第9話:違約金(ペナルティ)
ガガガガガガッ……!
その音は、天井の彼方から響いてきた。
掘削ドリルの音だ。
地響きと共に、パラパラと埃が落ちてくる。
事故発生から七十時間。
予定より二時間早い。
救助隊が、すぐそこまで来ている。
「……あ……」
矢部が、天井を見上げて声を漏らした。
助かった。
本来なら、歓喜の声を上げ、抱き合い、涙を流す場面だ。
だが、矢部はすぐに怯えたように僕を見た。
「あの、リーダー……」
彼は上目遣いに、卑屈な笑みを浮かべた。
「喜んでも……いいですか? 脈拍、上がっちゃいますけど……」
吐き気がした。
目の前にいるのは、救助を待つ遭難者ではない。
許可が出るまで「感情」というプログラムを実行できない、壊れたOSだ。
僕は周囲を見渡す。
学生も、霧島先生も、時田夫人も。
全員が、僕の顔色を窺っている。
『喜びなさい』という命令を待っている。
成功だ。
僕の管理システムは、最後まで完璧に稼働した。
不確定要素を排除し、感情を殺し、ただの「生存する肉体」として彼らを保存した。
このまま救助隊が入ってくれば、彼らは「奇跡の生還者」として保護されるだろう。
そして、一生そのまま(・・・・)だ。
矢部は一生、誰かの顔色を窺わなければ飯も食えない人間になるだろう。
時田夫人は、夫を見殺しにした(僕に従った)自分を呪い続けるだろう。
彼らは、社会復帰などできない。僕が彼らの魂を、この地下鉄の中で殺し尽くしてしまったからだ。
これが「黒字」か?
これが、僕が求めた「最適解」の決算書なのか?
「……ふざけるな」
僕は乾いた唇で呟いた。
「え? あ、すみません……黙ります、息止めます……」
矢部が慌てて口を押さえる。
「違う!」
僕は叫んだ。
七十時間ぶりに、計算のない、感情だけの怒号を上げた。
矢部がビクリと肩を震わせる。
僕は立ち上がり、ふらつく足で彼らの真ん中へと歩み出た。
僕の手には、前回のループで彼らを焼き殺した凶器――ウイスキーの瓶が握られていた。
権藤のバッグから没収していたものだ。
僕はキャップを開けた。
アルコールの刺激臭が漂う。
矢部が「火事になる」という顔で怯える。
僕はその瓶を、瀕死の権藤の口元へ突き出した。
「飲め」
僕は命じた。
「……あ?」
権藤が薄目を開ける。
「み、ず……じゃねえ……酒、か……?」
「そうだ。アルコール度数40度。利尿作用で脱水が進むし、心拍数も上がる。今のあんたが飲めば、確実に寿命が縮む毒薬だ」
権藤の目が、わずかに見開かれた。
僕は瓶を押し付けた。
「飲みたかったんだろ。……飲んで死ね」
権藤は、震える手で瓶を掴み、貪るように呷った。
ゴク、ゴク、ゴク。
喉が鳴る。
「……くぅぁ……ッ!」
権藤が瓶を離し、長く息を吐いた。
その顔に、生気が戻る。
家畜の目ではない。欲に塗れ、身勝手で、どうしようもない「人間」の目が戻った。
「……へへ、染みるぜ……。上等な水じゃねえか、先生よぉ……」
権藤がニヤリと笑った。
それは、僕に媚びる笑みではなく、対等な悪党としての笑みだった。
僕は瓶を取り上げ、次は矢部の方を向いた。
矢部は後ずさる。
「な、何するんですか……酸素が……」
「矢部」
僕は彼に近づき、胸倉を掴んだ。
「叫べ」
「は……?」
「嬉しかったら叫べ。怖かったら泣け。腹が立ったら僕を殴れ!」
僕は彼を揺さぶった。
「許可なんて待つな! 自分の命を、自分の好きに使え!」
「で、でも……そんなことしたら、死んじゃう……」
「死なない!」
僕は断言した。
根拠はない。計算もない。
ただのハッタリだ。
「あと一時間だ! 一時間くらい、酸素を浪費したって構わない! 在庫一掃セールだ! 全部使い切れ!」
矢部は呆然としていた。
