第1話 アルバムの中の少女
「黒猫ノアールのステラ☆シンフォニー」完結後の外伝として、ルミエールの物語を書き始めます。 本編ではあまり描けなかった、ルミエールの視点と心の中をたどる話です。
月の朝は、いつも静かだった。
窓の向こうに広がる白い地表は、どこまでも音を持たない。
そのかわり、居住区の中にはやわらかな機械音が満ちている。空調の低い響き。遠くで動く搬送車の気配。人が暮らしているはずなのに、世界そのものが息をひそめているようだった。
ルミエールはダイニングの椅子に座ったまま、透明な窓の向こうを見ていた。
青い空はない。雲もない。
けれど、ずっと向こうに浮かぶ地球だけは、今日もきれいだった。
「また見てるの?」
背中から声がして、ルミエールは振り返った。
ブランシュが朝の飲みものを片手に、少しだけ笑っている。
「うん」
ルミエールも小さく笑った。
「今日は、いつもより青く見える気がして」
「それはたぶん、気分の問題ね」
「そうかも」
そんなやりとりのあとで、ルミエールはもう一度だけ地球を見た。
あの星に、昔はたくさんの人が暮らしていた。今も学校でそう習うし、記録映像でも何度も見てきた。海があって、風があって、木々が揺れて、花が咲く場所。
きれいだと思う。
けれど、その中に自分が立っている姿だけは、どうしても想像できなかった。
月で生まれて、月で育った。
それがルミエールの日常だった。
「今日は午後から資料室の整理をするから、手伝ってくれる?」
ブランシュが言う。
「うん、いいよ」
「昔のものがまだ残ってるの。パパが保管してた箱とか、おじいさまから送られてきた記録とか」
「またそんなにあるの?」
「あるのよ。古い家は、どうしても物が増えるの」
ブランシュは少し肩をすくめた。
その仕草が妙に人間くさくて、ルミエールは好きだった。
昼を過ぎてから、二人は居住区の奥にある保管室へ入った。
生活空間より少し温度が低く、棚が何列も並んでいる。古い書類箱、記録端末、封をされたままのケース。年月の積み重なりが、そのまま積まれているような場所だった。
「こっちは見なくていいわ。こっちをお願い」
ブランシュが箱をいくつか指さす。
ルミエールは頷いて、一番手前の箱を引き寄せた。
中には紙の資料が多かった。今ではほとんど使われない、薄い冊子や、印刷された写真。端の少し擦れたファイルを持ち上げた時、その下に一冊のアルバムが見えた。
「ママ、これ開けていい?」
「ええ」
言われて、ルミエールは慎重に表紙をめくった。
最初に目に入ったのは、知らない景色だった。
青い空。
白い光。
どこまでも続く緑。
ページをめくるたびに、知らない地球が出てくる。大きな木。水辺。街の通り。部屋の中に差し込む、やわらかな日の光。
「……きれい」
思わず、声がこぼれた。
少し離れた棚の前で作業をしていたブランシュが、その言葉に振り向く。
「地球の写真よ」
「やっぱり」
ルミエールはページをめくった。
何枚目かのところで、指先が止まる。
そこには三人の少女が写っていた。
一人は、今よりずっと若いブランシュ。
もう一人は、落ち着いた表情のショコラ。
そして、その真ん中で笑っている、黒猫の少女。
黒い髪。
まっすぐこちらを見ている瞳。
まだ幼さが残るのに、不思議と強い光を持った顔立ちだった。
ルミエールは、その写真をしばらく見つめた。
知らないはずなのに、目が離せなかった。
「……この子、誰?」
小さくつぶやいてから、もう一度写真を見る。
「黒猫なのに……少し、ママとショコラおばさんに似てる」
保管室の空気が、そこで少し変わった。
ブランシュは手にしていた資料を棚へ戻し、ゆっくりルミエールのそばへ歩いてくる。
アルバムをのぞきこんだ横顔が、静かに止まった。
すぐには答えが返らなかった。
「……ママ?」
呼ぶと、ブランシュはようやく口を開いた。
「その子は、ノアールよ」
小さな声だった。
「私の妹」
ルミエールはもう一度、写真を見た。
ブランシュの妹。
ショコラの妹。
でも、自分はその名前を聞いたことがなかった。
「妹……」
「ええ」
「じゃあ、私から見たら……」
ルミエールが言いかけると、ブランシュがその先を引き取った。
「生きていたら、あなたのおばさんになる人」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
生きていたら。
ルミエールは顔を上げた。
「生きていたら、って……」
問いの続きは言わなくても伝わったらしい。
ブランシュの指先が、アルバムの端にそっと触れる。
「ノアールは、もういないの」
保管室の機械音だけが、低く流れていた。
ルミエールは言葉を失ったまま、写真へ視線を戻す。
真ん中に立つ少女は、そんなことを少しも知らないみたいに笑っていた。
その笑顔が、妙にまぶしかった。
「……どうして」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
ブランシュは少しだけ視線を落とした。
けれど、それ以上はすぐに言わなかった。
ルミエールはアルバムの写真を見つめたまま、ぽつりと続ける。
「この写真、地球だよね」
「ええ」
「じゃあ……どうして私たち、今は月で暮らしてるの?」
今度こそ、ブランシュは返事をしなかった。
ただ、長く息をつく。
その沈黙だけで、軽い話ではないのだとわかった。
ルミエールはアルバムを閉じなかった。
閉じたら、この少女がまた遠くへ行ってしまいそうな気がした。
ノアール。
その名前を胸の中でそっと繰り返す。
知らなかった。
自分の家族の中に、こんな人がいたことを。
ブランシュとショコラに、もう一人妹がいたことを。
そして、その人が、もういないことを。
「ルミエール」
呼ばれて顔を上げる。
ブランシュの声は静かだった。
けれど、どこか決めたような響きがあった。
「落ち着いて聞いて」
ルミエールは何も言わず、頷いた。
保管室の白い灯りの下で、アルバムはまだ開かれたままだった。
青い空の下、三人が並んで笑っている。
そこにあったはずの時間が、今はもうどこにもない。
ブランシュはその写真を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。
「私とショコラには、ノアールという妹がいたの」
その先に続く言葉を、ルミエールは息をつめて待った。
ルミエール外伝、ここから始めます。
本編では見えなかった過去と、ルミエールの心の中を、少しずつ書いていけたらと思います。




