第2話 あの頃、五人で
ルミエールが知らなかった三姉妹の時間が、少しずつ開いていきます。
保管室の白い灯りは、さっきまでと変わらないはずなのに、どこか冷たく感じられた。
ルミエールは椅子にも座らず、開いたアルバムの前に立っていた。
写真の中では、三人の少女が肩を寄せ合って笑っている。
その真ん中にいる黒猫の少女だけが、今の自分にはどうしても遠い。
「最初から、何かが壊れていたわけじゃないの」
ブランシュの声は静かだった。
ルミエールは何も言わず、その続きを待つ。
「私たちは、普通に暮らしていたのよ」
その言葉は、誰に言い聞かせるでもなく、写真へ向けて落ちた。
普通、という言葉が、ルミエールには少し意外に聞こえた。
ノアールはもういない。
自分たちは月で暮らしている。
そんな今につながる話なのに、その始まりが“普通”だったなんて。
「普通にって……」
「ええ」
ブランシュはアルバムのページをそっと撫でた。
「パパとママがいて、五人で暮らしていたわ。賑やかだったし、うるさい日も多かった。ショコラは昔から落ち着いていたけど、私とノアールはよく競っていたの」
「競ってた?」
「ピアノでも、ダンスでも、歌でも」
少しだけ、ブランシュの口元がやわらぐ。
「どっちが先に上手にできるかで、毎回みたいに張り合ってた」
ルミエールは写真を見る。
そこに写る黒猫の少女が、負けず嫌いそうに見えてきた。
「ノアールも、歌ってたの?」
「歌うの、好きだったわよ。ダンスも好きだったし、バレエも習ってた」
「バレエも」
「ええ。三人とも、いろいろやっていたの」
ブランシュは少し考えるように目を伏せた。
「パパもママも、無理に何かを押しつける人じゃなかったけど、好きなことにはちゃんと向き合わせてくれる人たちだったわ」
その言い方だけで、もう少しその人たちを知りたくなる。
ルミエールは訊いた。
「その頃から、もうお仕事してたんだよね」
「ええ」
ブランシュは小さく笑った。
「まだ子どもだったけれど、少しずつね。ドラマに出たり、雑誌の撮影をしたり、CMに呼ばれたり」
ルミエールは写真の中の三人を見た。
「それでも、三人でずっと仕事したいって思ってたの?」
「思っていたわ」
ブランシュの声が少しやわらぐ。
「仕事をしていても、結局あの頃の私たちは子どもだったもの。三人で一緒に仕事したいって、本気で思っていたのよ」
ルミエールの胸の奥に、かすかな熱が灯る。
今はもう存在しない時間。
けれどたしかにあったらしい未来の夢。
「ノアールも?」
「ええ。あの子も」
ブランシュの視線は、アルバムの中のノアールに落ちた。
「誰よりもまっすぐ言っていたわ」
その一言が、妙に残った。
ルミエールは何も言えず、写真を見る。
黒猫の少女は笑っている。
まだ何も失っていない顔だった。
「……その頃は、地球で暮らしてたんだよね」
「ええ」
「この写真みたいに?」
「そうよ」
ブランシュは頷いた。
「空があって、風があって、窓を開けたら季節の匂いが入ってきた」
その言葉に、ルミエールは思わず顔を上げた。
「季節の匂い」
「月ではわからないでしょうね」
「うん」
「春は少し甘くて、でもまだ空気が冷たいの。夏は日差しが強くて、外に出るだけで眩しかった。秋は乾いた匂いがして、冬は音まで静かになる」
聞いたことのない感覚ばかりだった。
学校で習う地球は、もっと平面的なものだった。人口、環境、移住、崩壊。そういう言葉ばかりでできている。
けれどブランシュが口にする地球は、もっとやわらかくて、暮らしの温度があった。
「ノアールは、春が好きだったわ」
ブランシュがぽつりと言う。
「桜が好きで、花びらが風に舞うだけで嬉しそうにしていた」
「桜……」
映像でしか見たことのない花の名を、ルミエールは小さく繰り返した。
「ママも好き?」
「好きよ」
「ショコラおばさんも?」
「好きだったと思うわ」
「じゃあ、三人とも?」
「ええ」
少しだけ間があく。
「三人とも、好きだった」
その言い方に、ルミエールは気づく。
今のブランシュは、桜の話をしているようで、たぶんそれだけじゃない。
ルミエールはアルバムの端に指を置いた。
「……ノアールって、どんな人だったの?」
ブランシュは、すぐには答えなかった。