だが、天井から響くドリルの音と、僕の必死の形相が、彼の固着した思考に亀裂を入れた。
「……あ……」
矢部の口元が歪む。
「……助かる……のか? 俺……」
「ああ、助かるぞ!」
「……う、うあああああ!」
矢部が叫んだ。
獣のような咆哮。
それは酸素を激しく消費する、もっとも非効率な行為。
けれど、その声は確かに「人間」の叫びだった。
その叫びが連鎖する。
学生が泣き出した。時田夫人が、亡き夫の名前を呼んで泣き崩れた。
霧島先生さえも、眼鏡を外して目元を拭った。
車内は一瞬でカオスになった。
酸素濃度計があれば、警告音が鳴り止まないだろう。
僕が積み上げた「静寂なる管理社会」は、音を立てて崩壊した。
ざまぁみろ。
僕は心の中で、自分自身を嘲笑った。
見ろよ、相馬和也。お前の作った完璧な決算書は、赤字まみれのグチャグチャだ。
ふと、視線を感じた。
美咲だ。
彼女は騒ぎの輪には入らず、静かに僕の方を向いていた。
僕は彼女のそばに行き、腰を下ろした。
どっと疲れが出た。
「……聞こえますか」
僕が聞くと、美咲は小さく頷いた。
「はい。……うるさいです」
彼女は困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「泣き声と、怒鳴り声と、心臓の音で……耳が痛いです」
「最悪だろ」
「いいえ」
彼女は、そっと僕の手を探り当て、握った。
「生きています。……みんな、やっと生き返りました」
その言葉に、僕は息を吐いた。
肩の力が抜けていく。
ふと、横を見ると、権藤が動かなくなっていた。
口元に笑みを浮かべたまま、事切れている。
脈はない。
彼は死んだ。僕の管理下で死ぬのではなく、最期に自分の意志で毒(酒)を飲み、満足して死んだ。
それは「損失」だ。
生存者数が一名減った。
けれど、それは僕が初めて許容した、尊い損失だった。
ガガッ!
ドォン!!
天井の一部が崩れ落ち、眩い光が差し込んだ。
外の空気。
新鮮で、冷たくて、埃っぽい空気。
「おーい! 大丈夫か!」
救助隊の声が聞こえる。
矢部たちが、光に向かって手を伸ばし、我先にと叫ぶ。
「ここだ!」「助けてくれ!」「水!」
醜く、浅ましく、そして力強い生の合唱。
僕はその光景を、眩しさに目を細めながら見ていた。
契約解除。
僕は独裁者の地位を降りた。
その違約金として、権藤の命と、僕の「正しさ」を支払った。
救助隊員が降りてくる。
終わったのだ。
十八回繰り返した地獄のループが、今度こそ、本当に。
僕は美咲の手を引いて立ち上がろうとした。
その時。
グラッ。
足元が揺れた。
余震ではない。
めまいだ。
視界が歪む。ノイズが走る。
心拍数が異常に跳ね上がる。
(……なんだ?)
酸素は足りているはずだ。
脱出は確定したはずだ。
なのに、なぜ世界が遠ざかっていく?
薄れゆく意識の中で、僕は聞いた。
あの、忌まわしいシステム音声を。
『生存者数、11名。目標値(12名)未達』
『ミッション失敗』
『再試行しますか?』
……は?
違う。
待て。
リセット条件は「全滅」のはずだ。
生存者が一人でもいれば、ループは終わるはずじゃ……。
そこで、僕は思い出した。
最初のループ。一番最初の記憶。
僕は、何と願った?
『神様、お願いだ』
『全員、助けてくれ』
――契約違反。
僕の願い(契約)は「生存」ではない。
「全員救助」だったのだ。
だから、権藤が死んだ時点で、このループは「失敗」と判定された。
「……ふ、ざける……な……」
光が消える。
救助隊の声が遠のく。
美咲の温かい手の感触が、砂のように崩れ落ちていく。
まだ、終わらない。
この地獄は、僕が「全員」を救うまで、永遠に終わらない。
ドォォォォォォン!!
十九回目の衝撃音が、僕の絶望をあざ笑うように鳴り響いた。




