その頃からは、もう気のせいでは片づけられなくなったの」
ルミエールは何も言わなかった。
「それだけじゃなかったわ」
ブランシュはアルバムをそっと閉じる。
「私たちは、魔法使いの家系なの」
静かな声だった。
「ショコラも、私も魔法は使える。でもノアールは、その中でも特別だった」
言葉は落ち着いていた。
「魔力が強すぎたのよ」
ほんのわずかな間。
「ショコラと私、二人の力を合わせても……ノアールには、勝てなかったの」
ルミエールは言葉を返せなかった。
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