メモリー
「ここちゃん、おかえり」母はいつものように玄関先まで迎えに来る。
「お母さん。昨日も言ったじゃない。私も二十歳になったから、そろそろ”ここちゃん”って呼ぶのやめてって。それから、わざわざ玄関まで来なくていい」
私が強い口調で言っても、母は表情を変えない。ただゆっくりと瞬きをする。猫のように。「あら。呼び方を変えるの」そう言って首を右側に傾げる。
私は十歳のときから母と二人で暮らしてきた。十歳より前は別の母親と、暴力をふるう父親と暮らしていた。だから母は、本当の母親ではない。
「ここちゃんじゃなくて、こころって呼んで。それから私が帰ってきても、リビングで寝転がってていいんだから」
母はずっと傾げていた首を真っ直ぐに戻すと「了解」と言って、すぐにリビングに入って行った。私も後ろに続く。
夕食のメニューはきっと肉じゃがだ。「ここちゃん。今日は肉じゃがよ。あさりの味噌汁も作ったの」リビングに入ると、すでに配膳されている。
もともと母は普通ではない。まず、いつも無表情だ。リアクションは首を右側に傾けるか、瞬きをするかの2パターンのみである。話を聞いているのかどうか怪しいことは、これまでもよくあった。
けれど、今回ばかりは少し様子が違う。朝はサンドイッチ、夜は肉じゃがを、かれこれ十日間は作り続けているのだ。明日は違うものにして欲しいと何度お願いしても、また翌日には同じものを作る。
母の作る食事のレパートリーは豊富で、ひと月の間ですら、同じものが出てくることは、この十年間なかったはずなのに。
母は数日前から止まっている。新しい物事が記憶できなくなってしまったのだ。
それは私にとって、たどり着きたくない答えだった。けれど、もうそろそろ向き合わなければならない。
私が食卓に着くと、母は向かい側に座る。「ねえ。お母さん。私、悩んでることがあるんだけど、聞いてくれる?」
母はゆっくりとまばたきをする。「悩みがあるのは、あなたが人間だからよ。素晴らしいことだわ」
「そうね。私はずいぶん前に感情を捨てたつもりだったの。でもやっぱり人間だった」
私は母の額に手を伸ばして、そっと触れる。
瞬間、母の目から出た光の先にスクリーンが現れ文字が浮かんだ。
『メモリーがいっぱいです。どの思い出を消去しますか。』