けれど沈黙は重くはなく、昔の引き出しを静かに開けるような間だった。
「よく笑う子だったわ」
ようやく返ってきた声は、さっきより少しやわらかい。
「自分がうまくできないと悔しがるくせに、誰かができるようになると、自分のことみたいに喜ぶ子だった」
ルミエールは少しだけ笑った。
「なんか、忙しいね」
「忙しかったわよ」
ブランシュもかすかに笑う。
「泣いたと思ったら、次には怒っていて、そのあと急に機嫌が直るの」
「私に似てるかも」
「そうかもしれないわね」
「じゃあ私にも少し似てる?」
その問いに、ブランシュはルミエールを見る。
まっすぐ見つめ返されて、ルミエールは少しだけ照れた。
けれどブランシュは、やがて静かに頷く。
「似てるところ、あると思う」
それだけで、胸の奥に小さく何かが落ちた。
知らなかった人のはずなのに、遠いだけの人じゃなくなる。
写真の中の少女が、少しだけ家族に近づいた気がした。
「その頃は……ずっと幸せだったの?」
ルミエールの問いに、ブランシュはまた写真を見る。
ページの中には、まだ何も失っていない三人がいる。
「ずっと、ではなかったわ」
静かな声だった。
「でも、たしかに幸せだった」
それは迷いのない言い方だった。
だからこそ、ルミエールにはその先の話が怖かった。
幸せだった。
そう言い切れる時間があったのなら、そのあとに壊れたものもまた、はっきりしてしまう。
「……何があったの?」
保管室の奥で、小さな機械音が鳴った。
それが止んでから、ブランシュはようやく口を開く。
「最初に大きく変わったのは、パパとママが亡くなった時よ」
ルミエールは息をのむ。
聞こうと思っていた。
でも本当に言葉になって出てくると、やはり違った。
「事故だったの」
ブランシュは、そこだけは淡々と言った。
「突然だったわ。昨日までいた人たちが、もう帰ってこないっていうことを、しばらく信じられなかった」
アルバムの上に落ちたブランシュの指先が、わずかに止まる。
「私たちは三人だけになった」
ルミエールは声を出せなかった。
今の自分には、ママはずっとママだった。
家の中を落ち着かせる人で、何があっても静かに立っている人。
けれどママにも、そんな時間があったのだと、今さらみたいに思う。
「……そのあと、どうしたの」
「すぐには何もできなかったわ」
ブランシュは答える。
「でも、私たちを引き取ってくれた人がいたの」
「誰?」
「芸能事務所の社長さんよ」
ルミエールは瞬きをする。
「芸能事務所」
「ええ」
「ママたちを?」
「そう」
ブランシュは頷いた。
「身元引受人になってくれて、私たちを支えてくれたの」
ブランシュの視線が、またアルバムに落ちる。
「もともと仕事はしていたけれど、パパとママがいなくなったあと、あの人がいなかったら続けていけなかったと思うわ」
「それで、三人で……?」
「少しずつよ」
ブランシュは静かに言った。
「子役の仕事を続けながら、三人で立つことも増えていって……やがてキャットスターとしてデビューすることになったの」
ルミエールは息を止めた。
写真の中の少女たちが、少しだけ遠い存在ではなくなる。
夢を言っていただけじゃない。
この三人は、本当にその先へ進んだのだ。
「ノアールも?」
「ええ。ノアールも最初は元気だったわ」
その言葉が、保管室の中で静かに響いた。
最初は。
ルミエールは、その先があるのだとわかってしまう。
「ママ」
呼ぶと、ブランシュは顔を上げた。
「ノアールに、何があったの」
今度の沈黙は短かった。
ブランシュは視線をそらさないまま、けれど声を少しだけ落とす。
「それを話すには、もう少し前から順番に話した方がいいわ」
ルミエールは頷いた。
順番に。
幸せだった頃から、失ったものまで。
急がずに話さなければ、きっと届かない話なのだろう。
ブランシュはアルバムのページを一枚だけめくった。
そこには、少し幼いノアールが、桜の木の下で笑っていた。
「今思えば、最初の違和感はあの春だったのかもしれない」
ルミエールは息をつめる。
ブランシュの指先が、写真の端にそっと触れていた。
「ノアールが七歳くらいの頃よ」
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